第24話「開いたままのファイル」
深夜のカフェは空いていた。
閉店まで一時間。他の客は二組だけ。蓮と陽菜は窓際の席に向かい合って座っていた。
陽菜がコーヒーに口をつけながら、蓮を見た。
「帝都物産のファイル、まだ開いていますか」
「照合中です」
蓮は目を閉じた。
記憶の中を歩く感覚がある。広大な倉庫の中を、懐中電灯一本で歩くような感覚だ。
【記録照合:202X年6月14日 16:02】
あの日の午後。前職のオフィス。黒川が会議室から出てきて、蓮に書類の束を渡した。
「これ、シュレッダーにかけておけ。古いデータで使えない」
束の厚さは三センチほどだった。数字の羅列が並んだ資料だった。当時の蓮にはその意味がわからなかった。ただ、指示通りにシュレッダー室に持っていった。
シュレッダーの刃が紙を噛む音。規則的な、乾いた音。
黒川の香水の匂いが、廊下に残っていた。甘すぎる、鼻につく匂い。
【記録:当該資料の内容、完全保存済み】
シュレッダーにかける前に、蓮は一度だけ読んだ。当時は意味がわからなかった。でも読んだものは、全て頭に入っている。
数字の羅列が、今、意味を持ち始めた。
「出てきました」
蓮は目を開けた。
陽菜が身を乗り出した。
「三年前、黒川部長がシュレッダーにかけさせた資料の内容を覚えています。当時は数字の羅列だと思っていました。でも今、瀬川商事の不正データと照合すると」
蓮はテーブルにペンで数字を書き始めた。
「この口座番号の末尾、石倉の経費書類に出てきた架空法人の口座と四桁一致しています。この取引日付、瀬川商事の裏契約書と同じ月です。そしてこの社名」
蓮がペンを止めた。
「帝都物産の子会社の旧社名です」
陽菜が息をのんだ。
「つまり」
「三年前から、帝都物産は複数の会社に工作していました。競合他社の情報を買い、内部に人間を仕込み、有能な社員を排除するよう誘導する。黒川部長がその工作を受けていたかどうかはまだわかりません。でも少なくとも、その証拠を隠滅させられていた」
陽菜はしばらく黙っていた。
知的な興奮が、その目に灯っていた。怖い、という感情ではなかった。これだ、という確信の光だった。
「……あなたは三年前から、彼らの首根っこを掴んでいたのね」
「掴んでいたわけではありません。ただ、読んだものを覚えていただけです」
「それが」陽菜は静かに言った。「一番怖い」
蓮はペンを置いた。
「一つ聞いていいですか」
「なんですか」
「お父さんについて、あなたが知っていることを教えてもらえますか」
陽菜は少し固まった。
「……なぜ今」
「情報の交換です。俺が持っている記憶と、あなたが知っている事実を合わせれば、全体の構造が見えてくるはずです」
陽菜はコーヒーカップを両手で包んだ。
しばらく窓の外を見た。それから蓮を見た。
「父は七年前、帝都物産の代表と一度だけ会食をしています。私はその場にいました。父は後から『あれは失敗だった』と言っていた」
「失敗、というのは」
「父の言葉を借りれば『向こうのやり方が汚すぎた』。父は断ったと言っていました。でも」
「でも?」
「断った後も、石倉が動き続けていた」陽菜は静かに言った。「父が断った後、石倉が独自に帝都物産と繋がった可能性があります」
蓮は記録した。
【記録:202X年9月14日 23:41】
瀬川義隆、七年前に帝都物産との会食。その後、関係を断絶した可能性。石倉が独自に帝都物産と繋がった可能性、有力。瀬川会長の関与形態:黙認ではなく、石倉の独走を把握していなかった可能性へ修正。
「お父さんは、石倉が何をしているか知らなかったかもしれない」
陽菜の目が、わずかに揺れた。
「……そう思いたいのは確かです」
「感情の話ではありません。データとして、その可能性が上がりました」
陽菜は少し笑った。今夜一番、力の抜けた笑顔だった。
「あなたと話していると、感情を持つことが非効率に思えてくる」
「そんなことはありません」
「なぜ」
「感情がなければ、あなたはここまで動かなかった。お父さんを守りたいという感情が、この調査を動かした。感情は非効率ではない。燃料です」
陽菜はしばらく蓮を見た。
それから静かに言った。「続けましょう。全部、明らかにするまで」
同じ夜、前職のオフィスの裏口で。
黒川が電話をしていた。
声を潜めていた。周囲を確認しながら。
「例の件、助けてくれ。田端商事が違約金を言い出した。このままじゃ俺が全部被ることになる。篠原の代わりは、あの資料さえあれば何とかなると思うんだ。協力してくれないか」
電話の向こうで、何かが答えた。
黒川の顔が、少し緩んだ。
「そうか、じゃあ明日の夜に」
翌朝、田中からチャットが届いた。
『篠原さん、昨夜黒川部長が帝都物産の人間と会ったみたいです。深夜に外で。私、偶然見かけて』
蓮は少し考えた。
帝都物産。
石倉が口にした名前。三年前の資料に出てきた名前。そして今、黒川が接触した相手。
点が、線になりつつある。
蓮は返信した。
『放っておいてください。彼は自分で自分の首を絞める、適切な場所を選んだだけです』
田中からすぐに返信が来た。
『……篠原さん、なんか怖いです。でもわかりました』
蓮はスマホを置いた。
黒川が帝都物産に泣きついた。
それは黒川にとっての「助け舟」のつもりだろう。でも実際には、自分から証拠の網の中に入ったことになる。帝都物産と接触した事実が、また一つ記録に加わった。
意図していない。でも結果として、黒川は自分で動いた。
その頃、郊外のファミレスで。
母と麻衣が向かい合っていた。
和解したわけではない。でも「共通の利益」があれば、人間は手を組む。
「蓮の今の会社、コンサルなんですって」母が言った。「桐島って人の会社。調べたら、最近大きな案件を取ってるみたい」
「儲かってるんですか」
「そうに決まってるじゃない。あの子、頭だけはいいから」
麻衣はコーヒーをかき混ぜた。
「蓮くんって、精神的に不安定なところがあるじゃないですか」
母が顔を上げた。「どういうこと」
「記憶が異常なのって、普通じゃないじゃないですか。病的な部分があるって言えば、医師の診断書を取れるかもしれない。そうしたら後見人として、財産の管理を申請できる」
母の目が光った。
「……それ、できるの?」
「知り合いに聞いてみます。ただ、それには蓮が本当に問題のある行動をとったという証言が複数必要で」
「証言なら、私がいくらでも」
「私も協力します」
二人は声を落とした。
ファミレスの喧騒の中で、計画が静かに動き始めた。
深夜、蓮はデスクに向かっていた。
三年前のシュレッダー室。あの音が、頭の中で再生された。
紙を刻む乾いた音。黒川の香水の匂い。自分の手が、無意識に資料を一ページずつめくった感触。
当時は意味がわからなかった。
でも全部、頭の中にある。
蓮は静かに思った。
三年前はゴミだった。
でも今は、あなたたちの遺書だ。
第24話 了
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