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【完結済】「俺だけが全部覚えている~三年分の搾取を、事実だけで清算する~」  作者: 志喜  陽斗
第二章「静かな助走」

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第23話「神の監査、あるいは宣告」

 月曜日の朝から、瀬川商事の空気が変わっていた。

変えたのは蓮ではない。

蓮はただ、歩いているだけだった。

【記録:202X年9月14日 09:11】

第三営業部、デスク列左から四番目。社員・村松。蓮が通過した瞬間、画面を最小化。直前まで開いていたファイル名の残像:「接待費_修正版_v7」。修正版が七稿目に達している案件は、通常存在しない。

【記録:09:14】

経理部、窓際。社員・橋本。蓮と目が合った瞬間、引き出しを閉める。閉める速度、通常動作の二倍以上。中に隠したいものがある。

【記録:09:17】

第三営業部、石倉のデスク。不在。朝九時台の不在は、今週三回目。パターンが崩れている。

蓮は何もしなかった。

ただ記録した。

でもその日の昼前、村松が総務部長室に自ら足を運んだ。橋本が経理部長に「確認したいことがある」と申し出た。二人とも、蓮に何か言われたわけではない。ただ、見られた気がした。それだけで、動いた。

陽菜がコーヒーを持って蓮のデスクに来た。

「今日だけで、二人が自主申告しました」

「知っています」

「あなた、何かしましたか」

「何もしていません」

陽菜は少し笑った。「それが一番怖いのよ」

昼過ぎ、黒川からメールが届いた。

件名:「ご相談があります」

本文を開かなかった。

送信者アドレスを確認した。前職のドメインだった。

蓮はそのまま、迷惑メールの自動振り分け設定を開いた。送信者アドレスを登録した。

以後、黒川からのメールは受信箱に届かない。

【記録:202X年9月14日 12:44】

黒川部長からの連絡、迷惑メールとして自動振り分け設定完了。優先度:最低。更新予定:なし。

夕方、陽菜が蓮を呼んだ。

「今夜、動くと思います」

「石倉部長ですか」

「はい。今日の午後、彼が総務部の鍵管理担当と話しているのを見ました。書類倉庫の鍵の確認をしていた」

蓮は少し考えた。

【記録照合:石倉誠、パニック時の行動パターン】

過去三回の社内調査時。いずれも調査開始から五日以内に「書類の整理」を名目とした倉庫への単独アクセスを試みている。今回は調査開始から四日目。パターンと一致。

「今夜、飲み会がありますね」

陽菜が目を細めた。「なぜ知っているんですか」

「先週、石倉部長が部下に『今週の金曜、取引先との会食がある』と言っていました。アリバイ作りです。ただ」

「ただ?」

「その会食の店、予約時間が十八時です。石倉部長の過去の会食記録を見ると、一次会は平均九十分で中座することが多い。つまり十九時三十分前後に抜け出す可能性が高い」

陽菜はしばらく蓮を見た。

「書類倉庫に向かう想定時刻は」

「十九時四十五分から二十時の間」

「……わかりました」陽菜は立ち上がった。「私も行きます」

「一つお願いがあります」

「なんですか」

「昨日の十五時二十二分に、書類倉庫で帝都物産との契約書類を確認しました。原本に印をつけておきました」

陽菜が止まった。

「……いつから、わかっていたんですか」

「石倉部長が倉庫の鍵を確認し始めたのは、三日前からです」

陽菜は何も言わなかった。

ただ、蓮を見た。

もはや驚きではなかった。確信だった。この男なしでは、自分はここまで来られなかったという確信。

夜、書類倉庫は暗かった。

地下一階。窓のない部屋。棚に沿って書類が並んでいる。古い紙の匂いがした。

二十時二分。

ドアが開いた。

石倉が懐中電灯を持って入ってきた。背広のまま、ネクタイを緩めている。飲み会から直接来たのだろう。微かにアルコールの匂いがした。

棚の間を進む。目的の場所を知っている。迷わない足取りだった。

書類棚の最下段。石倉がしゃがんで、一つのファイルを引き抜いた。

帝都物産との契約書。

石倉がファイルを開いた。中身を確認した。

その瞬間、部屋の照明がついた。

「石倉部長」

石倉が振り返った。

蓮と、陽菜が立っていた。

石倉の顔から、血の気が引いた。ファイルを持つ手が、震えた。

「【記録:202X年9月14日 22:12】」

蓮は静かに言った。

「その書類は昨日の十五時二十二分に、私がコピーを取りました。原本には特殊なインクで印をつけてあります。紫外線ライトを当てれば確認できます」

石倉が後ずさった。棚に背中がついた。

「なぜ……なぜ俺がここに来るとわかった」

「あなたの焦燥感のピッチが、過去の失敗時のパターンと百パーセント一致していたからです。鍵の確認、アリバイの設定、中座のタイミング。全て記録していました」

石倉の顔が、赤くなった。それから、歪んだ。

「お前みたいな化け物は」石倉が吐き出した。「黒川さんの言う通り、排除されるべきだったんだ。人間じゃない、お前は」

蓮は少し間を置いた。

「【記録:黒川部長の発言】」

静かな声だった。

「確かに彼はそう言っていましたね。ただ」

蓮は石倉を見た。

「今のあなたは彼以上に無価値です」

石倉が息をのんだ。

「黒川部長は、少なくとも自分で判断していました。あなたは誰かの指示で動いていた。自分の意思で不正を選んだわけでもない。ただ、流されただけです」

石倉の膝が、わずかに折れた。

「俺だけじゃない」石倉が絞り出した。「俺だけじゃないんだ。黒川だって……帝都物産と、ずっと前から……」

蓮は記録した。

【記録:202X年9月14日 22:17】

石倉誠、発言。「黒川」「帝都物産」「ずっと前から」。三点の連関。

帝都物産。

その名前が、頭の中で光った。

どこかで聞いた名前だった。前職で。三年前に、黒川が「ゴミだ」と捨てさせた資料の中に、その名前があった気がした。

蓮は記憶を遡り始めた。

【記録照合:進行中】

陽菜が石倉を見た。その目は冷たかった。

「続きは、しかるべき場所で話してください」

石倉はもう、何も言わなかった。

ファイルを持ったまま、床にへたり込んだ。

倉庫を出た廊下で、陽菜が立ち止まった。

「帝都物産」

「はい」

「知っている名前ですか」

蓮は少し考えた。

「記憶の照合中です。もう少し時間をください」

陽菜は蓮を見た。

「あなたの記憶が照合中という時、どんな感覚ですか」

「大量のファイルを高速で開いている感じです。ほとんどは一瞬で閉じます。でも時々、開いたままになるファイルがある」

「それが、重要な記憶」

「はい」

陽菜は少し間を置いた。

「帝都物産のファイル、開いたままになりましたか」

蓮は答えた。

「なりました」

陽菜の目が、暗い廊下の中で光った。

「続きを、聞かせてください」


第23話 了 


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