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「俺だけが全部覚えている~三年分の搾取を、事実だけで清算する~」  作者: ジキルぅ
第二章「静かな助走」

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第22話「壊れた歯車の悲鳴」

 深夜のオフィスは静かだった。

蓮と陽菜の二人だけが残っていた。他のスタッフはいない。照明は半分落ちていて、デスクのモニターだけが光っていた。

陽菜はコーヒーカップを両手で包んで、窓の外を見ていた。

丸の内の夜景。綺麗だった。でも今夜の陽菜は、それを見ていなかった。

「一つ聞いていいですか」

蓮が言った。

「なんですか」

「事実を、隠蔽しますか」

陽菜が蓮を見た。

淡々とした声だった。責めていない。怒っていない。ただ、確認している。それだけの声だった。

「……どういう意味ですか」

「お父さんが関与している可能性が高い。それを知った上で、調査を続けますか。それとも、ここで止めますか」

陽菜はしばらく蓮を見た。

「あなたなら、どうするの」

蓮は少し考えた。

「俺の記憶に、嘘を上書きするスペースはありません」

「たとえ、相手が身内でも」

「はい」

陽菜は視線を窓に戻した。夜景を見た。本当の意味で、今度は見ていた。

「父は」陽菜は静かに言った。「私が子供の頃から、数字には厳しい人でした。一円の誤差も許さない。そういう人でした」

「知っています」

陽菜が蓮を見た。

「知っている?」

「三年前の経済誌のインタビュー、瀬川義隆会長の発言を覚えています。『数字は人格だ。誤魔化した数字は、必ず人間を滅ぼす』。202X年〇月号、47ページ、三段目の発言です」

陽菜の表情が、少し崩れた。

「……皮肉ね」

「はい」

「それと」蓮は続けた。「一つ、追加で確認した事実があります」

「なんですか」

「20話で石倉の経費書類を確認した際、202X年8月の接待費の中に、ゴルフ場の領収書がありました。日付は8月17日、木曜日」

【記録:202X年8月17日 木曜日】

瀬川商事・公式スケジュール。義隆会長、取締役会出席。場所:本社22階会議室。時刻:14:00〜17:00。

「その日、お父さんは取締役会に出席していました。公式記録にあります」

「それが、何か」

「石倉の領収書のゴルフ場は、本社から車で二時間の距離にあります。同じ時刻に、二つの場所にはいられない」

陽菜の手が、少し止まった。

「つまり」

「石倉が使った接待費の相手は、お父さんではありません。別の誰かです。石倉の上に、もう一層あります」

【記録:照合完了】

お父様はあの時、別の場所で別の数字を動かしていました。瀬川義隆の関与形態、直接的な不正実行者ではない可能性。ただし、構造的な黙認の可能性は残存。

陽菜は目を閉じた。

安堵と、新たな恐怖が、混ざった表情だった。

「続けましょう」陽菜は目を開けた。「事実が全て明らかになるまで」

「わかりました」

蓮はパソコンの画面に向き直った。

深夜のオフィスで、二人の調査が続いた。

同じ時刻、前職のオフィスでは。

黒川が一人、デスクに残っていた。

田端商事向けの資料が、画面に広がっていた。篠原が作った引き継ぎ資料だ。何度読んでも、数字の「意味」がわからなかった。

なぜこの前提でこの計算をしているのか。なぜここでこの数字を使うのか。

背景にある思考の構造が、完全に欠落していた。

翌朝、田端商事との打ち合わせがある。

黒川は額に手を当てた。

「篠原さえいれば……!」

絞り出すような声だった。

でも誰もいないオフィスに、その声は吸い込まれた。

篠原がいない理由を、黒川は誰よりもわかっていた。退職届を受け取ったのは自分だ。引き止める素振りだけして、実際には引き止めなかった。有能な部下を正当に評価することを、三年間一度もしなかった。

その結果がこれだ。

翌朝の打ち合わせは、予想通り惨憺たるものだった。

田端商事の鈴木部長が、資料の三ページ目で手を止めた。

「黒川さん、この数字、半期前のデータですよね」

「え、あ、少々お待ちを――」

「少々ではなく」鈴木の声が低くなった。「このデータを使った提案は、現状と乖離しています。うちは今期の数字で動いています」

黒川が資料をめくった。何かを言おうとした。でも言葉が出なかった。

数字の意味が、わからないからだ。

「篠原さんは」鈴木が言った。「こういうミスは一度もなかった。彼はどこへ行ったんですか」

「それは……」

「教えていただけないなら、直接探します。うちは、信頼できるパートナーと仕事がしたい」

鈴木が立ち上がった。打ち合わせは三十分で終わった。

会議室を出た黒川の後ろで、麻衣が小声で言った。

「部長、どうするんですか、損害賠償とか言い出したら」

「黙れ」

「でも――」

「お前が余計なことをしたから、こうなったんだろ。篠原に色目を使って、結局逃げられて」

麻衣の顔が赤くなった。

「私のせいですか? 部長が三年間、篠原さんの手柄を横取りし続けたからでしょ」

「何を」

「みんな知ってますよ、社内で。ただ言えなかっただけで」

二人の声が、廊下に響いた。

周囲の社員が、視線だけをちらりと向けて、すぐに外した。

その夜、麻衣のスマホに母から着信が来た。

無視した。

また来た。また無視した。

三回目で、仕方なく出た。

『麻衣ちゃん、蓮に連絡してくれない? 今月の仕送りがまだ来てないのよ』

「おばさん、私も今それどころじゃないんです」

『どころじゃないって、どういうこと』

「会社でトラブルがあって。黒川さんが私のせいにしようとしてて」

『そんなこと知らないわよ。蓮に連絡してくれるの、してくれないの』

麻衣は天井を見た。

「できません」

『なんで』

「蓮くんは私の連絡をブロックしてるんです。おばさんの番号も、たぶん」

沈黙。

『……じゃあどうしろっていうの』

「知りません」

麻衣は電話を切った。

スマホを投げるように置いた。

同じ夜。

蓮のスマホに、通知が届き続けた。

母から。麻衣から。黒川から転送された田端商事の苦情メールの写しを送ってきた田中から。

蓮はそれを見なかった。

画面をスクロールして、全件を選択した。

アーカイブ化した。

受信箱が、静かになった。

【記録:202X年9月13日 23:17】

旧世界からの通知、全件アーカイブ化。更新予定:なし。

陽菜のメッセージだけが、残った。

『明日、続きをやりましょう。おやすみなさい』

蓮は短く返した。

『おやすみなさい』

スマホを置いて、電気を消した。

静かな夜だった。

頭の中で、新しい記録だけが走っていた。

翌朝、蓮は瀬川商事のフロアを歩いた。

いつも通りの朝だった。社員たちがデスクにつき、パソコンを立ち上げ、コーヒーを飲んでいた。

でも蓮が廊下を歩くと、何かが変わった。

【記録:09:03】

廊下、左側の社員。蓮の視線が向いた瞬間、タイピングを止める。画面を切り替える動作。経費書類の改ざん作業中の可能性。

【記録:09:04】

給湯室前、三名が会話中。蓮が通過した瞬間、全員が黙る。うち一名、石倉派閥の人間と特定済み。

【記録:09:05】

窓際のデスク、中年男性。蓮と目が合った瞬間、書類を引き出しにしまう。動作が速すぎる。隠したいものがある。

蓮は何もしなかった。

ただ、歩いた。

でも通り過ぎた後、三人が小声で何かを言い合うのが聞こえた。

「……あの人、何を見てるんだ」

「わからない。でも、なんか怖い」

「目が合っただけなのに、全部見透かされてる気がした」

蓮は聞こえていた。

でも振り返らなかった。

ただ歩き続けた。

次の事実を探しながら。


第22話 了 


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