誰が悪魔を殺したのか?③
事務所に顔を出すと、阿部が顔を会わすなり、「藤川さん、おはようございます。私、事務所を辞めます」と切り出した。
「事務所を辞める?」
「杉山さんはもう、事務所を辞めたみたいですよ。沈む船からはゴキブリも逃げ出すって言いますものね。実久ちゃんも早く辞めた方が良いよ~って言われました」
ゴキブリではなくて鼠だろうと思ったが、阿部に言っても無駄だ。多少、天然なところが、阿部の魅力でもある。
やはり杉山は辞めたようだ。副所長の渡川が所長となり、事務所を引き継ぐことは公になっている。渡川と馬が合わないと言っていた杉山が辞めるのは、時間の問題だった。
「杉山さん、渡川さんと合わなかったらしいからね。渡川さんが連れて来たのに」と言うと、「えっ⁉」と阿部は目を見開いて「違いますよ。どこかの会社のお偉いさんから紹介を受けて、杉山さんを雇ったと渡川さん、言っていましたよ~私、渡川さんに頼まれて、アポを取りましたから」と言った。
どこかの会社の幹部から紹介を受けた?
「へえ、何処の会社?」
「う~ん。保険会社だったと思いますけど・・・」
「保険会社?」
「なりた・・・さんじゃなくて、なり・・・」
「成安生命?」
「ええ、そう、成安さん。成安生命の成安さんだったと思います」
杉山は成安生命の紹介を受けて、事務所にやって来た!成安生命と言えば、辻花家と縁の深い大阪の会社だ。もっと言えば先祖をひとつにする、同族会社だ。
鬼政が言っていたスパイは杉山だったのだ。辻花家が成安生命を使って、杉山をスパイとして送り込んで来た。杉山が来てから、一年以上、経つと思う。随分、昔から計画を練っていたことになる。いや、井上晴秀の殺人事件が起こったのは、今から四カ月前だ。彼らは弓月をおびき寄せる口実ができるのをじっと待っていたのかもしれない。
用意周到に仕組まれた罠だった。井上晴秀の殺人事件の調査を担当したのは杉山だった。弓月が簡単に騙された訳だ。
杉山と話をした時、脳味噌に釣り針が引っ掛かったような違和感を覚えた。今、その正体が分かった。頭の中で雷が落ちたような気がした。
あの時、杉山は言った。田口が怪しいと思う。やつが弓月を殺した犯人じゃないかと。鬼政に口止めされていたので、辻花高寛から聞いた話は杉山には教えなかった。つまり、杉山が田口の名前を知っていたはずがないのだ。
黙り込んだ俺に、「藤川さんはどうします?」と阿部が無邪気な笑顔を向けた。
「えっ⁉何を?」聞いていなかった。
「藤川さんはどうします?仕事、続けるのですか?」
「う~ん」正直、何も考えていなかった。咄嗟に、口をついて出たのは、「弓月を殺した犯人が捕まるまで、ここにいようかなと思っている」という台詞だった。言ってから、それが本音だということに気が付いた。
鬼政と一緒に捜査の真似事をすることが楽しくて仕方がない。
「事務所を辞めてどうするの?」と尋ねると、「実家を手伝います」と阿部が答えた。
実家は確か、パン屋だったと思う。
「結局、ジムに連れて行ってくれませんでしたね」阿部が明るく言う。
俺がジム通いしていることは、皆、知っている。そう言えば、昔、飲み会で阿部に「ジムに連れて行って欲しい」と頼まれたことがあった。阿部は小柄で細身、風が吹けば折れてしまいそうな華奢な子だ。その時は、本格的なジムよりフィットネスクラブで十分だと答えたと思う。酒の席での戯言だと思っていた。
「えっ⁉」驚いた。
まさか、彼女、俺のことを、感情が乱れ、動悸が早くなる。
「パンを買いに行くよ」と言うと、阿部は「無理しなくても良いですよ。家から遠いでしょう」と笑った。
俺が何処に住んでいるのか知っている。
「住所を教えてよ。通うから」と言うと、阿部は「はい」と子供のように返事をした。




