第50話 高圧実験
朝、トイレに行きたくなって目を覚ました。見慣れぬ部屋、一人っきりである。頭も痛い。
思い出した。私は今、SHELつくばキャンパスに扶桑女子大・物理学校合同セミナーの引率で来ている。談話室で気持ちよくお酒を飲んでいたことを思い出した。
用をたしてシャワーを浴びる。建物は古いが清掃が行き届いていて快適である。東海キャンパスの宿泊施設のほうが新しいが快適さは変わらない。時計を見るとあんまり余裕はないので、着替えをし、荷物をまとめる。
階段を降りて共用棟談話室へ行くと澤田先生がお茶を飲んでいた。
「おはようございます。早いですね」
「ああ、朝食をとったらもう川崎へ帰らんとならん」
「たいへんですね」
「うん、この出張を理由に会議サボりたかったんやが、だめやった」
「たいへんですね」
「ほとんどくだらん議題なんやけど、たまに重要なのが混じっとるから油断がならん」
「そういうもんですか」
「そういうもんやで。それよりあんた、昨日もご活躍やったな」
「はい?」
「あんた、学生つかまえて説教しとったよ」
「はあ」
「その反応だと、ときどきやっとるようやな」
「はい……」
男子学生が一人おりてきた。
「聖女様、おはようございます」
「おはよう。澤田先生にもごあいさつしないと」
「あ、すみません。おはようございます。つい、昨日のお礼を言いたくて」
「お礼?」
「はい、聖女様のおかげで覚悟がきまりました」
「そう、よかったね。で、なんの話したの?」
「いや、それはちょっと」
彼はなんか逃げていった。
似たようなことを数名繰り返し、私は一人で東海村に帰りたくなってきた。そんなところに一人の男性がやってきた。
「おはよう、聖女様」
私の顔には「誰」と書いてあったに違いない。
「やっぱり忘れているか、福岡の近江です」
「あ、すみません、飲みすぎました」
近江先生といえば高圧下における低温実験の権威である。私も高温超伝導体や重い電子系物質の論文を何本か読んでいる。
「ははは、じゃあ昨日の話も忘れてるな。たしか君は旦那さんたちと一緒に、高温超伝導体の格子定数をいじった実験を中性子でやってたよね」
「去年の春の学会で発表したやつですか?」
「そうそう、それ。あれ、圧かけてみない?」
私はすぐに了承しそうになったが、なんとかまともな返事を出すことができた。
「いいお話だと思うんですが、網浜先生に聞いてみないと」
「そうだよね、連絡してみてくれないか」
「わかりました」
いつの間にか横に修二くんがきていてペコペコしている。近江先生は笑って、
「修二くん、君の言う通り何も覚えてなかったよ」
と笑顔で言った。澤田先生は、
「この子はお酒さえ飲まなければいい子なんですが」
と頭を下げ、近江先生は、
「ははは、お酒でも物理、いいじゃないですか」
と笑って近江先生は去っていった。
「実験の話よろしくね」
近江先生は振り返ってそうおっしゃった。
ほっとしたところで二日酔いが戻ってきた。
朝食を摂ったところで澤田先生は川崎へ帰っていった。駅まで送ると申し出たのだが、
「バスでええ」
とおっしゃっていた。
そして東海村から迎えの観光バスが来ていて、私と修二くん以外はみな観光バスで移動となる。バスの座席について私は男女ペアでの着席を提案していたのだが、流石にやり過ぎということで却下されてしまった。語り合うにはいい機会だと思うのだが。
「修二くん、運転お願い」
「はいはい、わかってるよ」
二日酔いで運転するわけにはいかない。
観光バスの後ろを修二くんはついていく。常磐道に入るループ部分で、修二くんは車の方向の修正をアクセルでやっている。
「修二くん、もしかして、お父さんに運転教わった?」
「ああ、去年ね」
「もしかしてお父さん、結構来てたの?」
「うん、ほぼ週一くらいかな」
「ふ~ん」
父が修一くんを気に入って足繁く通ってきていたのか、それとも他の理由でもあったのか、私にはよくわからない。
「杏、ついたよ」
「へ?」
気がついたら車はもう、見慣れたSHEL東海キャンパス内に入っていた。寝ていたらしい。
「ごめん、ずっと運転してもらっちゃって」
「ははは、ここのところこのセミナーのため、がんばってたもんね」
「わかってたの?」
「一緒に住んでるんだもん、わかるよ」
「あ、ルドルフにも負担かけてたかな?」
「どうかな? あいつは頑張る杏を見てるの、好きみたいだよ」
「そっか、でも今度の休み、しっかり遊んであげるわ」
「それがいいね」
東海キャンパスで最初に見学するのは陽子加速器である。陽子加速器は物質・生命科学研究にも使われているが、原子核の研究にも使われている。なお、東海村の陽子加速器の前身は今朝まで滞在していたつくばキャンパスにあった。その陽子線は医療にも用いられ、現在普及しつつある癌の重粒子線治療の先行研究・開発をになっていた。そのあたりも説明をうけた。もちろん陽子加速器のビームは中性子源としても使われ、現在のSHELの物質・生命科学部門の建設に貢献している。
陽子加速器は運転中だから見学は外側だけ、すぐに会議室を使って陽子線を原子にあてる実験についてのセミナーになった。原子核は私の専門外だが、計算によるシミュレーションには興味が湧いた。




