第37話 所長室
爽快な目覚めの朝、修二くんは意外なことを言った。
「杏、昨日言い忘れたけど、ぼくも今日一日所長室なんだって」
「そうなの? 実験いいの?」
「うん、榊原先生がなんかたくらんでるっぽい。状況をいちいちSNSで報告しろって」
SHELの所長室は、敷地の北側の大きなビルの中にある。管理棟と言う名前だ。中性子実験施設は南寄りなので、あまり来ないエリアだ。指定された駐車場に車を止め、久しぶりに管理棟に入る。エレベーターで上がり、8時50分に所長室に到着した。ノックして返事を聞いて入室する。
「おはようございます、唐沢です」
すると女性職員が迎えてくれた。
「おはようございます。秘書の大垣です。所長はもう出勤されています。どうぞこちらへ」
所長室はさすがにいつもの研究室とは違い、結構広い。入口すぐに秘書の大垣さんのデスクがあり、部屋には大きな会議テーブル、応接セット、窓際にはデスクがもう一つあって菅野先生が笑顔で立ち上がった。
「おはよう。よく来てくれた。今日一日よろしくね」
「こちらこそよろしくおねがいします」
二人で頭を下げる。
「君たちはここを使ってくれ」
会議テーブルへと案内された。
「コンセント、ここね」
ここにパソコンを置けという意味と解釈し、さっそくノートパソコンを出し立ち上げる。
「地震が起きたらテーブルの下にすぐ逃げてね」
「先生、この建物やばいんですか」
「建物は大丈夫だけど、書籍と書類が降ってくる」
振り返ると壁に設置された書棚は、本とか書類とかがぎっしりと入っていた。
「手が空いたときは勉強してていいからね、書籍は勝手に読んでいいよ。声掛け無くていいからね」
「ありがとうございます」
「だけどちょっと、もうひとりの所長に挨拶しに行こう」
SHELは実は、東海村の原子力の国立研究所の敷地に間借りしている。SHEL設立以前からここの研究所の原子炉を使って中性子散乱実験も行われてきたし、ウラン系化合物の合成もやってきた。だから東海村は、米国でいうと軍事ぬきのロスアラモスみたいな立ち位置にいるのだ。榊原先生や修二くんが手掛けている重い電子系物質は、ウラン系化合物であることが多い。そのもう一人の所長に会うために、廊下に出たら向かいの部屋が所長室だった。
「小河先生、例の二人、連れてきました~」
「はいは~い」
小河先生は作業服にネクタイという、この研究所でよくみる姿だった。
同じ敷地に原子力の研究所とSHELという科学の研究所が同居しているのだが、ひとりひとりの職員がどちらの所属なのかは見たらすぐわかる。小河先生のように作業服にネクタイならまずまちがいなく原子力、私や修二くんのようにラフなかっこうならSHELだ。菅野先生は立場的なものもあるのか、スーツにネクタイであった。
「おはようございます、唐沢修二です」
「おはようございます、唐沢杏です」
「おはよう、おうわさはかねがね」
どんなうわさだ?
「なんか菅野さんのところでこき使われるみたいだね。いやんなったらいつでもこっちにおいでね」
「小河さん、かんべんしてくださいよ。こきつかいませんよ」
「まあ冗談はともかく、ポスドク終わったら、こっちこない? 二人いっぺんに採用するよ」
「小河さん、悪魔の誘惑やめてください」
「いやあ、とにかくあれ以来、人が来てくれなくてさ」
小河先生のおっしゃる「あれ」とは、大震災のことである。福島の原発が津波でアウトになってしまい、いまだにその後の処理で苦労しているのだ。福島の発電所は発電の民間会社、ここは国の研究所であるが、国全体の原子力行政の技術的中心地であるから無関係ではいられない。
菅野先生の所長室にもどったら、さっそく先生から指示が来た。
「手っ取り早いのはビデオ会議だね。澤田先生と吉岡先生、ビデオ会議なるべく早くセッティ
ングしてくれ。できれば午前中」
私が澤田先生、修二くんが吉岡先生に電話を入れると、十時からビデオ会議できることになった。それを報告すると、
「じゃあ十時までに、きみたちなりにこのセミナーの素案を考えてみてくれ。基本的にはそれをSHEL側の案にするから」
「先生のご要望は?」
「途中でのぞかせてもらうから、なんか気がつけばその時言うよ。あ、SHELの団体見学とかセミナーの資料は、このへんかな」
先生は書棚の一角を教えてくれた。
「事務的なことで細かいことは、ぼくより大垣さんのほうが詳しいから」
そう言うと菅野先生はデスクに戻り、ご自身のお仕事を始められた。
「杏、まずはセミナーの資料、読ませてもらおう」
「そうだね」
細かい規則なんか読む時間はないから、過去の例を見たほうが早い。
過去の例では高校生や大学生を対象にしたセミナーが多かった。残念ながらSHELでの実施例は少ない。ほとんどがつくばでやっていて、会議室での講義、施設見学だけでなく、ビジター用の宿泊棟で宿泊とか、職員食堂での懇親会とかやっていた。このあたりはそのまま真似できそうだ。
修二くんが小声で言う。
「榊原先生がね、1日目つくば、2日目東海村、東海村の最後に物質・生命科学実験棟見学にしろって厳命された」
「それなんか企んでるね」
「うん、でも時間的に不自然さはないからね」
とりあえず作ったスケジュールは、
朝10時、つくば駅集合、予約したタクシーでつくばキャンパスへ移動
午前中、加速器関係の講義
昼食後、放射光の講義の後、放射光施設・電子陽電子シンクロトロン見学
夕食後、そのまま食堂で懇親会、宿泊
二日目朝に中性子とミューオン関連の講義、その後東海村へ移動
東海村で物質・生命科学実験棟見学、東海駅で解散
あと15分でビデオ会議となったころ、菅野先生が私達のところにやってきてできかけのスケジュールを見てくれた。
「問題は交通手段だね」
「そうなんです。つくばも東海村も敷地が広いので、マイクロバスでもチャーターできればいいのですが、予算の問題が」
「そうだね、バスで所内移動できると楽だね。SHELについては許可が面倒だけど、早めに業者を選定できればなんとかなるだろう。一般公開でお願いしている会社なら、許可が早そうだ。予算は扶桑も物理学校も私学だから、なんとかなるんじゃないかな」
「そういうもんですかね」
「うん、あとバス会社は、2日間で同じところに頼む必要はないと思うよ」
「なるほど」
10時になった。
「澤田先生、吉岡先生、おはようございます」
ビデオ会議出席者で最年長は澤田先生、最年少は菅野先生なせいか、菅野先生が丁重に会議を始めた。




