その32 『そして夢の中へ』
ぐらりぐらりと揺られて、まどろみの中から抜け出す。目を開けると、そこは見知ったイユの部屋だった。
「夢……?」
――――そうだったなら、どれほどよいだろう。
右腕を見やると、綺麗すぎる素肌が目に入る。何年もこの身に焼かれていた烙印から解放されたのだと意識する。
意外とあっけないものだ。もう消えないものだと思い込んでいた。必死になれば、案外どうとでもなるものである。
けれど、これで解放されたという気にはもうなれなかった。烙印がなくなったとしても、あのときの記憶は変わらずイユを蝕み続けるのだろうと分かってしまったからだ。
足の底から忍び寄る冷たい空気に、布団を抱え込む。別のことを考えようとして、レパードに掴まれていた部分が痣になっているのに目を止める。意識を集中させれば、あっという間に消えていく。ふっと息をついた。
頭が満足に動くようになったのを感じて、自分自身が生きているという現実に向き直る。あの流れならば、殺されていてもおかしくなかったはずなのだ。それとも、ここはまだリバストン域なのだろうかと首を捻る。
何か情報がないかと考え、ひとまず起き上がる。そこで、体が少し痺れていることに気が付いた。紫色の光を思い返せば、レパードの魔法のせいだろうかと推測できる。
続いて、自身の格好を見下ろし、状態を確認する。黄色のドレスがあちらこちら焼け焦げてしまっている。袖もひきちぎられてしまってぼろぼろだ。着替えさせられていたら、生かすつもりだと判断がついたが、そうではない。気を失っていた時間が案外短いのかもしれないと思ったが、明確には分からない。
更なる情報を求めて、扉へと視線をやる。見た限りでは今朝から何も変わっていない。まさか開くのだろうかと、そう疑問が浮かんだ。普通に考えて、危険な異能者を野放しにするような考えはしないはずだ。閉まっていると考えるべきである。
しかし、この部屋は内側からでも鍵を開けてしまえるのだ。
ごくりと唾を呑み込んだ。試されているのかもしれないとの考えが過ぎる。扉を開けたら最後、危険な異能者と判断されて即座に始末されるのだ。
首を横に振って、愚かな考えを追いやる。わざわざそのような手間を掛ける必要がない。相手は魔術師ではないのだ。遊び感覚で人を始末する趣味は、レパードたちにはないと思いたい。
立ち上がったイユは、試しにドアノブに触れる。
火花が散り、思わず手を放した。
「何?」
初めは静電気かと思った。もう一度ドアノブに手を伸ばす。
紫の光が爆ぜ、衝撃に尻餅をつく。握った手を見ると、火傷のような痕ができていた。
「起きたのか」
扉の向こう側で、レパードの声がする。
「ドアノブには触れるなよ。下手すると感電死するからな」
言うのが遅い。わざとだろうか。
「これがあんたの魔法?」
聞くと同時に、船が揺れ地面にへばりつく。リバストン域からはでていないらしいと、想像できた。
「そういうことだ」
「船はどうなっているの?」
「聞いてどうする」
どうしようもないが、落ちる船にはいたくないと考えるのは普通のことだろう。
イユの思考を読んだように、扉の向こう側で喉を鳴らせて嗤う声が聞こえる。
「心配しなくても落ちやしないさ」
「今さっき揺れたばかりじゃない!」
イユの文句に、笑い声が消えた。
「多少は我慢しろ。全部が全部同じ軌道で動いているわけじゃねぇんだ」
一部の飛行岩がぶつかってきているだけで蜂の巣にはされないから我慢しろということらしい。その一部でもぶつかった場所によっては致命傷になると思うのだが、口を開こうとしてやめた。下手に刺激すると殺されるかもしれないという空気を感じ取ったのだ。
とはいえ、ずっと黙っていられるほどにはイユの神経は図太くない。レパードたちがイユをどうするつもりなのか知りたくて、恐る恐る聞いてみる。
「どうして私を殺さなかったの? ……まだリバストン域だから?」
「今すぐにでも、殺すかもしれねぇぜ」
物騒な発言に、口を閉じた。下手な返しはできずにいた。だからただ待っていると、ため息とともに「感謝しろよな」とレパードから発言があった。
「大反対した二名のおかげだよ」
二名。浮かんだのはリュイスとリーサだ。実際はどうなのか知らない。教えてもくれなかった。
「あと、お前を爆死させなかった魔術師のおかげか?」
からかい口調で言われるが、笑うことなどできない。とはいえ、こうして生きているということはそのまま証拠になるのではないかとも思うわけだ。
「どうなの?」
聞くと、「否定はしないな」とレパード。
「しかし、確証には至らない。悪いがインセートまでは連れていけないぜ」
そこまで聞いて、リバストン域を抜けた後も殺されることはないらしいとはっきりと悟る。
だが、それでは最初とは約束が違う。
イユの心情を知って知らでか、レパードから補足が入る。
「約束はお前がイクシウス関係者でなかった場合の話だ。ギルド内に危険な人物を連れ込みたくないし、長い間一緒にいるのもごめんだ」
インセートまで行かない、しかし殺されもしない。そうなるとイユはどうなるのだろう。
「イニシアだよ。イニシアでお別れだ。あとは逃げるなりイクシウスに戻るなり好きにしてくれ」
誰が戻るかと反論しかけて、気付く。
「そこってまだイクシウス領……」
「そうだ。イクシウス領だからイニシアで下ろすんだ。道理だろ?」
警戒が必要だと言っていた場所である。そこではだめだと真っ先に感じた。レイヴィートよりはマシかもしれないが、危険なのは変わりない。
このままでは、たった一人イニシアに置いていかれてしまう。そうなったら、イユはもう逃げ続けられないだろう。イニシアに着いてから他の飛行船を当たるにしても、そうそう運良く乗り込むことなどできやしない。ましてやそこに偶然イユと同じ立場の存在がいるような奇跡など、二度と起きないだろう。今こうして掴んだ状況は、他でもないありえないほどの幸運の積み重ねによってできたものなのだ。
実感してしまった。だからこそ、絶望に叩き落された気がした。
「それより、何かいるか? 凶器以外なら持ってきてやらないこともないぜ」
殺す殺されるの会話をしているのに、こういう親切をするレパードがよくわからない。
それから、時計を見て朝の八時を過ぎているのに気付く。なるほど、食事を所望だとそう思っているのかもしれない。
それよりも、やりたいことがあった。
「糸と針。あと黄色の布」
「は?」
意外な答えにレパードから素っ頓狂な声が上がった。
イユは一人、シャワーを浴びている。降り注ぐ湯が無性に優しく、切ない。船を下ろされたら今度はいつ入ることができるかは分からない。部屋のシャワーとの別れも近いことに気付いたので、レパードがいない間に入っておきたくなったのだ。生きる死ぬの瀬戸際にいたにしては呑気な考えだが、ここで入っておかないと暫く湯は見られない。
それにしても、と湯を止めながら首を捻る。
レパードがまさか本当にイユのお願いしたものを取りに行くとは思わなかった。却下してもおかしくはないというのに、リュイスの影響でも受けているのだろうか。レパードはそういうところで掴みどころがない。
バスタオルを体いっぱい羽織る。気持ちのよい触り心地にうっとりする。レパードのことなどどうでもよくなってしまうほどだ。それよりも、衣服を修繕できるのは純粋に嬉しい。今この瞬間だけはその嬉しいことで頭をいっぱいにしたかった。
準備しておいた服に着替えるときには、タオルの感触を離れ、現実に立ち戻る。考えなければならないことがたくさん残っている。
しかしどこか頭の芯が熱い。心が現実に戻ろうとしていないのか、それに合わせて体が少し重い。
浴室で髪を乾かしている頃には、不意に眩暈のようなものに襲われた。
「何?」
よろめきながら、自分で自分がよく分からず呟きが溢れる。
そこに、扉を開ける音がした。
はっとして覗くと、レパードがテーブルの上に籠を置いているところだ。
「……風呂場から覗かれるっていうのも、なんだか妙な気分だな」
何か投げつけてやりたくなった。
「ほら、置いておくから勝手に食べろよ」
「運ぶの、あんたの仕事なの?」
当たり前だ、とレパード。船長の仕事が配膳とは恐れ入る。
「他の奴だと襲われるかもしれないからな」
まるでイユが魔物だとでもいうような言い草に、余計なことを聞いた気分がした。
「それよりお前、ひどい顔だぞ?」
「え?」
鏡を見に行く。自分のことなのだが、驚いた。目は腫れ、顔は青白い。別人の顔を見ているようだ。悪い夢を見たわけではない。どちらかというと現実が悪い夢だ。
見ているうちに、ふわりとまた眩暈がしてよろめいた。そのせいで、洗面所の物置場に思いっきり頭をぶつける。
「……おい、大丈夫か?」
声がする。近づいてくる気配はない。警戒しているのだろう。イユがレパードの立場なら罠の可能性を疑う。
返事をしようとして、できなかった。先ほどまで普通に話せていたというのに、喉が急にしぼんでしまったかのようだ。仕方なしに浴室から出ることにする。見せたほうが早い。
「おい、イユ?」
よろめきながら進む。体が、鉛のように重い。何故と、散り散りになった思考で考える。風邪か何かひいたのだろうか。
そのとき、廊下から走る音と声が響いた。
「レパード! イユ、無事?」
どうして刹那がここにいるのだろう。
「なっ、刹那。ここには入ってくるなって……」
レパードの声が遠くに聞こえる。おかしい。体が痺れているのを感じる。レパードの魔法がまだ続いているのかと考え、すぐに取り消す。違う種類の痺れだと分かったからだ。これは知っている類のものだ。そう、これは――――、
「ナイフです!」
「リュイス、お前まで……!」
「レパード。イユ、どこ?」
ナイフと言われて思い出したのは、女に投げつけられたあれだ。
「毒です、ナイフに毒が塗ってあって……。それに刹那が、気が付いて……」
浴室から出ようとして、そのまま前のめりに部屋へと倒れ込む。
「イユ!」
全くついていないと思う。どうしてこうまで命の危険に晒されるのか。
「へ、いきだから」
言ったそばから意識が途絶えた。
意識をかき乱す熱さがあった。燃えるような、熱さだ。それは体中を動き回り、焼きつける。暑さ寒さは、基本的に感じないようにしていたつもりなのだが、まるで異能の制御も何もできない頃に戻ったかのようである。
瞼のすぐ上を汗が伝う感触がある。うっすらと目を開けると、心配そうに覗く蒼の瞳が目に入った。
刹那だ。言葉数の少ない彼女には珍しく、その口がぱくぱくと動いている。
しかしどういうわけだか、何を伝えようとしているのかイユにはさっぱりわからなかった。耳が馬鹿になったようである。異能で聞き取ろうと意識を傾けた。途端に、耳ではなく、視界が靄のかかったような状態になる。疑問を抱いたところに、唇に流し込まれる液体を感じた。
薬だと勘づいた途端、体がぞくっと反応した。無意識に吐き出そうとしたところで、舌まで満足に回らないことに気付く。せめてと体を起こそうとして、大きな手に肩を抑えられる。
異能だ。異能さえあれば。これくらいの力、押し返せる。
そう思った瞬間、思考が止まった。
意識が闇の中へ引きずり込まれる。現実から夢へと落ちていった。




