その31 『消せないもの(終)』
たったこれだけのことで、荒い息をついている。それを意識して、何故今こんなにも汗だくなのだろうと考えている自身がいる。小刻みに震える足と手を、できることならば見られたくはないものだ。
他者の視線が気になって見渡せば、息を押し殺したように静かな船員が目に入る。効果はあったのだろうか、あれだけ騒いでいたのが嘘のようだった。
船員に注意がいっていると、独り言のようなレパードの声が降ってくる。
「……お前自身がたとえそう思っていても、だ」
はっとして見上げると、無表情な顔でイユを見下ろすレパードの冷たい片目と目があった。
「魔術師たちはお前が考える以上に腐っている」
魔術師がどのような存在かはそれこそイユが身を持って知っている。
そう言おうとして、何かが違うことに気がついた。
「前にいたリアという異能者は俺らに密偵だとばれたとき、わけのわからないことを言いだした」
「わけのわからないこと?」
意図が読めない。レパードの言葉の続きを待つことしかできないでいる。
「『まだ機会をくれ、私はまだできるから殺さないでくれ』と、叫び続けたんだ」
光景が、目に浮かぶようだった。生きることにしがみつき懇願するしかできない異能者たちの最期が、耳に蘇った気がした。
「けどな」
そう告げて目を伏せるレパードの表情は、過去を掘り起こす痛みに歪んでみえる。
「あいつは爆死した。近くにいた他の船員を巻きこんで、な」
魔術師の仕業だとは、すぐに理解した。リアという異能者は何らかの手段で魔術師と接触をしていたのだろう。リアはまだやれると命乞いをしたのだが、魔術師がもう無理だと判断して、その命を摘みとった。
非道な行いに息を呑む。けれど、同情している場合ではない。レパードの言いたいことを理解して、イユは叫んだ。
「私は、爆弾なんか積まれてないわよ!」
何なら確認すればよい。そう言い張ろうとする。
「そうじゃない」
何がそうでないのかと、そう問おうとしたところで、言葉が続けられた。
「魔術師はその気になれば、本人の記憶のないところで暗示をかけることもできる」
それは初めて知る情報だった。繰り返しレパードの口が動く。
「お前自身がたとえイクシウス政府に指示されていないとそう思っていても、だ」
淡々とした口調が、イユの心を抉り取る。
「どうしてお前がその暗示にかかっていないと言い切れる?」
地面がなくなったような気がした。それでは身の潔白を証明する術がないどころではない。
ぞわりと肌が粟立つ。自身がその暗示を受けている可能性がある、その事実に気が付いてしまう。
こうなってしまっては、イユにはもう何も言い返せない。何か口にしたところで、全てが魔術師の名のもとに吸い込まれてしまう。
恐らく、レパードも同じことを考えたのだろう。銃を頭から眉間へと下ろされる。それで気がついてしまった。銃口が、全くぶれていないのだ。
レパードは決心してしまった。危険な存在からセーレを守ることを。
銃から目が離せない。引き金が引かれたときがイユの最期なのだ。死を呼ぶその音が聞こえるような気がする。目を開けて、その時を待つのは恐ろしく怖かった。身が竦むと同時にたまらず目を閉じる。
そのときだった。大きく地面が揺れたのだ。
片腕を握られていた状態のイユに、立っている余裕はなかった。膝に床の冷たさを感じ、眉間から銃が外れたことに気が付く。前方から聞こえる騒ぎ声で、船員たちも同様の衝撃を受けたのだと分かる。
更に、目を開けたイユは確認した。ちょうどヘリの向こう側に、月明かりを浴びて黒く光った飛行岩が顔を覗かせている。闇夜に紛れたそれがヘリを削り落とすように、擦っているのだ。それに合わせて飛行船が小刻みに揺れているようである。
飛行岩の近くにいた数人の船員が驚いたように飛び退いたのが見えた。それで、注意がイユから完全に外れたと気が付く。
逃げようかという思いが一瞬過ぎった。船外は無理だが、船内に逃げ込むことはできるかもしれない。このままでは確実に殺されるのだから、少しでも逃げられる手を考えるべきだ。
ところが、活路を見出すべく視線を動かした先でリュイスと目があった。翡翠の瞳が寂しそうにイユを見下ろしている。どちらが命を奪う立場にあるか分からない顔をしながら、このときでさえも目を離さないのだ。イユの退路を塞いでいるとしか思えなかった。
「船長、人員足りない!」
振り返ると、刹那が船内の扉を開けたところだった。イユをみて、足を止める。
「あぁもう、先にリバストン域を抜けるぞ! お前らさっさと動け!」
レパードが指示を出しながら、イユの握る手に力を込める。足に力を入れかけたイユを警戒してのものだろう。こうなると観念するしかなかった。もう、逃げるという選択肢はない。
誤魔化すように大人しく立ち上がったところで、続いて衝撃が訪れる。このままでは船が危ないと気付いた船員たちが船内へと駆け込んでいくのがみえた。
「イユ……」
「さぁ、リーサちゃんも……」
マーサに連れられて、リーサも中へ入っていく。
甲板に残されたのは、始めにそこにいた三人、イユとレパード、リュイスだけとなった。
「ったく、運がいいなお前」
意外なことに、そこでレパードは銃をしまった。膨らんでいたはずの殺意が身を潜めている。
つい助かったのかと考えてしまったが、理性ではそれが嘘だと分かっていた。
レパードが銃をしまったのは、それどころではないからだ。だから、リバストン域を抜けた後、イユは始末されるのだろう。レパードの決意は本物だった。
そう思っていても、銃をしまうというその行為に命の危機が薄れたように感じる。今このときばかりは危険なリバストン域にいることを感謝しなければならない。
ふと、レパードは空いた手で、帽子を直そうとする。くしゃりと潰すように手で帽子を押さえる時があるから、あれは癖なのかもしれない。しかしそれだけの動作に反射的に体が強張るのを感じた。気づけば、目を閉じてかばうような仕草をしてしまっている。
「ん?」
不思議そうな声が、イユの心を焦らせる。
「ち、違……」
何が違うのだろう。自身で言い訳をしながら自身に問いただす。
手を挙げる動作がちょうど鞭で打たれるときの動作に似ていた。レパードの殺意が再び膨らむのではないかと思っていたから、動作に体が勝手に反応してしまったのだ。自分の命が他者に脅かされたとき、振り下ろされた痛みが染み付いてしまっている。
そう、身体と心に焼き付いた記憶は、簡単には断ち切れない。いくら烙印という目に見えるものを消したところで、それは変わらない事実だ。
――――暗示もそうなのだろうか。
浮かんだ疑問とともにくらりと体が傾く感じがした。
ああ、やばい。
そう、気づいたときには足の力が完全に抜け甲板へと跪いていた。余計な動きは抵抗されていると勘違いされてすぐに撃たれることにつながる。そう思うからこそ、何をやっているのだと自身に言い聞かせる。早く立ち上がらなくてはならないのに、腰が抜けたのか立ち上がることさえできないでいる。
「レパード……」
振り仰ぐと、リュイスが不安そうな顔を向けていた。瞳が小刻みに揺れている。澄んだ宝石のようだからこそ、細い瞳孔が今までイユを見下ろしていたそれとは違うことに気がついた。
「ったく、お前も本当にお人よしだな」
何が言いたいのか、レパードにはその顔だけで伝わったのだろうか。イユには、差異があることしかわからなかった。
そもそも、リュイスの表情の意味など、考える間もなかった。レパードの、イユの腕を握っている手から紫の光がほとばしったのだ。
衝撃と共に目の前が真っ暗になった。




