その30 『烙印を押された者』
「すぐに離れろ。リュイス、お前もだ」
「ですが、レパードは……!」
「誰かがこいつを掴んでないといけないだろ」
まるで危険なものを扱うように、イユが魔物か何かになったかのように対応される。和らいだと思っていた船員たちの視線が突き刺さる。
レパードが余っている手で銃を取り出す気配がした。その動きに隙がないのが嫌でも分かった。イユの頭へと銃口が触れる。
「幾ら異能者でも頭を撃たれたら死ぬだろ?」
当たり前だと言い返したくなる。この距離では異能を使っても逃げられない。レパードが引き金を引いたら、イユは死ぬ。
自覚した。死への恐怖に身が竦んで、声さえ萎んでしまっている。
「イユ……! 嘘でしょう、イユ……!」
駆け込んできたらしいリーサの声がする。
だが、銃口を向けられているイユに振り向く余裕はない。
「リーサ、来るな!」
それでよかったのかもしれない。リーサの顔を見る勇気はなかった。
リーサは、どう思っていることだろう。裏切られたかのような声音に聞こえたが、考えたくなかった。
リーサの嗚咽を洩らす声だけが響いて、泣きたいのはイユだと言いたくなる。
けれど、涙腺はしっかりと調整している。
ここで泣きはしない。そのようなみっともないことはしたくない。その思いだけが、瀬戸際でイユにこの場に立ち続ける力を与えている。
銃口を向けられた状態で、恐る恐るレパードを見上げる。レパードの背がイユよりもずっと高いのだと意識する。
けれども、目は背けない。せめてそれぐらいは強がりたい。
「『IYU169301』? コードネームか何かか。ここから取って名乗っていたんだな」
国章の下に書かれている文字を読み上げる。その通り、イユの名前はここからきている。
「……個体識別番号よ」
訂正を入れる。これは、ただの番号だ。そして国章はイユが国の持ち物だと示すものである。
「個体識別……?」
「そうよ、この番号が私の個体識別番号」
「……お前は、イクシウスの関係者なのか?」
隠す必要はなくなった。ばれたのだから。
「私は、イクシウスの異能者施設にいた異能者よ」
船員たちの何人かが息を呑む気配がする。レパードの眼差しがより鋭くなったのを感じた。
「リアと同じか」
人の名前だろう。誰かがそう呟くのが聞こえた。
リアというのが前にいたという異能者なのだろうか。やはり同じ施設にいたらしい。会ったことはないが、なんとなくそのような気はしていた。
「お前の目的はなんだ?」
目的と言われても、何のことだかわからない。
「言ったはずでしょう?」
「答えろ」
イユの腕を握るレパードの手の力が増す。
レパードは勘違いしている。恐らくここにいるイユ以外の全員もだ。
「ないわ。……強いて言うなら、生き延びること」
漠然とした答えしか返せない。埒が明かないと思われたらしい。質問を変えられる。
「イクシウスに何を命じられている?」
「何も」
「嘘をつけ」
「嘘じゃないわ」
レパードを含め船員たちは気が立っている。それがイユには怖い。あとは本当のことを言うだけでいいのに、彼らはそれを信じようとしない。それだけが、怖い。
「私は、異能者施設から逃げてきたの」
そう、イユは脱走者だ。
「ふざけるな」
「ふざけてない」
レパードは信じられないという顔でいう。
「脱走者だと? そんな話は……、聞いたことがない」
その驚きは至極当然だ。イユも自身以外にそのような話を聞いたことがない。
異能者施設は世界で一番脱走の難しい地獄だ。
高い柵に捕まって大量の死体が重なっている光景をふと思い出す。死臭の漂う悪夢のような一画だったが、揃いも揃ってあそこの死体は救われたような顔をしていた。最も簡単な脱走方法は高圧な電流が流れるそこを掴むことだったのだ。
「でも、本当よ」
イユには死という名の逃げ道はない。生きて、そこから逃げた。
「信じられねぇ!」
船員の誰かの叫び声が響き渡る。
「そいつは嘘を言っている!」
「嘘じゃないわ」
反論の声がかき消される。
「そいつは異能者施設からきたんだ!」
「殺らないとリアみたいになるぞ!」
気が立った船員たちの声が、イユに襲い掛かる。それは、銃口よりもよほど危険な凶器だ。理性で話が通じなくなると、イユには対処ができない。
「お前ら、離れろ。近づくと危険だ」
レパードにも彼らを止める術はないらしい。
「船長、さっさとそいつを……!」
船員の一人が声を上げた。言葉の続きを想像する。
『殺せ』と。
銃口がかすかにぶれるのを感じる。イユの動揺が伝わったわけではないだろう。そうすると、レパード自身がたじろいでいることになる。船長という立場でも船員たちを大人しくさせることはできないのかもしれない。
どうしたらいいの?
自分自身に問いかける。レパードを囮にする、ということも考えた。
だが、レパードの魔法についてイユは詳しく知らない。見た限りでもよく分からなかった。
そして、具体的にどのような力を使ってくるかわからない以上、下手な抵抗は危険だ。
それに、囮にした後はどうしたら良いのだろう。近くの島につけてもらうまでずっと囮にし続けるのだろうか。いつ着くかも分からないのだ。数日後だったら、イユの異能がもたない。そのうえ、着陸したそこが安全な場所だという保障はないのだ。
しかも、船員たちはともかくリュイスの強さを知っている。彼が味方にはついてくれないことをイユは知った。レパードを囮にすれば、リュイスも容赦はしないだろう。イユは捕まり、船員たちによって殺される未来しか見えない。だから、切り抜けるのは無理だ。
泣きそうになる。心の中ではとっくの昔に大泣きだ。
絶望が覆いかぶさってきて、その重さにイユの足は震えている。
同時に知らず、唇から血が出るほど強く噛みしめていた。口惜しかったのだ。ここで終わってしまうのかと思うと、気が狂ってしまいそうだったのだ。
やっと異能者施設を逃れ、危険なレイヴィートを抜けてイクシウスから逃れる船へと乗ることができたというのにだ。
ここにきて、烙印だ。それがイユの邪魔をする。一体、どんなに魔術師はイユを縛っておきたいのだろう。
そう思うと、呪詛の一つでも吐きたくなった。ふつふつと怒りが湧いてくる。
――――そうだ、全てはこの烙印のせいだ。
イユの体で比べるとたった少しの腕の面積に刻まれた烙印のせいで、今イユは死にかけているのだ。
――――そう、これさえなければ。
「……どいて」
頭の中が冴えわたる。怒りのあまりに、体の中の熱が一気に冷えた感覚があった。抱えた感情に従って、イユは体の向きを船員のほうへと変える。
「お、おい」
抵抗されることは視野にいれていたのだろうが、こうした動きをされるとは思わなかったのだろう。銃口をイユの頭に向けながらも、レパードは撃つべきか見守るべきか悩んでいるようだ。
一方で船員たちは慌てて一斉に後ずさった。何かされるとそう思ったらしい。
見回すと、息を呑む船員に目を赤く腫らしているリーサに彼女を抱きしめているマーサが見える。クルトや刹那は船の修理をしているのかもしれない。姿が見えなかった。全員がここにいるわけではないのだろう。
「あんたたちもよく見てなさい」
それだけ指示するとイユは右手を烙印へとあてる。その動作だけでとくんと心臓が波打ったものだが、最初から心臓が跳ね上がっている今なら何も感じない。
消えろ。
力を集中させ、命じる。
心の奥底で、恐怖が疼く。それを意思の力でねじ伏せる。
烙印がなければ、イユはこうした目にも、このような思いもしなくてよかったのだ。
消えろ、消えろと頭の中で念じ続ける。
さきほど作られたすり傷はすぐに閉じ、あとは烙印を残すだけになる。
烙印といっても、所詮は火傷の痕だ。昔は何度も誤って消したのだ。今でもまだ消えるはずだ。たかだか火傷に振り回されるのは、もうごめんだ。
消えろ……!
レパードが息を呑む音が聞こえる。
念じきる事さえできれば、後はあっという間だった。
すっと烙印が消え、何事もなかったように白い肌が現れる。
船員たちのざわめきが耳に届く。
そう、烙印は消えたのだ。
それでもまだやることは残っている。きりっと見据えると、すぅっと息を吸う。そして、声を張った。
「私はイクシウス政府に指示されているわけじゃないわ」
放たれた声が上擦っていて、わずかに震えているのが情けない。乾いた唇を動かすのがこうも大変だとは思わなかった。
「私は私の意思でここまで来たの」
あんたたちをどうこうしようとは思っていない。それが伝わればもうどうでもよい。命が助かればそれでよいとそう願った。




