062
僕の妻が、雫が死んだのは家の近くの大きな交差点だった。
あの、電話のあと。
本当に、直後だったらしい。
夫の夕飯が楽しみで、泣きだしたまだ小さい息子が心配で、家族に早く逢いたいと胸を躍らせていた若い母親に、
二トントラックが突っ込んだのは――――――……
理不尽だ。
トラックが突っ込むべき対象は他にもたくさんあった。そんな、必死に生きているだけの母親に突っ込むよりも、犯罪者、社会不適合者。悪いとは思うけれど、余命いくばくもない人に突っ込んだ方が、よっぽど、と思ってしまう。
そうだ、僕に突っ込めば良かった。
僕が死ねばそれは、それでよかったんだ。
僕の大事な妻と、息子の、それ以外だったらそれは誰でもよかった。
鼻を両の掌で押しつぶすように包み込みながら、ぼう、っと考える。
守りたいものができたら、出来てしまったらみんながみんな、こんな風に冷酷になってしまうものなのか。そして、守れなかった時、こんなに苦しいものなのか。
なら。
父さんはどれほど苦しかっただろう。
妻が目の前で死んだのを見た。なのにその原因は腕の中ですやすやと、眠りこけていて、守るべき、大切なものだ。
どれほど苦しかっただろう。
恨むものがなくて、どれだけ運命を呪っただろうか。
そして、自分は幼い息子を残して死んでいかなければならなかった―――――……
大好きで仕方がなくて、かまってほしくて甘えていた父さんの事を思い出していた。膝の上に乗って、父さんに頭を撫でてもらって。
絵を描くのを覚えたのも、確かこのころだ。
入院中の父さんへ、絵を描いて、喜んでもらおうと必死になって。
そっと、できあがった“彼女”の顔を片手で触れる。
この顔が無くなったのは、その「理不尽」の瞬間だ。
ブレーキ痕は、なかったと言う。出したそのままのスピードで、突っ込んだトラックに、あっさりと雫の身体は吹っ飛んだのだろう。
そして、細い身体はコンクリートにたたきつけられて。
想像しただけで、吐き気がする。
痛みは、なかったのかな。どうせなら、一瞬で終わってくれた方が楽だったろう。―――――でも。
彼の話によると、引かれる直前響き渡った、クラクションの音で、彼女は気を失ったように倒れたのだと言う。
「俺でも、肩が跳ねました。あの、その……ヘッドフォンは、はずしてた、から」
ひしゃげた彼女のヘッドフォン。届けてくれたのが彼なのだから当たり前だが、そこまで聞いていたのか。
「ワイドショーで持ちきりですよ、天才画家の妻死す、って」
冷たい笑みが脳裏をよぎった。
出来上がった、彼女の顔は、よくできたと思う。
雫がなくした半分にちゃんと沿うように、削った石膏。その上に描いただけのハリボテの顔。
だが、触れなければ、これがまさか偽物だとは思わないだろう。
不思議と、胸の底にあるのは、ついこの間までの冷たいしこりではない。
そうだ、少しずつ、楽になっているんだ―――――
思い出して、吐き出して、そして忘れていくのだろう。これから、長い、永い時間をかけてゆっくりと。
紫苑は、どうなのかな。
唐突に浮かんできた問に苦笑う。
覚えているわけがないか。彼女の事なんか、―――だよね。
伝えよう。
忘れてしまうなら、そう、心の中で決める。
描くのはこれが最後なんて言わない。描く。それしか僕には能がないんだ、だから、描かなきゃ。
伝えるために。刻んでおくために。残すために――――遺すために。
僕が息をすることを決めた、その瞬間だった。




