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それはやっぱり、君でした。  作者: せみまる
第十話 ナイフ
52/70

049


 ハムレットとは、シェークスピアの四大悲劇の中の一つ、そして最長のオペラだ。


 ハムレットは、デンマーク王の息子。

 急死した父であるデンマーク王の亡霊に、父の死の真実を告げられ、仇である叔父を討つため狂気を装い始める。

 オフィーリアは、そんなハムレットの恋人だ。

 父が宰相、ということもあり、彼女はハムレットの様子を探りながらの交際を続けるが、ハムレットはそんなオフィーリアを無下に扱い――――――


 果てには、『売春婦にでもなれ』と罵った。


 オフィーリアはもともと、繊細な、女性だったらしい。

 そんな彼女に、ハムレットの態度は耐えられないものだった。追いつめられた彼女は、ついには悲しみのあまり気がふれてしまい、入水自殺をしてしまう。


 残されたハムレットは言うと、王への復讐を果たすとこれまた、陰謀の中で死んでいく―――――………。



 ずいぶんなお話ではあるけど、私はこのオペラが本当に好きなんだ、と言っていた彼女の横顔が、舞台の上で歌う彼女とぶれて、重なった。


 無味乾燥な、防音室。


 申し訳程度にしつらえられた硬い椅子と、ベビーベットのある暗い部屋で、彼女の音を聴く。

 感想は、たった一つだけだった。


 綺麗だ。


 音が、重なり合って、溶けあって、融けあって―――――……広がって、ゆく。色が浮かぶ。淡白な色だ、それでいて、奥が深い。どこまで潜っても底が見えない。

 彼女が本気で歌うと、こうなるのか、と。

 どこか空恐ろしく感じた。


 挑むようなまなざしで客席をみる彼女は、どこまでも美しかった。


 その凜、とした立ち姿。震えながら音をつなぐ唇、彼女が動くたびに一瞬遅れて翻る真っ白な衣装。その全てが美しい彫刻のようで。

 僕はただ、光り輝く舞台を、暗い防音室の中から見つめていた。


 息もできないような緊張の中。


 僕は、彼女の姿を必死に目に焼き付けていた。

 どうしてだろう。

 痛いほど心臓が騒いで仕方がなかった。



 § § §



 公演中の記憶は、細切れにしかない。


 ぼんやりしていたわけではない。見ていなかったわけではない。むしろ見ていなかったのは紫苑の方だ。

 防音室の中は驚くほどに静かだった。

 周りの音はおろか、自分たちが発する少しの物音も壁に吸い込まれて消えていく。その環境があまりに心地よかったのだろう、紫苑は光り輝く舞台など知ったことかという顔で寝息を立て始めた。


 ………何か機会があったらここ連れてきてあげよう。

 僕がそう思ってしまうほどに、気持ちよさそうな寝顔だった。



 公演の内容をほぼ覚えていない、というのは多分、美しすぎた彼女の姿もあっただろう。

 しかしそれ以上に、胸のあたりにまとわりつく不快感だ。


 落ち着かない。


 どうして?


 胸騒ぎなんて、しゃれたもんじゃない。ともかく、なんだか、気持ち悪い。



 帰路の途中だ。もう九月だと言うのに、真夏のような日差しが照っていた。

 通り雨でもあったのか地面は黒く濡れていて、湿り気のある空気が熱気を孕んで、余計に気持ちが悪い。

 思わず、外の空気の――――――雑音の中にしゃがみこんだ。


 前に抱え込んだ紫苑が不思議そうに、胸と足に挟まれながら、僕を見上げる。


 ………心配してくれているのだろう、と言う解釈はあまりにもご都合主義だろう―――――



「………大丈夫だよ、紫苑。早く、お家帰ろうね」

 彼女は、後片付けがあるからあとから帰る、とそう言っていた。僕には彼女のごはんを準備して、笑顔で彼女を迎えると言う義務がある。


 大丈夫、だと言う言葉は半分、自分自身に向けたものだった。



 立ち上がって、胸の痛みをこらえる。変な汗が額に浮かんでいることは知っているけど、無視を決め込む。

 だって。



 笑顔で迎えたい人がいる。


 守っていたい体温が、僕にはある。



 だから僕は、強くいられる。




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