048
朝が来た。
カーテンから透ける朝の光に目を細めて、僕は彼女を起こす。
「きーみ、起きて、朝だよ」
彼女はうめいて、眉根を寄せた。僕はそんな彼女に苦笑して、目を閉じた横顔に頬を寄せた。
「………起きてるんでしょう?」
長いまつげが震えた。
大きな、紫がかった瞳がその奥から覗く。
ふふ、と息を漏らすように彼女は笑った。
「なあんだ、ばれてちゃってたのか」
額をあわせ、しばらく二人でくつくつと笑っていた。起きだしていたらしい紫苑がベビーベットのヘリに手をかけて、精一杯背伸びをしてこちらを見ている。たまらず、連れてきて、三人で額をくっつけあって朝の一時を過ごした。
起き上がり、少し乱れたネグリジェの裾を直して、彼女は背筋を伸ばす。
「さあ」
「頑張ろう………気合、入れよう」
うん。
精一杯、応援してるから。
顔を洗って、着替えて、朝ごはんを食べて、いつものように時間を過ごした。いつもと少しだけ違うのは、彼女がその場にいることだ。
今日は本番。
少し集合も遅くなるらしい。
久しぶりに三人で囲む朝の食卓が嬉しくて仕方がなかった。
そして。
「時間、ある? お願いしたいんだけど」
時間があることをいいことに、今日は彼女に髪を結んでもらうことにした。いい加減、本当は自分で結べるんだけど、やっぱり彼女に結んでもらいたい。
ゴムと櫛を持って彼女のもとに行くと、彼女は「いいよ」と微笑んで、座るように僕に示した。
髪を引っ張られる感覚。
もう、慣れて、心地いいとすら感じる。
「ホールの場所は前に渡した地図見てね。結構時間かかるからちゃんと紫苑気にかけてあげて。
………紫苑の耳当てどこにしまったっけ?」
「んー? 確かCD入ってる棚の引き出しだと思う」
「出しておこうか?」
「ん、大丈夫、ありがとうね」
もう一度強く髪が引っ張られた。ゴムがぱち、ぱちと音を立てる。
「確か防音室あったから。そこにいたらいいかも。………なるべくぎりぎりに来てね。開演前って結構うるさいんだ。紫苑に負担掛けたくない」
「………分かってるよ」
「本当に、お願い。人込み、紫苑初めてだから心配なの」
彼女が手を止めた。
「はい、出来た」
「ありがとう」
………この時間が好きだ。二人っきりの時間。――――紫苑に気を取られている間は、なかなかないから。幸せなことだって、分かってる。だけどやっぱり、
どこかで妬いている自分もいるんだ、ばからしいでしょ。
不意に、彼女の腕が首に絡みついてきた。
僕は苦笑する。昨日これは終わったと、思ってたんだけどなあ――――――
かすかにふるえているその腕を、そっと叩いて僕は呟いた。
「大丈夫」
―――――何回でも言うよ―――――…………
「大丈夫だから、その世界、思いっきりぶつけといで」
「うん。分かった」
返事をして、姿勢を直した彼女と目があった。その瞳に、もう迷いは微塵も残ってはいなかった。
肩を掴んで、引き寄せる。膝立ちをしていた彼女が驚いた顔をして、僕の腕に倒れ込んだ。
そのまま、唇を奪う。
彼女は、戸惑った。戸惑って、そっと、僕の舌に応えてくれた。
緩やかな時間が流れた。
唇を離すと彼女は恥ずかしそうに笑って、僕を握った小さな拳で小突いた。
「 」
彼女の名前を呼ぶ。
くしゃり、と笑って彼女は答える。
§ § §
最後に一度だけ、彼女は紫苑に「行ってくるねー」と頬を寄せ、軽くくすぐった。
「じゃあ」
顔を上げて、紫苑を抱いた僕に、彼女は笑いかける。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「大丈夫。………くんに魔法掛けてもらったから、もう大丈夫」
最後に一度だけ、名残惜しそうに僕の手を握り、彼女は出かけて行った。
最期に一度だけ、振り返ったその表情はドアの向こう側から漏れ出る光にかき消されて見えなかった。
予感めいたことなんて、
あるわけがなかった。




