047
やだ、
彼女が唐突に呟いて、泣き笑いのような表情をした。ぽかぽかと胸を叩かれる。
「涙でてきちゃったじゃない」
その通りだった。彼女の瞳から透き通った涙がぽろぽろと雫れはじめて――――そして、止まらなくなった。
控え目な嗚咽に合わせて揺れるその頭を、そっとなでる。
しばらく泣いたら、彼女は泣いてぐしゃぐしゃになった顔で笑った。
「もう、あなたってひとは」
「そういうのは、明日が終わった後に言うものなの――――――なんで今日言っちゃうかなあ、これじゃ逆になんか気勢削がれちゃうよ」
「ごめんごめん」
でも。
どうしても今日のうちに伝えておきたかった。
「山場超えたら、振り返りとか、反省とかはしたくなくてさ。そう…………ただ、『疲れたね』『頑張ったね』って言いあって笑ってたいんだ」
―――――――予感があったわけじゃない。
ただ、明日、明日が終わる前に。今日が終わる前に。
この気持だけは。
「ねえ、ものすごくクサいこと言うけどいいかな」
言うと、彼女は今度は笑いすぎたのか、しゃくりあげながら「いいよ」と呟いた。
「もう充分クサいこと言ってるって」
じゃあ、遠慮なく。
一つ息を吐いて、僕は空いている左手で彼女の右手を取った。
「多分、これからだって辛い事とか、苦しいこと、たくさんあると思う。今までだった十分すぎるほど大変だったけど、紫苑だってまだまだ大きくなる」
「だから、今までしてくれていたように、隣にいてほしい」
「僕一人じゃきっと、息ができないから。君に、生きるのを手伝ってほしい」
特別なことはしなくていい。
「これからも、歌って。明日が終わっても、その歌声で僕と一緒に生きて。何があっても、僕を、見限らないで」
―――――――世界を、あの時見限らなかったように。
「家族で、いてください」
彼女は握られた自分の右手を見て、握った僕の顔を見て、ふわり、と笑った。
「言われなくても」
いるよ。
「何があっても、隣に」
だから、大丈夫だよ。そんな不安そうな顔をしないで。
そう言って、彼女はそっと手を握り返してくれる。そして次の瞬間、こらえられなかった風に「ぷっ」と吹き出した。
「あー、もうびっくりしたぁ。いきなり……くん変なこと言いだすんだもん、まだ心臓バクバクしてるよ、どうしてくれんの」
あー、ひどいっ。
こっち結構真面目だったのに。
笑いながら彼女は言った。手は、握ったまま、離さないままだ。
「でも、嬉しかったよ。あなた、なかなか言葉にしてくれないから。口下手で、下手くそだけど、気持ち、ちゃんと伝わったからね」
………そう言ってくれると、こっちも、嬉しい。
彼女はまた泣き笑いのような表情になって、そっと僕にささやいた。
「二人で、見守っていこうね。紫苑は私よりも多分辛いことたくさんあるから―――――なおさら。
何か出来ることがあるなら、してあげて、何もできないなら、支えてあげて。そうやって生きていこう」
「 」
僕の名前を呼ぶ声がして、顔を上げた。彼女は何か言おうと口を何度か開け閉めして、やがて諦めたように笑って見せた。
「ううん、これこそ明日言うよ。明日が終わって、心の底から“お疲れ様ー!!”っていえる時に言う」
「………そっか、気になるな」
「『指をくわえて待っているだけじゃ、足りないと言いますの?』」
「………………………ぇ、ど、どした…?」
「明日の台詞」
「あ、そう」
楽しそうに笑って、彼女は眠たげな表情になった。枕を譲る。
僕の枕に顔の半分を埋めて、彼女はゆっくりとまぶたを閉じた。
身をすりよせてきたので、その背中に腕を回して抱きしめる。
「本当は、やっぱりちょっと緊張してるんだ」
彼女が不意に、ぽつりと言った。
「大丈夫、って言って。ウソでも何でもいいから、『大丈夫』って。あなたに言ってもらえたら、ほんとに大丈夫な気がする」
よし、任せろ。
精一杯の優しい声で、僕は彼女の耳元で大丈夫、と囁いた。彼女はその言葉を聞くと安心しきったように目を閉じて、今度こそ眠りに落ちた。
「大丈夫」
聞く人がいなくなった寝室の中で呟いてみる。
そうだ。大丈夫だ―――――――君となら。
君と僕となら、きっと大丈夫だ。




