040
紫苑が僕の膝の上で眠っている。
時刻は、午後三時過ぎになっていた。
家事をあらかた片づけた僕は、ぼーっとしながら、ゆらゆらと前後に揺れる。
四月の日差しに、身体がじんわりと温まっていくのを感じた。心地いい。
冬が終わって、春がやってきている。窓の外で、木々が優しく騒いだ。
「…………ん?」
膝の上で、紫苑が身じろいだ。小さく呻くもんだから、「どうした」と呟いて、また重くなった紫苑の小さな身体を持ち上げる。
腕の中で転がして上手い位置に落ち着けると、紫苑は目をぱちくりさせて、僕を見上げた。
「んー?」
鼻と鼻を触れ合わせると、紫苑は嬉しそうに声をもらした。彼女の匂いが紫苑から匂って、思わずどきりとした。
彼女、早く帰ってこないかな……、
彼女の帰りを最近は本当に心待ちにしている。待たされるのは嫌いじゃないけど、どうしても不安に襲われる――――と言ったら、少しニュアンスは違うだろうか。
なんだか最近体調も悪いし。
この前は本気で彼女に呆れられちゃったし。
ため息をついた。
「紫苑」
口の中でそっと、呟く。
「頑張ろうな、お母さんに頑張ってもらおうな」
§ § §
ふわりと、何かが身体にかかる感触で、目が覚めた。
呻きながら、身体を起こす。身体のあちこちは痛みに悲鳴を上げて、きしんでいた。
誰かが顔を覗き込んでいる。
ぼんやりとした輪郭は、だんだんとクリアになって、彼女の大きな紫がかった瞳へと為った。
あれ? 彼女?
視界の中で、彼女は目をしばたかせ、僕の名前を呼んだ。
「……くん、床の上なんかで寝てちゃ風邪ひくよ、寝るんだったらちゃんとお布団で寝なきゃ」
………というか、どうして君がここに?
「どうして、って……だってもう、あなた、七時過ぎだよ?」
「…………ウソ、ついさっきまで三時だったのに―――――ってあれ、紫苑は?」
「ベットに運びました」
彼女がふてくされたように頬を膨らませた。唇を尖らせて、ぐい、と顔を近づけてくる。
「リビングのドア開けたら……くんの脚が見えたんだもん――――びっくりしたよ。紫苑もあたりまえみたいにあなたの腕の中で寝てるしさ」
彼女が僕から距離を取った。
床の上にぺたんと女の子座りをして、下から僕を見上げてくる。
「それにしてもほんとに大丈夫? 眠ったこと気がつかないほど眠かったの?」
「んー……別に。いつもより早く家事終わったから紫苑と日向ぼっこしてたんだけど」
彼女が目じりを下げて笑った。
「本当にあなたたち仲良しね、あんまりお話してる印象ないのに」
「心の深いところで通じあってるんですよ」
「あらあら、うらやましいこと言うわね」
顔をちかづけると、彼女はついさっき紫苑がやったように、鼻を寄せてきた。
本物の、彼女の匂い。
思わず息を吐いて目を閉じると、彼女が僕を気遣うような声を出した。
「…………疲れてる、ね」
「んー、……まぁ、ね」
「……………ごめんなさい」
「いや、これでいいんだ」
そう、と少しだけ、彼女が哀しそうにうつむいた。「……ごはん、作ったよ。簡単なものだけど――――食べよう?」
「あと洗濯物……忘れてたから入れといた。あとで一緒に畳もうね。あ、そうだ、紫苑におっぱいも飲ませなきゃ」
「………くん?」
彼女から見たら、不思議な光景だったろう。不審そうな顔をしたのもうなずける。
僕はシャツの胸元を強く、握りしめていた。
無表情でただ、何をするまでも無く、何を言うまでも無く。
ただ、右手を自らの手を胸に当て、強く握りしめていた。
ゆっくりと、顔を上げる。不審そうな顔をした彼女と目があった。
「………どうしたの?」
「どうしたの、って……うーん、まあ、いいや」
ごはんを食べながら、彼女が嬉しそうに言った。
「明日、明後日ってお休み貰ったんだ。どこかお出かけしようね」
僕はなんて答えたんだっけ。
彼女の笑顔をじっとみつめながら、僕は満足感に包まれていた。




