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それはやっぱり、君でした。  作者: せみまる
第八話 運命の曲がり角
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039



 ベットに倒れこむようにして横たわると、身体全体を疲労感だけが包み込んだ。


 頭の上に腕を乗せて、息を吐く。

 ぼやけた視界の中で、天井が歪んで見える。


 ここまで疲弊したのは、いつ以来だろうと思う。父親の葬式の時だろうか―――――いや、違うな、あれはまた違う、精神的な疲弊もあった。

 だとすると、これほど疲れたのは初めてか?


 目を閉じて、息を漏らすように笑った。


 僕はこれをずっと、彼女にしてもらっていたのか―――――



 彼女がいない一日。家事一切を引き受ける………大丈夫だと安請け合いをしたものの、実はそこまでの覚悟はしていなかった。


 ま、なんとかなるでしょう。


 大丈夫、大丈夫。


 …………そう思っていた自分を殴りたい。



 額にのせた腕を動かすのさえ億劫だった。濃密過ぎる毎日に、割と身体が悲鳴を上げている。



 彼女がお稽古に行くようになってから、約一カ月が経っていた。彼女はそれまでの遅れを取り戻すかのように、必死に稽古に行っていたから、まさか、「辛い」なんて言えない。

 これを彼女はやってくれていたんだ、僕だって意地を見せてみろ。


 一日目はよかった。


 紫苑がなぜか哺乳瓶に入ったごはんを食べてくれないなんて、予期しなかったアクシデントはあったけど、ともかく家事が楽しくて仕方がなくて。………それだけで一日が過ぎた。


 つらくなってきたのは、二週間がたったころだ。



 ひやりとした。

 いつのまにか眠っていて、半醒半睡の状態で包丁を扱っていたもんだから―――――親指の付け根を、ざっくりと、深く切ってしまった。

 出血の量が激しかったからあえて彼女には言わなかったけど、それがやばいな、と思い始めたきっかけだ。



 あぁ――――眠い。


 嫌がる身体を無理矢理、強引に起き上がらせて、僕は額に手を当てた。

 駄目だ。紫苑が眠っている今のうちに描いておかないと。


 いくら僕が忙しくったって、ノルマは待ってはくれない。少しでも無理をして踏ん張らないと………。

 がんがんと鳴りだした頭を僕はいなして、ため息をついた。



 頑張らないと。


 僕が―――――踏ん張らないと。



 § § §



「……くん、ちょっとお願いしたいことがあるんだけど」

 台所でさくさくと野菜を切っていると、今日は早く帰ってこられた彼女が唐突に言った。野菜を切る。手元だけに全神経を注ぐ。


「ねえ」


 痺れをきらしたように、彼女が立ち上がった。ふわり、と空気が動いて、僕の胴に腕が回った。


「あなた」


 彼女の声で、我にかえる。

 彼女の不安そうな顔が僕を見上げていた。


「……大丈夫?」

「……何が?」

「だって、ぼーっとしてるから」

「…………あ、あぁ」


 首を振る。ぱさぱさと軽い音を立てて揺れたポニーテールに、少しだけ意識をうつし、身体をつつんでいる浮遊感から抜け出す。

 彼女が不安そうに、僕の背に額をこすりつけた。


「…………きつい? やっぱり…大変?」

 それには苦笑いで返した。「大丈夫だよ、……別に」


 うそばっかり。そういって、彼女は声を落として、ため息をつく。少しだけ、なんだか申し訳ないような気分になった。

 彼女がひそめた声のまま言った。

「………これ以上仕事増やすのもあれだよね、―――――いいや、大丈夫、気にしないで」

「ん、何が?」


 彼女が僕から離れた。袖をひかれ、振り返る。彼女は僕を見上げ、呆れたようにため息をついた。



「ほんとに……くん、大丈夫?」


「だから、何が?」



 § § §



 彼女が起きだす気配で、僕は目を覚ます。

 隣のベットの上で大きなあくびをする彼女の顔を横目に、僕はパジャマの上にカーディガンを羽織り、あたたかいベットから身体を引き抜く。

 今朝もそうだった。


 起きてから、冷水で顔を洗って意識をはっきりさせた。

 朝ごはんは彼女が作ってくれるから、僕はある程度の余裕はある。今日は、紫苑が起きださない、今のうちにノルマである描きかけの作品を仕上げておこう。


 まだ薄暗い、電気をつけていないリビングに、キャンバスと、パレッドを広げた。


 背後で、彼女が作業をする、食器が触れ合う音が聞こえる。



 どくん、


 と、心臓が脈打った。僕は一瞬顔をしかめるが、気にせず、手を動かし続けた。

 もう一度、心臓が跳ねる。

 先ほどより、強い痛みを伴って。


「…………ん――――…」


 思わず、胸を押さえた。ぎゅう、とつむったまぶたの裏で混ざり合った色がどす黒く、うごめいている。

 しばらくそうしていると、胸の痛みは治まった。


 今のは、なんだ―――――?


 手の平に落ちた、脂汗を見つめながら、僕は荒い息を整えた。冗談じゃない。

 僕は頑張らなくちゃいけないんだ――――――



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