039
ベットに倒れこむようにして横たわると、身体全体を疲労感だけが包み込んだ。
頭の上に腕を乗せて、息を吐く。
ぼやけた視界の中で、天井が歪んで見える。
ここまで疲弊したのは、いつ以来だろうと思う。父親の葬式の時だろうか―――――いや、違うな、あれはまた違う、精神的な疲弊もあった。
だとすると、これほど疲れたのは初めてか?
目を閉じて、息を漏らすように笑った。
僕はこれをずっと、彼女にしてもらっていたのか―――――
彼女がいない一日。家事一切を引き受ける………大丈夫だと安請け合いをしたものの、実はそこまでの覚悟はしていなかった。
ま、なんとかなるでしょう。
大丈夫、大丈夫。
…………そう思っていた自分を殴りたい。
額にのせた腕を動かすのさえ億劫だった。濃密過ぎる毎日に、割と身体が悲鳴を上げている。
彼女がお稽古に行くようになってから、約一カ月が経っていた。彼女はそれまでの遅れを取り戻すかのように、必死に稽古に行っていたから、まさか、「辛い」なんて言えない。
これを彼女はやってくれていたんだ、僕だって意地を見せてみろ。
一日目はよかった。
紫苑がなぜか哺乳瓶に入ったごはんを食べてくれないなんて、予期しなかったアクシデントはあったけど、ともかく家事が楽しくて仕方がなくて。………それだけで一日が過ぎた。
つらくなってきたのは、二週間がたったころだ。
ひやりとした。
いつのまにか眠っていて、半醒半睡の状態で包丁を扱っていたもんだから―――――親指の付け根を、ざっくりと、深く切ってしまった。
出血の量が激しかったからあえて彼女には言わなかったけど、それがやばいな、と思い始めたきっかけだ。
あぁ――――眠い。
嫌がる身体を無理矢理、強引に起き上がらせて、僕は額に手を当てた。
駄目だ。紫苑が眠っている今のうちに描いておかないと。
いくら僕が忙しくったって、ノルマは待ってはくれない。少しでも無理をして踏ん張らないと………。
がんがんと鳴りだした頭を僕はいなして、ため息をついた。
頑張らないと。
僕が―――――踏ん張らないと。
§ § §
「……くん、ちょっとお願いしたいことがあるんだけど」
台所でさくさくと野菜を切っていると、今日は早く帰ってこられた彼女が唐突に言った。野菜を切る。手元だけに全神経を注ぐ。
「ねえ」
痺れをきらしたように、彼女が立ち上がった。ふわり、と空気が動いて、僕の胴に腕が回った。
「あなた」
彼女の声で、我にかえる。
彼女の不安そうな顔が僕を見上げていた。
「……大丈夫?」
「……何が?」
「だって、ぼーっとしてるから」
「…………あ、あぁ」
首を振る。ぱさぱさと軽い音を立てて揺れたポニーテールに、少しだけ意識をうつし、身体をつつんでいる浮遊感から抜け出す。
彼女が不安そうに、僕の背に額をこすりつけた。
「…………きつい? やっぱり…大変?」
それには苦笑いで返した。「大丈夫だよ、……別に」
うそばっかり。そういって、彼女は声を落として、ため息をつく。少しだけ、なんだか申し訳ないような気分になった。
彼女がひそめた声のまま言った。
「………これ以上仕事増やすのもあれだよね、―――――いいや、大丈夫、気にしないで」
「ん、何が?」
彼女が僕から離れた。袖をひかれ、振り返る。彼女は僕を見上げ、呆れたようにため息をついた。
「ほんとに……くん、大丈夫?」
「だから、何が?」
§ § §
彼女が起きだす気配で、僕は目を覚ます。
隣のベットの上で大きなあくびをする彼女の顔を横目に、僕はパジャマの上にカーディガンを羽織り、あたたかいベットから身体を引き抜く。
今朝もそうだった。
起きてから、冷水で顔を洗って意識をはっきりさせた。
朝ごはんは彼女が作ってくれるから、僕はある程度の余裕はある。今日は、紫苑が起きださない、今のうちにノルマである描きかけの作品を仕上げておこう。
まだ薄暗い、電気をつけていないリビングに、キャンバスと、パレッドを広げた。
背後で、彼女が作業をする、食器が触れ合う音が聞こえる。
どくん、
と、心臓が脈打った。僕は一瞬顔をしかめるが、気にせず、手を動かし続けた。
もう一度、心臓が跳ねる。
先ほどより、強い痛みを伴って。
「…………ん――――…」
思わず、胸を押さえた。ぎゅう、とつむったまぶたの裏で混ざり合った色がどす黒く、うごめいている。
しばらくそうしていると、胸の痛みは治まった。
今のは、なんだ―――――?
手の平に落ちた、脂汗を見つめながら、僕は荒い息を整えた。冗談じゃない。
僕は頑張らなくちゃいけないんだ――――――




