038
「………くん、決めた」
背後から彼女の震える声が聞こえて、僕はキャンバスから顔を上げた。
振り返る。
彼女が紫苑を抱きしめたまま、そこに立っていた。
「決めたよ、私………」
「歌う。歌うから―――――お願い、見ていて」
手に持っていた、絵筆をパレッドに置く。絵具で汚れた顔をタオルで拭う。
そして、僕は立ち上がって、紫苑と彼女の前に立った。
「……君の選択を、僕は尊重する、って決めてた。だけど……」
「嬉しいよ」
多分、ここで僕は笑ったのだろう。
彼女がほっとした表情を見せて、ありがとう、と紫苑を抱き寄せた。じゃあ、と、何を言うのかと思えば、彼女は表情を引き締めた。
「……くん、家事は大体出来るから、お掃除の仕方、教えなきゃね」
…………それだけは勘弁して下さい。
§ § §
それから、何をどうしたらいいのか、二人で真剣に話し合った。膝を突き合わせて、本当に、真剣に。
「僕に紫苑の世話ができるかな」
「おっぱいはどうしたらいいんだろう」
「また生活リズム崩れて、体調崩したりしないかな」
「どうしたら一緒にごはん食べられると思う?」
この問題たちを解決するのは、容易なことではなかった。ただ、彼女が前向きになってくれたことが嬉しくて、眠気も忘れて、夜中まで話し込んだ。
ふぁあ、と、あくびをした彼女の額が、僕の胸にごとんとついて、眠気を思い出す。
もう日付が変わっていた。
彼女は僕の胸に額をつけたまま、寝息を立て始めていた。
僕も、今更のようにこみ上げてきたあくびをかみ殺す。
ぶんぶんと首を振ると、少しだけ眠気が取れて、僕はため息をついた。
「……君、きーみ」
彼女の肩をゆする。彼女は呻いて首を振る。
「起きて、ベット行こう。身体壊すって」
「……ん、やーだ。ねたいー……」
「だから、寝ていいから。ちょっとだけ頑張って、ね?」
半分引きずるようにして、彼女をベットまで運んだ。布団にくるませた途端、寝息を立て始めた彼女の横顔を見て、僕は静かに嘆息する。
「 」
名前を呼んだ。少しだけ高い体温を分けてもらうようにして、触れた頬はあたたかかった。
これから、大変なこと、たくさんあるよ。
つらいことも、哀しいことも。
今からだって―――――多分、大変になる思う。でもどうしてかな?
彼女の額に、額をつける。呼吸を、近くで感じた。
――――君となら、大丈夫かななんて、思うんだ。――――
だから、頑張ろうね。
そう心の中で呟いて、僕は目を閉じる。心地よい眠気と倦怠感が全身を襲った。
僕がその後、その体勢のまま眠りに落ちるのに、時間はかからなかった。
§ § §
行ってきます。
そう、呟いた彼女が、朝の光の中で微笑んだ。「……くん」
僕の名前を呼んで、まだ眠たげに、しきりに目元をこすっている僕の袖をつかむ。
「任せたからね、―――――頼る、からね」
「………うん、任された。ばっちこーい」
………何それ不安だなあ。
そう呟くと、彼女はだるそうにしている僕を引き寄せて、抱きしめた。
僕たちの運命が、少しずつ舵切りを誤った朝だった。




