025
「ごめん、画材切れたから買ってくる」
テレビをつけたまますっくと立ち上がった僕に、彼女は首を傾げた。
「………今から?」
もう、午後六時半。確かに、少し遅いかもしれないけれど。
「うん、今から」
驚いた顔をした彼女に、僕は笑いかけた。
「大丈夫、すぐ戻ってくるよ? それとも、一緒に行く?」
彼女は首を振った。
「ううん。それは……いい。夕ご飯用意して待ってるね」
「ありがとう、ほんとにすぐ戻ってくるから」
「…………待ってる」
どことなく不安そうな顔をする彼女の頭を抱き寄せた。後ろでは相も変わらず、彼女の歌声がテレビから垂れ流されている。
「どうしたの、なんか元気、ないよ」
「………そんなことないよ」
「………そう?」
まだ、さっきのこと引きずってるのかな。少し不安になった僕は、彼女の体をそっと抱きしめる。彼女はあきれたように笑って、僕の背中をやさしくたたいた。
「じゃあ、行ってくる」
玄関口で、彼女と対峙する。彼女は少し背伸びをして、僕の首にマフラーをかけた。
「そんな薄着で大丈夫? 外たぶん寒いよ」
「………うーん、大丈夫でしょ。ちょっとだし」
「明日雪だって。楽しみだね」
「ええ……ただでさえ寒いのに」
彼女は嬉しそうに、雪降ったら見に行こうね、と言った。
「描きたいんじゃない? ホワイトバレンタイン」
そう、そうなんだよね。
明日はバレンタイン―――――2月14日だ。まあ、別に僕たちには関係ないけどね。
「えぇー、チョコ食べようよ」
「やだ。作るのめんどくさい」
「買えばいいじゃん、もう、なんで作るの前提なの」
唐突に彼女がかわいいくしゃみをした。確かに、玄関口はさすがに冷える。
「部屋の中入ってて、身体障るよ」
僕がそういうと、彼女は僕を見あげて素直にうなずいた。心なしか顔が赤いように見えるけど―――――さすがに、気にしすぎだろう。
「じゃあ、行ってくる」
振り返って彼女に手を振り、ドアを開けた。瞬間、冷たい空気が頬を刺した。
「…………寒いな」
首をすくめ、僕はひとり呟いて歩き出す。……………ちょっと彼女が心配だ。早く帰らなくちゃ。
§ § §
「……こんにちは」
画材屋さんの主人は、今日も不愛想だ。というか、この人が笑ってるところを見たことがない。
「ちょっと買いたしです。案外早く絵具切れちゃいました」
“習慣”通り、僕は挨拶をして、水彩絵の具の棚をのぞき込む。と―――――その瞬間。
「なぜ、あんなに慌てていた」
渋い、低い声が耳に入ってきた。
振り返る。
主人と、目があった。
濁った、だけど不思議と汚くないその色が、僕を見つめていた。
「………今、しゃべりました?」
「……………あぁ、わしだよ」
え。
ええええええええぇえぇえええええ!
心の中で叫んで、僕はその代わりに目を見開いた。主人はにこりともせずに―――――されどどこかやさしい表情で、もう一度、言った。
「なぜ、あんなにあわてていた?」
「………なぜ、って」
「この前の事だ。“シオン”一本しか買わなかった、あの日だ」
………ああ。
僕は主人に向き直った。その日、なら。
「……今度、息子が生まれるんです。あの色見たらなんか、息子の名前だ―――なんて、思っちゃって。おかしいですよね、そんなの。分かってるんですけど」
「やめたほうがいい」
思わずその無愛想な顔を凝視した。「なんで……ですか」
主人の目は僕の目を、しっかりととらえて、離さない。
「シオンは、やめたほうがいい」
もう一度主人はそう言って、僕から目をそらした。興味がなくなったようにも、気まずくなったようにも見えた。
気にするな、と言われたって、気にしないはずがない。
帰り道、ずっと、画材屋さんの主人の「やめたほうがいい」という低い声が頭の中、こだましていた。
やめたほうがいい。シオンは、やめたほうがいい。
どうして――――――?
寒さも気にならなくて、結局指先が凍えそうになって、あわてて玄関の冷たいドアノブをひねった。相も変わらず、ドアの向こう側からは彼女の歌声が垂れ流されていた。
違和感を覚えた。
何か、聞こえる。
歌声に交じって――――――――
呻き、声?
「君? きみ―――君ッ!?」
彼女は、台所の冷たい床にへたり込んで、必死に耐えていた。冷たい指先で彼女に触れようとして、手を引っ込める。
熱い。
す、と背筋が凍えるのが分かった。
部屋は十分すぎるほどあたたかいはずなのに、震えが止まらなかった。
陣痛?
でも、それにしたって――――
早すぎやしないか?
迷う暇なんてなかった。首を振って、僕は救急に電話をかけた。
「すみません」
「救急車を、お願いします」




