024
足をぱたぱたさせながら手を動かす。下書きなんてあんまししないけど、ちゃんと描くときには僕だって下書きくらいするのだ―――――ていうかもうこのままでいいか、なんて思ってる自分もいるんだけど。
今描いているのは、今度のコンクールの出展作品だ。
まあ、そんな気張らなくていい。気張らなきゃいけないのは締め切りだけだ。
気張らずに気張らずに――――見えている、世界だけを写し取ればいい。そう、こんな風に。
「あ、あの……くん、それ、やめてくれないかな、ほんとに。私恥ずかしさで死にそうなんだけど」
「え? どうして?」
「そんな純粋な顔で聞かないでよ……ちょっと想像すれば分かるでしょ?」
「…………分かんないよ?」
「それが素じゃなかったら怒っていいところなんだけどな、私………」
彼女はこれ見よがしにため息をつく。頬杖をついたまま見上げてくる僕にぶんぶん、と赤くなった顔を振って、彼女は背中を向けた。
「あ――――――もうっ、私の馬鹿ぁあ………。……くんに言わなきゃよかったよこんなこと……」
少し、説明が足りないかもしれないな。
なんてことはない―――――僕は今、彼女が過去に演た、オペラのDVDを見ているだけだ。
ただし。
これが何回目だっけな? まあ、軽く七回目くらいかな。
ともかく馬鹿みたいに、僕は繰り返し、繰り返し、それを見ている事が、彼女にとっては問題らしいけど。
閑話休題。
彼女に「ほっておかれた」僕は、彼女の歌声を聴きながらもくもくと手を動かす。彼女はあんなふうに言ったけど、画面の中の彼女はあまりにも美しい。狂おしいほどに………美しい。
その澄んだ歌声に、心を奪われそうになる。
だから、描かずにはいられない。この音を、僕が愛したこの色を―――――
見てみたいな。
唐突に、そんな考えが浮かんで、僕ははた、と手を止めた。身を起して、彼女を探す。
「ねえ君」
台所にいたらしい彼女が間抜けな声を出して何か応えた。なんと言ったのかは気にしないことにして、僕は言葉をつなげた。
「今度の公演、いつ?」
彼女が僕の隣に座った。
「それがねえ…………」
ん、なになに、なんでそんなバツの悪そうな顔するの。僕の不思議そうな顔を見て、さらに顔をしかめた彼女は、ため息をつくように言った。
「断っちゃったんだぁ………『ハムレット』」
「な!?」
なして!?
「………だってさ」
彼女は僕に寄り掛かって、僕の腕の中に顔を埋める。
「次の公演、演るとしたら、今度の九月なんだけど………さすがに…ねえ」
ああ、なんとなくわかった。
遠慮――――してるのか。
「…分かるでしょ? 紫苑、六か月でさ、その前にもお稽古とかあるでしょう? さすがにあなた一人に任せるわけにはいかないよ―――私のため、なんかに」
「その遠慮、一番やなんだけど。断る前に言ってよ……相談したかったのに」
彼女が、僕の腕の中から僕を見上げた。
「…………絶対……くんいいって言うもん」
「当たり前でしょ」
本当にいいの、君はそれで。
彼女はうつむいた。わからないと、ゆっくり首を振って、彼女はまた捕まえたままの僕の腕を強く抱きしめる。
「大変なのは分かってるし、無理だったら代役立てるって言ってくれたから……甘えた。それだけ。
……………少し、落ち着いたらちゃんとお仕事復帰するし、いいかな、って」
でも、
「きっとハムレットはもう来ない」
「………そうだよ」
君のオリ―フィアを見られるのは、もう、画面の中だけ?
そう言うと、彼女は首を振った。「……その言い方は意地悪だよ、…くん」
「――――ごめん」
「……いいの、もう断ったから、ね?」
………そうなのかな。
聞くのもきっと酷だから、僕は彼女の身体をそっと抱きしめるという答えを返した。共働きという弱点が強く表面に出た形だった。
僕は室内にいられるから、それでいい。
だけど、彼女は?
僕も料理以外の家事、覚えなきゃいけないかな。
そんな事を考えて、僕は苦笑いをこぼした。
ああ、そろそろ画材買いに行かなきゃなあ。
ほら、僕の頭の中はいっつも絵のことばっかりだ。




