天使の庭(8)
エステルがその扉を蹴り飛ばし、中に侵入すると、薄暗い照明の奥で何かが蠢いているのが見えた。それは四足で歩いていた。一見して人間のようだが獣のようなゴワゴワした毛が全身に生えていたし、上腕の筋肉量といったら巌のようだった。それは威嚇するように躰を持ち上げると、躊躇することなく突進してきた。
エステルは一歩だけ後退した。しかしそれは気後れした為ではなく、抜剣しざまに相手を一閃する為、剣の軌道を確保する為だった。
亜人が唸り声を上げながら迫ってくる。エステルは体勢を低くして抜剣した。紫電を纏ったその剣の軌道は亜人の分厚い筋肉の鎧をいとも容易く切り裂いた。だがほとんど出血がない。エステルは驚愕した。亜人は勢いが全く衰えないまま拳を繰り出してきた。
エステルは慌てて剣の平でガードしたが、一撃で折られた。剣の破片が顔に当たり、瞼を閉じる。これがいけなかった。亜人はその図体の大きさからは考えられないほど素早く接近し、腕を振り回した。エステルは腹にまともにその攻撃を喰らった。地面に投げ出され、背中から着地する。大きく弾み、血を吐く。
亜人はエステルが痛みで一瞬意識を飛ばしかけている、そんなときにも間合いを詰め、とどめの一撃を喰らわせようと振りかぶっていた。その無駄のない動きは戦闘機械と言っても差し支えないもののように思えた。エステルは血の混じった痰を吐き、片手で自らの躰を支持し、床の上で躰を滑らせた。魔物の追撃を間一髪でかわし、素早く起き上がった。
「エステルさん!」
アラディンが銃を構えている。だが入口が狭い。射線上にエステルが完全にかぶさっている。それを彼女は何となく察していた。
「来ないで! 私がいきます! アラディンさんは人質の安全を優先してください!」
「しかし!」
「二の太刀を抜きます。もう少し離れないと、アラディンさんごと斬り飛ばしてしまうかも」
「ちょっ……」
アラディンは慌てて後退した。エステルは歯を剥き出しにしてその亜人と対峙した。
その亜人は無垢な瞳をしていた。のっそりと近づいてきたかと思うと、一気に突進し、拳を突き出してくる。
単純だが効果的な動きだった。この狭い空間では思うように躰を動かすことができない。その重戦車のような質量で押されてしまうと何もできない。しかもこの亜人は凄まじい再生能力を有しているようで、先ほど与えたはずのエステルの斬撃の傷が既に完全になくなっている。
凄まじい強敵だった。だがエステルに恐怖はなかった。あるのは義憤だった。歪められた生と、ゾフィーたちの悲哀を思うと、負った傷の痛みなど皆無に等しかった。
エステルは二の太刀を抜き放つ。それは雷光を纏っていた。バチバチと音を立てながら、壁を伝い、亜人に直撃する。普通の魔物相手ならこれで動きを制限できる。だが肉の鎧を纏った亜人にはほとんど効果がないようだった。
「でしょうね。でも、この剣の真価は」
突き出した拳がエステルの腹を再び抉る。しかし今度は、エステルは吹き飛びはしなかった。その場に悠然と立っている。
亜人の腕の肘から先が切断されていた。エステルは切り飛ばされた拳を腹に受けたがその程度の衝撃ではよろめきさえしない。さすがの亜人も腕を掲げて驚愕している。
「ごめんなさい。……その呪われた生を、この剣で絶つ!」
エステルは踏み込んだ。亜人は残っていた腕を振り回して応戦したがエステルの剣がまたもや切断した。両腕を失った亜人は茫然とその場に突っ立っていた。
エステルの剣が脳天に閃く。次の瞬間、エステルは剣を鞘に収めていた。脳天から股下にかけて両断された亜人は大量の黒い血を噴き出しながらその場に倒れた。
エステルは息をつく暇もなかった。物陰からまた別の亜人が二体、顔を出したからだ。
いったい何人いるのか。エステルの脇をアラディンが駆け抜ける。
「人質を保護する。エステルさん、援護してくれ!」
「はい!」
だが人質と言っても亜人たちは人質をどうこうするつもりはないらしく、保育器の前に立って道を塞ぐだけだった。あるいは同類への親近感を、彼らも持っているのかもしれない。その様子に気付いたアラディンが立ち止まった。
「……エステルさん」
「はい」
「彼らはドゥリトルさんから教育を受ける機会もなく、戦闘用に特化させるべく、余計な感情を排除され、話し合いをすることもできそうにない。だからここで倒す他はない」
「……はい」
「彼らはきっと、命令を忠実にこなしているだけなんだ。氷の産褥を命に代えても守れ。そのように命令を受けているに違いない」
「はい」
アラディンは銃を構えた。
「いいかい、エステルさん。僕たちの任務は天使の庭に蔓延る全ての魔物の駆除だ」
「……」
「一度任務を受けた以上、依頼人の不利益になるようなことはできない。だから本来なら、氷の産褥を破壊するなんてことはできるわけがない」
「はい……」
「だから僕たちは、ここにいる魔物を全て排除したら速やかに退避するんだ。それ以上のことはしない」
「はい」
「何も見ないし何も聞かない。胸を張って堂々と帰る。全ての魔物を退治しましたとチェンバレンさんに報告する」
「……魔物」
「え?」
「魔物を駆除するのなら。RA社の人間全てを殺したほうがよほど理に適っています。彼らは化け物です。人の面の皮をかぶったモンスターです」
「エステルさん、気持ちは分かるが」
「人間の境界がどこにあるのか、なんてゾフィーさんは聞きました。でも、私にはRA社の人たちが人間とは思えない。魔物だ。魔物なんです」
「……エステルさん、もうちょっと冷静に」
「タダでは終わらせたくない」
エステルは腹の底から湧き起こるこの感情をどのようにして発散すればいいのか分からなかった。涙が零れ落ちた。
「任務は全うします。でも、タダでは終わらせない……」
エステルは声を絞り出した。亜人たちがのっそのっそと近づいてくる。エステルの視界は涙で霞んでいた。それでもはっきりと敵の位置が分かった。エステルは前に進み出る。アラディンの息遣いを遠くに聞きながらエステルは戦った。血を浴び、肉の飛礫をその辺にばら撒きながら、保育器の奥で微睡む天使たちの顔を見た。彼らはこれからどうなるのだろう。戸籍も何も持たない彼らは、いったいどのようにして生きていけばいいのだろう。エステルは剣を振るいながらその疑問と戦っていた。そうして、氷の産褥は血に染まっていき、やがて肩で息をするエステルだけが残った。
「……ありがとうございます」
ゾフィーがぽつりと言った。エステルは返事ができなかった。




