二十九幕・五稜郭の決戦と魔物の最後
江戸へ戻る官軍の定期便が汽笛を上げている。
箱館港からそれに乗り、椿は江戸から京都へ戻る予定らしい。
寒空の下、二人の男女は手を取り合い見つめ合っていた。
椿は腹の子がうずくのか下腹を抑えていた。
「あと半年もすればこの子も生まれるでしょう。生まれたとしたら、名は何とします?」
「……息子の名前は京星としよう。この蝦夷地の星は綺麗だからな」
昨日の夜、二人で見上げた夜空の星の美しさを思い出した。
そして、定期便への乗客が次々に乗船していき、椿は京史朗の顔を見上げた。
白い息を吐き、京史朗は無言のまま抱きしめた。
椿の体温を感じ取り、唇を噛んで言う。
「愛してるぞ椿」
「私もです、京史朗さん」
「旦那様、だろ?」
「じゃあ、妻でしょ?」
二人は微笑んだ。それが、最後の会話になった。
それから椿は京にて子を産んで京史朗の見る事の無い新時代を息子と共に見た。
※
そして明治二年五月十一日。
ついに官軍の箱館総攻撃が開始された。
元新選組伍長・島田魁らが守備していた弁天台場が官軍に包囲されてしまい孤立したため、土方はすでにここを死地と定めている為に幕軍総裁・榎本武揚等の主張する籠城戦を一蹴し、生に飽きた僅かな兵士を連れて出陣した。入口で刀を抜く和装の鬼に、その鬼は言った。
「先に行く」
「あぁ、死んでこい」
二人の男はそれだけの言葉を交わした。
官軍と呼ばれる相手は新選組が散々斬った長州藩がいる部隊であり、この次の世に幹部待遇でいるはずの人間を新選組は池田屋事件から数えても相当数殺してしまっている。榎本や他の幕臣は謹慎で済んだとしても、この新選組の生き残りである百姓のせがれだけは官軍は生かしてはおかないであろう。
それはすでに流山で処刑された局長・近藤勇が証明している。だが、この戦をする為に生まれた男にそんな考えがあったかはわからない。土方は二重の厚い瞼を細め、自らの芸術を生み出す為に馬上から敵軍を見据えた――。
「新選組の鬼の行動を見て私、榎本武揚は最後の抵抗をしようと決意した! 諸君、この戦争の最後を華々しく終えようではないか!」
そして、榎本は土方を見習い最後の抵抗をしようと動いた。
陸戦、軍艦戦がたちまち勃発し、五稜郭付近は戦火に包まれる。
両軍、持てる弾薬や大砲の全てを使い切るような決死戦になった。
土方は馬上ながら刀を抜き、徹底的に目の前に迫る敵を斬り伏せた。
「引くなぁ! 進め! 進めぇ!」
数で負ける土方軍は勢いこそ凄まじいが、物量には勝てない状況に追い込まれじりじりと後退しつつあった。すると、海沿いで幕府軍の戦果が上がったのを見た。
「……動いたか榎本。この機会を逃すな! 新選組進めーーーっ!」
官軍軍艦・朝陽が味方の軍艦によって撃沈されたのを見て土方は叫ぶ。
すでに新選組という言葉を使っている事にすらこの鬼は気付いていない。
そして、進む部下の一人が地面に赤字に白のダンダラ模様の旗を立てた。
それに土方は戦慄する。
「立ちやがったか……誠の旗が。最後は新選組として逝くか。いい覚悟だ」
いつの間にかその軍は誠の旗を掲げ、進軍し出していた。
鳥羽伏見の戦い以来の誠の旗に土方は京都時代を思い出す。
そこに京史朗が率いる部隊も合流し、激戦は続く――。
誠の旗が立った事により士気が大いに向上し、二人の鬼の軍は屍を築く。
しかし、時代の大いなる風が蝦夷地に吹き、戦いの流れは変わる。
『うおおおおおおおおおおおおおっ!』
遠くで赤い煙幕が上がり、二人の鬼は躍動する。
これだけの銃兵がいるにも関わらず、刀で戦う姿に官軍も畏敬と尊敬を覚えた。
だが、吹きすさぶ時代の風に徳川の終わりを担う二人の鬼も押され出し、箱館一本木関門にて土方は言った。
「俺はこの柵から退く者を斬る! 全軍全進せよ!」
と京都時代のような部下の死をかえりみない命令を出した。
土方は一本木関門を最終防衛拠点として守備し、七重浜より攻め来る官軍に応戦し馬上で指揮を執る。その場の煙に紛れ、眼帯をした短い白髪の男が、顔の火傷を掻き毟りながら立ち尽くしていた。そしてもう一人の鬼が顔の血を拭いながら言う。
「……すまねぇ土方。決着をつける相手がいる」
「行け、貴様がいても足でまといだ」
「多摩の剣術試合で百勝百敗だったお前との決着は必ずつける。死ぬなよ」
「貴様より強い俺が死ぬ? 冗談は多摩で溺れ死にそうになってた時から下手な男だ。この新選組副長が死なぬのはお前が一番知ってるはずだ」
笑う京史朗は赤い煙幕が上がる方向に馬で駆けた。
その姿を、木の上にいる桔梗院玲奈は見据えていた。
「……甘いわね。ここで殺す」
細い指が絡む玲奈の鞠爆弾が投げられようとする――。
「!?」
「影は日向に出ないものよ」
何故か動かない玲奈の手には、苦無が刺さっていた。
「あら、鬼瓦の犬がまだ生きていたの?」
地面に落ち、爆発を背後に言う玲奈は呟く。
そして、二人の女の最終決戦が始まる。
※
世界を白い闇で埋める白銀の雪が――戊辰戦争の終結を歓迎するように降って来た。
片目に眼帯の二人の男が対峙している。一人は和装の月代を剃り上げた鬼のような目をした眼帯の武士であり、一人は顔に火傷の跡があり短い白髪の黒皮のコートを着た洋風の眼帯男である。
紅蓮の眼差しがぶつかり合い、これで互いの最後の戦いという事を否応無くわかっていた。
戊辰戦争最後の戦であるこの日、この場所で決着をつけねばならない。
新時代には、これだけの熱い血潮が沸き立つ戦などは無い事を互いは直感で感じ取っていた。
機械に頼るばかりでは、人間の本質の技術は衰えるばかりである。
「もう何年前になるか。お前と出会ったのは……」
「僕達の馴れ初めかい? それは……」
「あー、辞めだ。過去は振り替えらねぇ。今を楽しもうぜ。その為に俺達は個人的な意思でここにいるんだ」
にやりと笑う摩訶衛門は言う。
そして死油の小瓶の一つを飲み干した。
全身を奮わせる摩訶衛門の最後の寿命を爆発させるように右の心臓が鼓動を早める。
「そうだねぇ……これからの全ては僕の人生において最大の祭りにならなければならないよ」
「祭りは終わりがあるのを知ってるか?」
そして両者の個人的な宿命の対決が幕を開けた――。
「つあああああああああああっ!」
「不思議! 不思議! 摩訶不思議!」
雪の白銀が二人の剣の熱で溶け、空間に結界のようなものが出きていた。
実力はもう互いに知り抜いている。
勝つ事が勝者である戦である以上、姑息な手も使わなければならない。
勝てば官軍・負ければ賊軍――という隠語が幕府軍の一部で囁かれていたのを京史朗は知っていた。
激しい爆発が白く染まる地面を抉る。
摩訶衛門は玲奈が生み出した鞠爆弾を連続して投げ出していた。
それを京史朗は必死に駆け抜け、爆風を突破する。
「こんなもので死んでもらっては困るよ。もう使わないから君に全て投げてやったのさ」
「――ならこっちもくれてやる。おらよっ!」
背後に下がった京史朗は水溜りの氷を蹴り上げる。
顔面に迫るその氷を摩訶衛門は口でくわえ、突きを繰り出す――。
「硬い? 防具を仕込んでいたかい?」
「防具じゃなく、武器だな」
その一撃は懐の拳銃が防いでいた。
「つえぁっ!」
その隙を利用し、無防備な摩訶衛門の首筋を袈裟に斬った。
「刀が食い込まない? うおおっ!」
この男は異様に身体が硬く、身体の熱さが異常だった。
(刀に熱が篭ってる? いや熱があるのはこいつの身体――)
一瞬にして、京史朗は胸を斬られていた。
「……っ! いい切れ味だな。前の刀より切れるんじゃねーか?」
「そのうち君を活性化させるか身体の自由を奪う毒が全身に廻るよ。この血神狂星丸は死油で満ちているからね」
「死油が刀に? おいおい、どんなからくりだよ……」
「この刀は僕そのもの。故にこれが折れなければ僕は死なないのさ」
「わけのわからん事を――」
不気味に煌く血神狂星丸の剣の嵐に押され出す。
死油を纏う刀のせいか、京史朗は一撃を受けてから身体の動きにやや鈍さがあった。
そこを突くように白髪の魔物は躍動し、京史朗は地面に倒れた。
と、同時に刀を落としてしまう。
「しまっ! ぐおっ……」
肩を摩訶衛門のブーツに踏まれ、刀の切っ先を心臓に突きつけられる。
「君は死油に選ばれなかったのが残念だが、君との楽しい祭りもここで終わりだ」
「そんなつれねー事言うなよ兄弟」
「何を言って――!?」
倒れた状態から京史朗は落としていた鬼神龍冥丸で摩訶衛門の左胸を突き刺していた。
「……外れたか。どうした? そんな驚いた顔なんざお前にゃ似合わんな。俺の手から離れた刀がここにある理由は、刀の柄に紐を仕込んどいたのさ」
「……全く君は、小賢しい奴だよ。故に愛おしい」
口元を歪ませ、流石だと思う摩訶衛門に京史朗は更に言う。
「それと残念だったな。あんまり死油の毒の効果は無いようだぜ」
以前、摩訶衛門に首を噛まれた時に抗体が出来ていたらしく、死油の毒の効果はほぼ皆無だった。
それを何となく察する魔物は大きく切れた口を開いた。
「流れが停滞したね。摩訶不思議。摩訶不思議」
「そうね。ちょうどいい場面に来れたわ」
そこには、全身に傷を受ける玲奈がいた。
ここに玲奈がいるという事は、月影はもう――。
「月影は殺したわ。かなり苦戦したわよ」
「そうか。ならお前さんも始末する対象になったな」
鬼の瞳で京史朗は言った。
その京史朗は理解不能だと思わざるを得ない女の言葉を聴く。
「私の膣で採取した貴方の精液を死油に加えて摩訶衛門に取り込んだ。これで摩訶衛門は更なる力を手にした。だから貴方の刃は深くは切れないはずよ」
「摩訶不思議を超えた話だな。まぁよくわからんが、お前は情事の最中にもそんな事を……」
瞬間、魔物の手が動いた。
死油の瓶が手に当たり鬼神龍冥丸が手から離れてしまう。
「しまっ――」
「実際、摩訶衛門が強くなったかはわからない。けど、思い込みだけでも人は強くなる。それを死油で摩訶衛門は証明しているの」
玲奈の言葉など聞いていられない京史朗はすぐさま拳銃を撃った。弾丸が二発放たれ、その二発は摩訶衛門の肩に当たるがそれ以上が撃てない。先程受けた一撃で拳銃が壊れていたのであった。
「くそっ! こんなもんに頼るなんてどーかしてるぜ!」
壊れた拳銃を投げつけた――が、
「痛くないぞ! 摩訶不思議ぃ!」
凄まじい蹴りをくらい一気に吹っ飛んだ。
迫る摩訶衛門に京史朗は一本の苦無を出し、祈りを込めた。
(月影――力を貸してくれ!)
左腕が痺れる京史朗は苦無を投げた。
それは摩訶衛門の右胸にある心臓の寸前で止まる。
(刺さったが奥までいかないか――ならば――)
痺れたままの手で無理矢理刀を掴んだ。
『うおおおっ!』
冥府の狭間にいる二人は刀を振りかぶる。
「ぐああっ!?」
魔物の胸に刺さる苦無に一つの苦無が当たり、先に刺さる苦無が奥に喰い込み心臓を刺激した。
その冥府の門がそびえるような空間に、黄色い忍が現れる。
「――私を殺すなら死体を粉々にしないとね」
「……ふーん。あの傷で生きてるとはね。本当にしつこい女だわ」
「貴女だって、本当はもう動けないはずよ」
血まみれの月影は、もう動く力も無かった玲奈の首を飛ばした。
「死んだか。そして生きてたか」
京史朗はしゃがみ込み、玲奈の首に手ぬぐいをかける。
それを見据える魔物は真っ赤な瞳を震わせ、言った。
「玲奈には感謝するよ……僕にはもう痛みも無く、身体は常に活性化され、湧き上がる力だけがある。正に僕は最強だよ……最強――――――――――っ!」
「黙れーーーーーーーーっ!」
京史朗は煙管の柄で摩訶衛門の喉を刺す。
「傷みが無いのが仇になったな。死油に頼り過ぎて、自分の身体の動きが悪くなる場所がわかんねーのがお前の敗因だ。伏見奉行なめんなよ」
「それが何だい?」
嗤いながらがぶり……と噛み付いた。
それに京史朗も嗤い、抵抗はしない。
「痛いぜ……そして痛みを返すぜ」
そして、京史朗の摩訶衛門への贈り物が暴かれていく――。
「これは夜談の雀の餌――と小太刀」
死んだ夜談の雀の餌が魔物の口に押し込まれた。
痛覚が消えている摩訶衛門に刺された小太刀以上の激痛が走る。
(なっ!? 僕の身体がおかしい!?)
「これは金之助の小判――」
閃光のように全身に小判による銭投げを浴びせた。
そして、金之助と共に殺された伏見奉行所役人達の持っていた十手が懐から出された。
「これは伏見奉行所役人の十手――」
「……これ以上はやらせんよ!」
迫る摩訶衛門の額に伏見奉行所役人達の思いを込めた一撃を叩き込む――そして、
「これが俺の伏見奉行としてのお前さんへの今までの全てをひっくるめた一撃だ!」
月影の手から玲奈が生み出し、摩訶衛門が作成依頼をした刀が投げられた。
その、鬼神龍冥丸が脳天から股間まで一気に切り下げられた――。
白目を剥く摩訶衛門は息が止まり、刃を振りぬいた。
雪の突風が金属音をかき消し、鬼神龍冥丸が折れた。
そして伏見奉行は丸い玉を魔物の口に込めた。
「これは玲奈からくすねた炸裂弾だ。内部と外部から木っ端微塵に消えされ馬鹿野郎」
すでに意識が無い摩訶衛門は夢遊病のように呟く。
死油の効果は、この魔物の意識すらも乗っ取ってしまっていた。
「摩訶不思議……摩訶不思議……」
「この世に、摩訶不思議なんて事はねーんだよ三下」
激しい爆発音と共に肉体が爆散し宿敵との決着はついた。
「どうやら、折れた方が死ぬってのは外れたようだぜ玲奈」
言うなり、地面に刺さる血神狂星丸を引き抜いた。
そして、箱館一本木関門に戻る京史朗は運命の相棒であった男と再会した。
※
箱館一本木関門では紺色の旋風と呼ばれた伊庭八郎が銃弾により戦死した。
その隻腕の手には銃ではなく、刀が握られていたのがこの男の生き様だった。
周囲には官軍が包囲網を敷き、絶体絶命の状況であった。
それでも抵抗する背中合わせの二人は言う
「おい土方、お得意の鉄砲はどうした? これからの戦は鉄砲なんだろ?」
「阿呆が。戦に鉄砲などを使うのは足軽だけよ。俺は天下の新選組副長だぞ」
「だな。俺は伏見奉行。それで終わるとするかね」
どうやらこの鬼の二人には最後には斬り込む事以外、頭に無いらしい。
すでに京の日々の戦いは鳥羽伏見の戦いで様変わりしたが、戦の終わりは決死の斬り込みというのが戦の終わらせ方のようだ。
「土方、俺は西郷を斬りに行く。お前はどうする?」
「俺は先に新選組の仲間を助ける。西郷はその後だ」
「なら先に西郷をやるぜ」
「ふん、貴様が西郷を斬る前に俺が仲間と共に到着し、池田屋を超える新選組黄金期の始まりになる。お前の糧でな」
「へっ、新選組の親玉は恐ろしいもんだぜ」
「邪魔だ――」
疾風のように動き土方は京史朗を狙う敵を斬る。
「ここで死ぬわけにはいくまい。俺は貴様を殺していないからな」
「へっ、そうだな。お前が死なんと平和な世はなさそうだぜ」
二人はここにきて、互いの本質は同じだと確証していた。
『武運を!』
馬上で刃を交わした鬼の二人は別れた。
すでに互いの決着などは無い事を悟りながら――。
京史朗の別働隊は馬で官軍本部まで駆ける。
すでに月影しか従う者が無く、今まで死んだ仲間を思い出す。
「……」
京都、江戸、会津、蝦夷地――。
思えばまさかここまでの転戦をするとも思ってはいなかった。
日本地図の北半分の区域で戦をしているなど考えられない。
本来ならば京都より下区域に繰り出さなければならない幕府軍は薩長の土地を踏む事も無く、北へ北へ追いやられた戦だった。
(……まぁ悪くない人生だったな。最後にここまで戦え、椿にも会えて子もいる事を知った。十分な人生だったぜ鬼瓦京史朗の人生はよ)
過去の全てを振り返り、記憶の奥にとどめた。
その瞬間、アームストロング砲の爆発が聞こえた。
そして、全身に鳥肌が立ち、一人の鬼が逝った事を直感でわかった。
激しい乱戦の中、銃弾に腹部を貫かれてにて土方歳三は戦死した。
土方の命令によって台場方面に進軍していた兵士らは一時勢力を盛り返していたが、総崩れとなり幕軍は崩壊した。土方の遺体は他の戦死者と共に五稜郭に埋葬されたとも、別の場所に安置されていたとも言われるがその場所は特定されていない。享年三十五才。
辞世の句。
「よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東あずまの君やまもらむ」
とも伝わっていたが、新選組伍長・島田魁がまとめたとされる和歌集の巻頭歌「鉾とりて月見るごとにおもふ哉あすはかばねの上に照かと」
が、土方の辞世と考えられるとの説があった。
「……」
幕府軍最後の一匹となる鬼。
伏見奉行・鬼瓦京史朗は背後に月影を従え官軍の総大将である大仏の下へ進む――。




