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悪臭

 男が一人いた。

 男には、友人がいた。その友人は、初老の紳士だった。

 紳士に招かれ、男は彼のモダンな家へと遊びに行った。


「花はどうしたんですか?新しく挿さないので?」


 その紳士は、一輪挿しに一つの花を入れて、愛でるのが好きだった。

 しかし、今の一輪挿しは、空である。


「…気にしなくていいよ」


 微笑んで紳士は言う。


「それより、新しい仕事はどうだい。順調かい」

「ええまあ、それなりに…」


 言葉を濁して、紳士に伝える。

 本当はもうやめてしまった。男はどうも昔から、仕事が続かない。


「僕は…どうも、環境に適することができないんです。これは生来の気質だ」

「適することができない?」

「人間は慣れる生き物でしょう?しかし、僕はどうも…。実は、新しい仕事も馴染まなくて」

「…」


 それを聞いた紳士は、少し考え込んだ。


「君になら、話してもいいか」

「…何をです?」

「非科学的というか…オカルティックな話なんだ。花を置かないのもそれが原因だ。信じては貰えないと思うけど」

「あなたが面白い冗談を言えたこと、あります?…聞くまでもなく、信じますとも」


 男の言葉を受け、紳士ははにかんで笑い、話し始める。


「あれは…一月ほど前のことだったかな。バスルームで違和感を感じたんだ。…オブラートに包まず言うと、臭かった。原因はわからない。私の加齢臭が、バスルームに移ったのかな、と少し悲しかった」

「あなたは臭くないと思いますけど」

「ありがとう。私もそう思いたいところだよ。…それでその後、息子と、息子の友人が家に来た。全員、同じ匂いがして臭かった。これは加齢臭ではないな、と気が付いた」


 それでは原因はなんだろう、と男は首を傾げた。


「私は散歩に出た。その時、犬がいて、飼い主さんと少し談笑した後、触らせて貰った。犬からも同じ悪臭がした」


 臭いだけなら、犬だから仕方がないのかもしれない。けれども、やっぱり同じ匂いだったとなると、話は別だ。


「この悪臭は何だろう。嗅いだことがない。癒されたいと思った私は、一輪挿しに生けてある花を嗅いだ。やっぱり悪臭がした。これはもう、私の鼻が悪くなったんだなと思い、病院に行った」

「それで、どうだったんです」

「異常なし、だ」


 なんとなく、そんな気はした。


「とうとう、本や椅子から悪臭がし始めた。家族は悪臭に気が付かない。私だけ、悪臭の中苦しんでいた」


 無機物からも悪臭がし始めたということは、ほとんど全ての物に、悪臭がするのではないだろうか。


「どんどんひどくなっていく匂いに私は耐えきれなくなり…鼻を、壊そうとした」

「…」


 否定できない行動だ。

 匂いによる苦しみは、彼にしかわからない。だから、自分を傷つけるような行動でも、彼の痛みをわかっていない限りは、容認するべきかもしれない。ストレスで死んでしまうよりはよっぽどいい。


「でも、結局壊さなかったんですね」

「壊す前に、気が付いたんだ。悪臭がしない、って」

「急に匂いが止んだのですか?」


 ホッとしたように、男が尋ねる。


「まさか。今でもきっと、悪臭はしているんだと思う。だが、人間は慣れる生き物だ。全てのものから悪臭がすれば、鼻が適応する」


 つまり、だ。

 男は、一番恐ろしいことに気が付いた。


「君がこの怪奇現象にかかっていれば、適応できない君は自ら鼻を壊すことになっていたのかもしれない」


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