序章
土曜の一時十五分、郊外のショッピングモールのフードコートは八割ほど埋まっていた。
券売機でかけうどんを買った。三百八十円。ボタンを押してから食券が出るまでに二秒かかる。トレーを持って、いちばん端の四人がけに座った。二人がけは全部ふさがっていた。
番号を呼ぶブザーがあちこちで鳴る。返却口にトレーを重ねる音がする。離れた席で子どもが泣いていて、五分ほどで止まった。
うどんは熱かった。ねぎが多い。天かすは自由に取れるようになっていて、僕は取らなかった。
向こうの席で、部活帰りらしい制服の子たちがポテトを分けあっている。その隣に老夫婦がいて、二人とも何も食べずに座っていた。買い物袋を椅子の上に置いて、動く人を見ている。
斜め向かいの席で、子どもがドリルをやっていた。
小学二年生か三年生だと思う。何年生かは知らない。青い表紙で、右のページに計算が二十問並んでいた。鉛筆が短い。消しゴムのかすが、テーブルの端に寄せて集めてあった。
表紙には名前を書く欄があって、そこだけ字が大きい。読める距離ではなかった。読もうとしたわけでもない。
母親は向かいに座ってスマートフォンを見ていた。時々顔を上げる。爪は短く切ってあった。前髪をとめているピンが、左だけ二本だ。
子どもの手が止まった。
母親が身を乗り出して、ページをのぞく。それから指で一箇所をさした。
「なんでこれが分からないの」
大きい声ではない。怒鳴ってもいない。周りの誰も、こちらを見なかった。
子どもが顔を上げた。
口は閉じたままだった。目だけが動いて、母親の顔の、たぶん眉のあたりを見る。〇コンマ何秒か止まって、それから鉛筆を持ち直した。持ち直すときに、握る位置が二センチくらい下がった。
その持ち直し方を、僕は知っている。指の腹に力が入って、芯が紙に強く当たるようになる。字が濃くなって、消しゴムで消えにくくなる。
唾を飲み込もうとして、飲み込めなかった。
うどんの汁のにおいが強くなった。だしのにおいと、隣の席のたこ焼きのソースのにおいが混ざって、鼻の奥のほうで止まる。耳の中で高い音がした。両方の手のひらが濡れていた。
子どもは計算を続けている。八問目で、また手が止まった。
立った。椅子が鳴った。
トイレは通路をはさんだ反対側にある。三十歩くらいだ。歩いているあいだに、額と首の後ろから汗が出た。
個室に入って鍵をかけた。便座の蓋は上がっていた。膝を床につけると、ズボンに冷たいものがしみた。
一度目でうどんがそのまま出た。噛んでいない。ねぎが浮いた。二度目は汁だけで、酸っぱいものが鼻に抜けた。鼻の奥が焼けて、目から水が出る。三度目は何も出ない。腹の底のほうが二回、勝手に動いた。
水を流した。渦が消えるまで、七つ数えられた。
病気ではない。前の日も、その前の日も、同じものを食べて何ともなかった。熱もない。医者には行っていない。行ったところで、話すことがなかった。
こうなるのは、二年で四回目になる。
しばらく、便座の縁に手をかけたままでいた。ドアの向こうを人が通る。誰かがハンドドライヤーを使い、その音が終わるのを待ってから出た。
膝についた水を手のひらで払った。ズボンの布が皮膚に貼りついている。
洗面台で口を三回すすいだ。まだ酸っぱい。手を洗ってハンドドライヤーに突っ込むと、音が大きい。二十秒くらいで止まる。止まったあとも、耳の中に音が残った。
顔を上げると、鏡がある。
父に似てきている。
目の下のたるみ方と、生え際の後退の仕方が同じだ。父が四十のときの顔を、僕は写真で知っている。僕は二十八だから、十二年ぶん手前にいる。それでも似ていた。
父とは三年、母とは六年会っていない。
ポケットでスマートフォンが震えた。
通知が一つ増える。画面に名前が出た。母。
開かない。開かないまま、通知の一覧を見た。同じ名前が積み上がっている。数えたことはないと言いたいところだが、数えてある。四十七件だ。
いちばん古いのが六年前の四月。いちばん新しいのが、いま来たものになる。
中身は読んでいない。通知に出る最初の十数文字だけは、見えてしまうから知っている。
元気ですか、で始まるものが多い。寒くなってきたので、で始まるものが五つか六つある。お父さんが、で始まるものが一つある。それがいつのものかも覚えている。三年前の十一月だ。
六年前の四月に何があったかは、ここでは書かない。
母は一度も僕を殴らなかった。怒鳴ったこともない。だから、これは母のせいではないと思う。
トイレを出た。通路の突き当たりに、赤ちゃん連れの人が座れるベンチがあって、そこで女の人が哺乳瓶を振っていた。
斜め向かいの席は空いていた。トレーが片づけられていて、テーブルが拭いてある。消しゴムのかすも無い。僕のうどんは返却口の上に置かれたままで、汁の表面に膜ができていた。
あの計算は、二十問のうち十一問で止まっていた。
通路のほうを一度だけ見た。二人はもういない。
がんばれよ、とは思わなかった。
*
小学生のころ、家の電話は廊下にあった。
白い子機で、台の上に置いてあった。台は木で、電話帳を入れる引き出しがついている。
母がそこで長電話をする。伯母か、ママ友の誰かか、年賀状を出す親戚の誰かだ。僕は自分の部屋でプリントをやっていて、声が壁ごしに聞こえていた。話しているときの母の声は、家の中で出す声より少し高くなる。
ある日、こう言うのが聞こえた。
「うちの自慢の息子が」
そのあとに何を言ったかは覚えていない。笑い声がして、それから話は別のところへ行った。
僕は部屋を出なかった。廊下に立って聞いたわけでもない。ドアは閉まっていて、机に向かったまま、プリントの手が三秒くらい止まった。それだけだ。
その日にやっていたのは足し算の筆算で、ページの上の隅に日付を書く欄があった。そこには自分で日付を入れる決まりになっていた。
その日、母が何の用で電話していたのかは知らない。
*
いまは、建物の設備を見る仕事をしている。
九階建てのオフィスビルで、テナントが十一社入っている。最後の一社が帰るのは十時前後だ。それから朝までは、僕と警備の人しかいない。
夜の九時に入って、朝の六時に出る。決まった順番で歩く。地下二階の機械室。地下一階の受水槽。屋上のポンプ。それから各階の空調を、上から下へ見ていく。
昼のあいだ建物を通っていた人の熱が、夜のうちに抜けていく。廊下の空気が朝に向かって重くなる。誰もいない階でエレベーターが動くことがあって、それは戻ってきているだけだと、いまは分かる。
点検記録に数字を書く。圧力。温度。電流値。良いとも悪いとも書かない。そのときの数字を書くだけだ。用紙は一晩で四枚になる。書き終えると翌朝の人が引き継いでいく。誰かが読んでいるのかどうかは知らない。
地下二階は音が多い。ポンプが二台あって、交互に回る。片方が止まると、もう片方が動きだす。その切り替わりの音を、僕は覚えている。
三か月前、そのうち一台の音が変わった。数字はまだ正常だった。報告書には振動が大きいですと書いた。二週間後に部品を替えて、その日の朝礼で名前が出た。四秒くらいだ。
誰にも褒められなかった。当たり前だ。壊れなかったのだから、何も起きていない。
*
部屋に帰ったのは三時前だった。
押入れの上の段に段ボールが一箱ある。引っ越しのときに使ったやつで、横に前の住所が書いてあって、二重線で消してある。ガムテープはもう粘りが無い。上に埃がのっている。
中身は答案用紙だ。小学校のものから、高校のものまで。何枚あるかは数えていない。
捨てようとしたことが二回ある。二回とも、箱を出したところで手が止まった。一度目は二十四のとき、二度目は去年の九月だ。
理由は分からない。
箱の底のほうに、答案ではない紙が一枚だけ入っている。半紙で、折り目が四つついている。それについては、いまは書かない。
窓を開けると、下の駐車場で誰かが車のドアを閉めた。音が二回した。エンジンの音が遠ざかって、聞こえなくなった。
冷蔵庫が動きだす音がする。しばらくして止まる。この部屋で夜に鳴るのはそれくらいだ。
日曜の夜からまた仕事だ。九時に入って、六時に出る。ポンプの音を聞いて、数字を書いて帰る。
その仕事を、僕はわりと気に入っている。
気に入っている人間が、フードコートで吐くのは、どういうことなのか。
僕が最後に「よくできました」と言われたのは、十五歳の三月だった。




