44.奇跡を信じて(最終章)
すると、田村は静かに立ち上がった。
ざわめいていた会場が、水面に風が止んだように静まり返る。
マイクを握る右手は、わずかに震えていた。
それでも、その瞳だけはまっすぐ前を見据えていた。
「……私の口から、お話しします」
低く落ち着いた声が、会場の隅々まで染み渡る。
「六年前、妻と旅行から帰る途中、交通事故に遭いました」
田村は一度言葉を切った。
「そのとき、妻のお腹には、私たちの子どもがいました」
息をのむ音さえ聞こえた気がした。
「ですが……その子は、生まれてくることができませんでした」
誰も言葉を発しない。
シャンデリアの光だけが、静かにグラスへ映り込んでいる。
「私は悲しみから逃げるように、野球だけを見ていました」
「けれど、グラウンドでは結果がすべてです」
「思うような成績を残せず、私はシーズン途中でユニフォームを脱ぐつもりでした」
会場のどこかで、小さく鼻をすする音がした。
田村はゆっくりと顔を上げる。
「そんな私を変えてくれたのが、一人の少年でした」
その表情だけが、ふっと柔らかくなる。
「白血病と闘っていた少年です」
「半年もの間、病と向き合いながら、それでも毎日笑っていました」
「私は、その子から"闘う"ということを教えられたのです」
少しだけ目を閉じる。
そこには、病室で笑っていた少年の姿が浮かんでいた。
「ある夜、夢を見ました」
「少年は言いました」
『ホームラン王になって』
『約束だよ』
田村は微笑んだ。
「夢の話です」
「笑われても仕方ありません」
「でも……私には、あれが夢とは思えませんでした」
会場は静まり返ったままだった。
誰一人、笑う者はいない。
「私は、その約束を信じました」
「そして今日――」
田村は客席へ目を向ける。
「その少年は、この会場に来ています」
視線が一斉に客席へ集まる。
「大地君」
「こちらへ来てくれるかな」
大地は驚いたように目を丸くし、それから満面の笑みを浮かべた。
「タムが……僕を呼んでる」
幸雄は涙をこらえながら、そっと背中を押した。
「行っておいで」
「うん!」
小さな足が、一歩を踏み出す。
広い会場を歩くその姿を、誰もが静かに見守っていた。
やがて、自然と拍手が起こる。
誰かが始めたわけではない。
その歩みを応援するように、温かな拍手が少しずつ広がっていった。
壇上に上がった大地は、田村の隣へ並ぶ。
二人をスポットライトが優しく照らした。
田村は目線を合わせるように膝を折る。
「ありがとう」
「君がいたから、私は最後までバットを振ることができた」
大地は首を横に振った。
「違うよ」
小さな笑顔は、どこまでもまっすぐだった。
「タムがホームランをいっぱい打ってくれたから、僕は頑張れたんだ」
「ありがとう」
その一言に、飾りは何一つなかった。
だからこそ、誰の胸にも深く届いた。
壇上の選手が目を伏せる。
関係者がそっとハンカチを当てる。
客席では、肩を震わせる人の姿があった。
そして、静かな拍手が再び湧き起こる。
今度は誰も止めようとしなかった。
田村はそっと大地の肩へ手を添える。
その小さな温もりに触れた瞬間、胸の奥に長い間閉じ込めていた何かが、静かにほどけていく気がした。
抱くことのできなかった命。
守れなかった約束。
失ったものは戻らない。
それでも、人は誰かとの出会いによって、もう一度前を向くことができる。
大地はそっと田村の手を握った。
その小さな手は、驚くほど温かかった。
会場を包む拍手は、いつまでも鳴りやまない。
その夜、誰もが胸に刻んだ。
勝敗や記録では量れないものがある。
人を支えるのは、誰かを思い続ける心なのだということを。
そして田村は、もう引退を口にすることはなかった。
守るべき約束が、また一つ増えたのだから。




