表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
44/44

44.奇跡を信じて(最終章)


すると、田村は静かに立ち上がった。


ざわめいていた会場が、水面に風が止んだように静まり返る。


マイクを握る右手は、わずかに震えていた。


それでも、その瞳だけはまっすぐ前を見据えていた。


「……私の口から、お話しします」


低く落ち着いた声が、会場の隅々まで染み渡る。


「六年前、妻と旅行から帰る途中、交通事故に遭いました」


田村は一度言葉を切った。


「そのとき、妻のお腹には、私たちの子どもがいました」


息をのむ音さえ聞こえた気がした。


「ですが……その子は、生まれてくることができませんでした」


誰も言葉を発しない。


シャンデリアの光だけが、静かにグラスへ映り込んでいる。


「私は悲しみから逃げるように、野球だけを見ていました」


「けれど、グラウンドでは結果がすべてです」


「思うような成績を残せず、私はシーズン途中でユニフォームを脱ぐつもりでした」


会場のどこかで、小さく鼻をすする音がした。


田村はゆっくりと顔を上げる。


「そんな私を変えてくれたのが、一人の少年でした」


その表情だけが、ふっと柔らかくなる。


「白血病と闘っていた少年です」


「半年もの間、病と向き合いながら、それでも毎日笑っていました」


「私は、その子から"闘う"ということを教えられたのです」


少しだけ目を閉じる。


そこには、病室で笑っていた少年の姿が浮かんでいた。


「ある夜、夢を見ました」


「少年は言いました」


『ホームラン王になって』


『約束だよ』


田村は微笑んだ。


「夢の話です」


「笑われても仕方ありません」


「でも……私には、あれが夢とは思えませんでした」


会場は静まり返ったままだった。


誰一人、笑う者はいない。


「私は、その約束を信じました」


「そして今日――」


田村は客席へ目を向ける。


「その少年は、この会場に来ています」


視線が一斉に客席へ集まる。


「大地君」


「こちらへ来てくれるかな」


大地は驚いたように目を丸くし、それから満面の笑みを浮かべた。


「タムが……僕を呼んでる」


幸雄は涙をこらえながら、そっと背中を押した。


「行っておいで」


「うん!」


小さな足が、一歩を踏み出す。


広い会場を歩くその姿を、誰もが静かに見守っていた。


やがて、自然と拍手が起こる。


誰かが始めたわけではない。


その歩みを応援するように、温かな拍手が少しずつ広がっていった。


壇上に上がった大地は、田村の隣へ並ぶ。


二人をスポットライトが優しく照らした。


田村は目線を合わせるように膝を折る。


「ありがとう」


「君がいたから、私は最後までバットを振ることができた」


大地は首を横に振った。


「違うよ」


小さな笑顔は、どこまでもまっすぐだった。


「タムがホームランをいっぱい打ってくれたから、僕は頑張れたんだ」


「ありがとう」


その一言に、飾りは何一つなかった。


だからこそ、誰の胸にも深く届いた。


壇上の選手が目を伏せる。


関係者がそっとハンカチを当てる。


客席では、肩を震わせる人の姿があった。


そして、静かな拍手が再び湧き起こる。


今度は誰も止めようとしなかった。


田村はそっと大地の肩へ手を添える。


その小さな温もりに触れた瞬間、胸の奥に長い間閉じ込めていた何かが、静かにほどけていく気がした。


抱くことのできなかった命。


守れなかった約束。


失ったものは戻らない。


それでも、人は誰かとの出会いによって、もう一度前を向くことができる。


大地はそっと田村の手を握った。


その小さな手は、驚くほど温かかった。


会場を包む拍手は、いつまでも鳴りやまない。


その夜、誰もが胸に刻んだ。


勝敗や記録では量れないものがある。


人を支えるのは、誰かを思い続ける心なのだということを。


そして田村は、もう引退を口にすることはなかった。


守るべき約束が、また一つ増えたのだから。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ