一刀の香 ①
雨上がりの赤坂、石畳の裏路地に足を踏み入れたとき、神谷悠斗は思わず腕時計を見た。午後7時ちょうど。外資系戦略ファームで幾度となく会議をリードしてきたこの男にとって、分刻みの正確さは信念のようなものだ。
「こんな場所に店が?」
立ち止まった目の前には、暖簾も看板もない古い木造の建物がひっそりと佇んでいた。窓は曇りガラス。街の喧騒が遠くに霞んでいく。
「ようやく、連れて来る価値が出てきた」
その低い声と共に、背後から現れたのは錦戸清志。政財界の重鎮にして、神谷が唯一“耳を傾ける相手”だった。
「目立たないものほど、深い。この扉の奥にあるのは、成果でも、評価でもない。……“時間”そのものだ」
神谷は眉をひそめたが、何も言わずにあとに続いた。
中に入ると、すぐに靴を脱ぐよう促された。畳に足を乗せた瞬間、外の世界が一枚の障子の向こうへと押しやられる。踏みしめる足音すら吸い込まれるような静けさ。ふと前を見ると、一人の女性が静かに頭を下げていた。
「ようこそ、『饗』へ」
女将、堀内美咲。凛とした佇まいに、豊かな知性と包容力を感じさせる女性だった。
通された個室には、余白があった。壁には一切の装飾がない。漆黒の折敷の中央に置かれた一枚の灰青釉の平皿が、まるで部屋全体の主役であるかのように存在感を放っている。
「本日は、初鰹をご用意いたしました」
その一言で、空気が変わった。神谷は不意に肩の力が抜けるのを感じた。




