一時
「何だかお腹空いたし、美味しい物が食べられるお店に連れて行ってくれない?」
心が満たされたら、今度はお腹を満たしたい。
本当は華音さんのお店で食べたいところだけれど、本日は生憎急用で店を閉めているらしい。何でも、喫茶店の給仕メンバーと試作会をするからと。
私の言葉を聞くや否や彼は懐から懐中時計を取り出し、時刻を確認する。
「兎の店で食べて来なかったのか? まったく食欲旺盛なことだな」
何だこの腹立たしい言い草は。そっぽを向いて聞こえないふり。通りを歩く歩調は変わらずに、沈黙だけが続く。
彼はそれっきり何も言わないし、私も何も言わずに歩みだけを進めた。
何処に向かっているという訳でもなく、ただ道なりに進むと眼前に、御納戸色の欄干が見えてきた。
この界隈は、平らな長屋が軒を連ねているため、遠くの方までよく見渡せる。私は橋の中央で立ち止まり、ぼんやりと辺りの景色を眺めていた。
と、ふと視界に入ったのは天に拡がるように掲げている青色の花を咲かせた……、桜木。現世では青色の桜は見たことがない。
たぶん、見たことがないだけで実際にはあるのかもしれないけれど、公園やら並木道で見かけるのは大抵、薄桃色の花弁だから新鮮だ。
それに、其処彼処にある桜木よりも異様に大きい。あれだけの大木なら高台からでも見えたはずなのに、どうして見えなかったのだろう。
あの桜木には、何か秘密があるのだろうか──
考えを巡らせていると、すっと紙に包まれた桜餅が差し出された。
たぶん他の人が見たら、あっと驚くような色鮮やかな青色をしている。私はこの色が特別好きだから、特に何とも思わないけれど。
私は一瞬迷ってから、差し出された手の主の顔を見上げた。彼はまた何も言わないけれど、瞳が「早く受け取れ」と訴えているように思えた。
「ありがとう」
私は可愛げもなくぶっきらぼうにお礼を言うと、その変わった桜餅を受け取り、一口食べた。
桜の独特な風味と餡の絶妙なバランス。包まっている葉の部分も良い塩梅だ。これは美味しい……!
感動のあまり無心で食べ進めて、ふと隣の彼を見た。
腕組みをして、ただ遠くをぼんやりと眺めているその瞳は、何を思っているのか上手く読み取れない。
「そういえば、どうしてあの桜だけ花びらが青色なの?」
彼はどこか憂いを帯びた表情で告げる。
「それはあの木がこの都を守る御神木だからだろうな。通称は瑠璃桜。青色には平和と安定の意味があると、女神は前に言っていた。あとは、単純に青色が好きだから……、だろうな」
なるほど。この色には、そんな意味合いが込められていたのか。
緩やかな風が頬を掠めて吹き、髪を揺らす。時折、桜の花びらと戯れながらこの都を春色に染めているようで。
川面はそんな春風によって一面、薄桃色の花筏。その様子を眺めながら、私はもう一つだけ疑問に思っていることを聞いてみる。
「どうして上から見下ろした時に見えなかったの? あれだけの大木なら高台からでも見えたはずなのに……」
私の問いに彼は何やら思案顔。やがて、一度深く頷くと次の言葉を紡ぐ。
「空間の捻れのせいだろうな。あの御神木のある場所は此処とは違う、また一つ別次元の空間となっているから、見える時間帯や場所も移り変わるのだろう」
彼は、空を仰いでいた。きらきらとした双眼につられて、私も空を見上げる。
雲が太陽の光に反射して虹色に輝き、空全体を悠々と流れて行く。その様は荘厳で美しく、眺めているだけで心がほんのり彩られていくみたい。
彩雲は幸せを運んでくれる、見ることが出来たらおめでたい雲らしいけれど、此処ではそれが当たり前なんだ。
私は遠くに見える不思議な御神木と彩雲を眺めながら、ゆったりとこの余韻に浸っていた。
その後も寄木細工や根付を取り扱う店に寄ったり、浮世絵の版画を見せてもらったりと、なかなか充実した午後を過ごした。
そうして時刻は夕方。黄昏時。「誰ぞ彼」という言葉に由来し、相手の顔がはっきりと見えず「あなたは誰?」と問いかけるような時間帯。
歩き疲れた足を休めるため、私たちは出店茶屋に来ていた。赤い和傘が固定されており、座るところには朱色の敷物。王道の席に二人並んで腰を下ろす。
私は三色団子とおうすセットを注文して、お品書きをそっと閉じた。それにしても今日は一日中、気兼ねなく人と話せている気がする。
と言っても見かけは人だがほとんどは妖や神様の類らしい。それでも、おどろおどろしさの欠片も感じないので特に緊張感や恐怖も無い。
隣に居る彼もまた角や牙も無く、人型を保っている。中身があの恐ろしい鬼神だとは誰も思うまい。
実家にいた頃は素を出して家族と話すことが出来なかった。とにかく実力至上主義の家系なので、それにそぐわない私は欠陥品扱いされていたから。
それに付け、完全に心の距離を置いて、他人と話すようになってしまったのだ。もちろん、そんな私自身がおかしいという自覚はある。人とは違う相容れない者で、妖とも違う孤独な奴で。
そうして、自分の世界の中でしか生きて来なかった私は、友達も恋人も居らず、社会に出てからもほとんど誰とも関わらずに生きて来た。
そんな私がこうして誰かと接することができているのは紛れもない彼のおかげだ。
今日一日、のんびりと気ままに"私"で有り続けることができた。彼に対しても少しだけ我が儘を言うことができた。
昔から知っている幼なじみや小説の中の登場人物たちみたいに、気兼ねなく付き合える関係。そういうものに憧れていた私は、この一時を静かに噛み締めていた。
今だけは残り少ない時間、思う存分楽しもうと、そう思うのに、どうしてか涙が込み上げそうになる。
注文したお団子が運ばれて来ると、気を紛らわせるように半ば急いで食べ終えた。何処かほろ苦く感じるお団子をお抹茶と共に流し込む。
隣に座っている彼は、私に対して何も言わないし、何も聞いて来ない。
七年前のあの日。スリップ事故から助けてくれた、あの時。彼は、とても私を憎んでいた。命を助けたのも、女神様の命令だからと言っていたっけ。彼は今の私を見てどう思っているのだろう。まだ嫌われたままだろうか。
私も実家を出るまでは彼を恨み続けていた。命を救われても辛い現状は何一つ変わらなかったから。私に生きていて欲しいと願う者は私の周りには居なかったから。
それでも月日は流れ、ようやく家を飛び出し、憧れの京都へ上洛した。その日から初めて、伸び伸びと気兼ねなく生きることが出来たのだ。
私は生まれて初めて自由を手に入れた。
そんな折、いつかまた再会出来たら彼に一言謝りたい。そして助けて貰った恩に報いたいと望むようになっていた。そのことを、なかなか口に出して伝えるのが億劫で、私はまだ胸の内に秘めている。
「そろそろ、行こうか」
彼は立ち上がって勘定を済ませると、黙って歩き出した。私はその後ろをついて行く。
何処に行きたいか訊ねてこないということは、目的地が明確にあるようだ。
たぶん、昼前に華音さんと落ち会う約束をした場所へ向かっているのかもしれない。
私は道が分からないので、ここは黙ってついて行くしかなく。辺りはまた一段と闇が濃くなり、人通りも多くなっていった。
私は、はぐれてしまわないように懸命に彼に着いて行くのだけれど……。途中、ドサッと誰かにぶつかり、私は「すみません」と頭を下げた。商人風の若い男に「気いつけろよ」と舌打ちされてしまい、身の縮こまる思いだった。こういう人混みはすこぶる苦手だ。
と、前を歩いていた彼は私の様子を鑑みて、振り返り様に手を取ってくれた。
「全く、手のかかる……」
「なっ……」
何か反論してやろうと思ったが、これでも私を気遣ってのことだろうし、ここは素直に従っておこう。
この世界の気候は今の現世とも大差ないようで、夜はまだほんの少しだけ冷える。握られた掌から温かさが伝わり、ふと昔のことを思い出していた。
十一月の肌寒い時期、ましてや雨に濡れて悴み、心まで凍てついていた私の手を取ってくれた彼。あの時と同じ温かさが右手にあり、私はつい頬が緩むのを感じた。
彼の方は、七年前の些細なことなんて忘れているだろうけれど。
「神様って、人間より体温が高いの?」
「……どうだろうな。個体差はあるだろうから一概には言えぬが、何故そんな事を聞く?」
それは領主様の手がいつも温かいから、なんだけれど。
「ふふ、何となく……、かな」
それから数分後、無事に目的地へと到着した。看板には、達筆な『網羅』の二文字。赤提灯にも同じく店の名前が鮮やかに照らし出されている。
店内はひとが多く賑やかで、私たちはそのテーブル席を抜け、奥のお座敷に通された。紺色の座布団に腰掛けるとようやく一息吐く。
「此処は現世のありとあらゆる料理が取り揃えられている。今日は歓迎会も兼ねているから思う存分、食え」
ここはメニューもお品書きも無く、頼んだものが希望通りに出てくるという、何とも人知を超えた店なのだった。
「では、お言葉に甘えて……、ビーフシチューをお願いします!」
そう、私はビーフシチューに目がない。あのコクと旨みの絶妙なバランス。お肉はホロホロになるまで煮込まれ、野菜の栄養も取れる味わい深いスープ。まさに、全てにおいて非の打ち所が無い食べ物と言える。
その他にも頼んでもいない、美味しそうな料理が次々と運ばれてきた。私は唖然としながら、並べられていく様々な料理を眺める。
真ん中にはグツグツと煮えたすき焼き。グラタン、ハンバーグ、カレー、餃子に唐揚げ、煮付けまで。和洋折衷の様々な料理が、机に乗り切らないものは後ろの大机に運ばれた。
「こんなに、たくさん……!」
私は瑠璃桜の箸置きから、艶めく漆塗りの箸を手に取ると、取り皿に少しずつ盛って行く。
この量は流石に食べきれないので、少量を取っていろんな味を楽しむことにした。
先ずは、オムライスから食べてみよう。材料もシンプルだし、自分でも作ってみたりはするけれど、中々お店の味には敵わない。
黄金色に輝く卵の上には、お店のロゴマークである網目模様がケチャップで繊細に描かれている。
「ふわとろオムライス……、美味しい」
一口食べてみて、私はその美味しさに打ち拉がれていた。ケチャップライスの塩梅と卵のふわふわ感はまさに至極。更に舌の上でとろけるチーズのコクがたまらない。鶏肉も野菜もゴロゴロと入って栄養も満点。正に究極のオムライス。
と、私の目の前に、先程頼んでおいたビーフシチューが運ばれて来た。
目の前に置かれたそれは、一風変わっており、一枚肉が大きく入っている"ビーフ"が主役のシチューであった。ナイフで切って一口サイズにすると、フォークで口へ運ぶ。うん、これは間違いない。美味し過ぎて言葉に出来ない。
私は感動で肩を震わせていたのだけれど、この美味しさを伝えたくなって、隣に座っている領主様を見上げる。
彼は何か面白いものを見るかのような眼差しを向けて来るが、箸にすら触れていないところを見ると、端から一緒に食事をする気は無いらしい。
「領主様も食べればいいのに」
こんなに美味しいご馳走が並んでいるというのに、目もくれないとは本当に変わっている。ただお猪口に注がれた日本酒をちびちび飲んでいるだけで満足なのだろうか。
「俺は遠慮しておく。そもそも、神は食事など摂らなくとも生きていけるからな。ただの娯楽に興味は無い」
「美味しいものを食べたら幸せな気持ちになれるのに、それってちょっと勿体ないんじゃない?」
彼は私の言葉の意味がわからない様子。この場合、何と言えば良いものか……。
思案していると、引き違いの襖ががらりと開いた。
「すみません、遅くなりました。いやぁ、試作が長引きましてね。あと、もう少しで姉さんも来ますから」
そう言ってお座敷に上がったのは、侘助さんだった。
彼は華音さんの弟で、甘味処を営んでいる敏腕オーナー。亜麻色の短髪に柳茶の猫目が特徴的。銀鼠の着流しに黒の長羽織がとても良く似合っている。
七年前はほとんど話す機会も無かったので、軽く世間話をしていると途中で華音さんが合流。
「この店、なかなか予約取れないって有名なのに、流石は領主様ね。塔の上の御方は格が違うわ〜」
席に着くや否や、豪快に酒を煽って料理にも遠慮なしに手を付けている。なかなかの酒豪と見た。
「塔の上、というのは……?」
「塔……、正式名称は摩天楼と言って、都で一番高く聳え立っている建物なの。まぁ、中枢に位置する核の存在ね。この都を統括する、現世で言うところのお役所」
領主様、そんな所に勤めているんだ。そういえば、高台から見下ろした時に一際目立つ建築物があったっけ。お役人なら中々の立場がある方では?
「領主様、こんな所で油売っていて良いのです?」
「俺に要らぬ気を遣うな。それにあの塔を牛耳っているのは女神たちで、俺の立場は飾りに過ぎない」
彼は悪態を吐きながら、お猪口に注がれたお酒を飲み干す。
「またまた〜、そんなこと言っちゃって。女神様たちが聞いたら、どんな顔をされるかしら」
摩天楼の女神様……。一体、どんな神様達なのだろう。
現世にお祀りされている神様であれば、何度かお社に参拝したこともあったやもしれない。きっと美しくて聡明な方々なのだろう。
「華姉さんも昔はよく摩天楼に出入りしていたんですよ。青の女神様にも気に入られて、儀式でも筝の奉納をしたりして。いやぁ、いつかお嬢さんにも聴かせてあげたいものです」
侘助さん曰く、華音さんは昔から芸事に秀でていたらしい。筝だけではなく、琵琶・三味線・笛の名手であり、お店が休みの日には手習い教室まで開いているそうだ。
「お筝が弾けるなんて、とても素敵! 私はこれと言って何もありませんから、華音さんを見習わないと……」
私も誰かの心に届くような、素敵な能力があれば…。ほんの少しだけでも自分に自信が持てるようになるかもしれないのに。
「胡和ちゃんはまだまだ若いもの、これから幾らだって見つかると思うわよ」
「そうですよ。何なら華姉さんに手取り足取り、教えてもらったらどうです? いっそのこと弟子入りすれば」
「ちょっと侘助、あなた酔い過ぎよ。胡和ちゃんだって、あっちでの生活があるんだから。それに、通うとしても年に二回しか現世までの道は繋がらないのに」
年に二回……。どうやら、この五都と私の住む現世への通い路は今日の春分の日、そして次は秋の彼岸である秋分の日にしか開かないということらしい。
「そうですね、明日までは仕事も休みなので、このまま何処かに泊まって、もう一日満喫するのも良いかなと思っていたのですが……。あまり、長居出来ませんよね……」
というか、こっちの世界の時刻で夜なら、現世では恐らく日曜日の朝になっているはず。時差は約十二時間、これは帰ったら時差ボケしそうだ。
「今の時刻は宵五つだから、あと四時間も無いわね。こうなったら、残り時間でお腹いっぱい食べましょう。お酒も追加でお願い〜」
華音さんのオーダーで古今東西、様々なお酒が運ばれて来た。日本酒に加えてビールやワイン、マッコリ、カクテルまで並んでいる。
今まで飲んだことがあるのはチューハイと日本酒くらいなもので、お酒に疎い私からすると、また目移りしてしまう。
「酒なら、今回は特別に夜桜の秘酒を用意した。"とっておき"のものをな」
唐突に領主様がそう切り出すと、
「もしかして、それは例の神山の桜酵母ですか?」
侘助さんがぱっと目を輝かせながら問いかけた。どうやら、現世に出回っているお酒ではなく、五都限定のものらしい。
「そんなに珍しいものが頂けるだなんて。今日は領主様様ね〜」
という訳で、運ばれてきたのは華やかな甘い桜の香りが特徴のお酒。透明な円錐瓶の中には桜の花が浮かべられていて、見た目もハーバリウムみたいに可愛らしい。
お猪口に注いでもらい、三人同時に乾杯。
「美味しいです……っ!。桜のお酒を飲んだのは初めてですけれど、口当たりも良くて飲みやすいですね」
「甘すぎない上、後味もさっぱりとして、上品ね〜」
「これなら、もう何杯でも飲めますよ〜」
お猪口に並々注いでは、ごくごくと飲み干す。皆それぞれ、思い思いにお酒に浸り、この秘酒を愉しんでいた。
アルコールが回り、頬がほんのり熱くなる。何だかふわふわして、とても良い気分。私って結構お酒に強いはずなのに、もう酔ってしまったのかな。
これでもブラック社会に染まったOLなので、チューハイだってジュースのように感じられるくらいなのに。
「酔い醒めは悪くないから、宴の席では用いられやすいのだが、人には効き目が強過ぎたか」
領主様の不敵な声音を最後に意識が朦朧とし、店内の灯りがぼんやりと遠ざかる。
桜の香りが漂う中、私は深い闇の淵へと吸い込まれて行った。




