再会
それから、彼とは一度も会っていない。あんな別れ方をして、恨み言まで言って。それはそれは、苛立つ事ばかり言うひとではあったけれど、それでも彼に罵詈雑言を浴びせてしまったことはずっと後悔していた。
彼は私にとって命の恩人であり、一番感謝するべきひとなのに。それなのに、売り言葉に買い言葉で。
その後は結局、着物姿で家に帰っても母から問い詰められることはなかった。まるで、何か不思議な力が働いているみたいに、件の窃盗事件のことも誰ひとりとして話題に出さない。濡れ衣を着せられるよりはマシだが、結局"呪い"の元凶は分からぬまま、今も心に蟠りが残っている。
当時、彼から貰った真白のストーンが連なったブレスレット。その一粒一粒が朝露のような輝きを放ち、触れた先にひんやりとした感触が伝わる。正直、この腕輪がどう五都へと導いてくれるのか、密かな楽しみでもあった。
時刻は午前七時四十五分。朝食を食べ終えた私は、スマホで動画を見つつ、ベッドに横になっていた。
春分の今日は、土曜日ということもあって仕事は休み。
「暇だなぁ」
一本、Vlog動画を見終えたタイミングで、私は折り畳みテーブルの上のマグカップに水を注ぎ入れた。朝食の生姜焼きの味付けを濃くしてしまったせいで、喉が渇いたのだ。普段から、市販のニLのペットボトルに浄水器の水を入れて常備しているのだけれど、これもまた節約の一環である。
京焼のマグカップは春の空を思わせる、澄んだ白縹色。お気に入りの食器を使うだけで、些細な日常が彩られて行くようだ。
「ふぁ……」
ここ数日は仕事が忙しく残業続きだったので、眠気が不意に訪れた。
春眠暁を覚えずとはよく言ったもので、春の眠りは心地良い。このまま二度寝してしまおうと、ふかふかベッドに体を預ける。
次第に意識が遠のいて行き、視界の端ではブレスレットの天然石が柔らかな春光を受けて煌めいた気がした。
何処までも続く海岸線沿い。此処は和歌でも詠われているかの有名な住の江。平安時代には白砂青松と誉れ高い、名所のひとつであった。
白い砂浜は月の光を受けて仄かに輝き、青々とした松の木々の隙間を潮風が通り過ぎて行く。
潮の香の満ちた空気を胸いっぱいに吸い込むと、深く息を吐き出した。
水平線の境目は薄墨を流したように曖昧で、まるで現実と夢の境界が溶け合う場所に紛れ込んでしまったかのようだ。
幾度となく夢で見た景色とは一風変わり、私は遠く離れた岩場から海岸を望んでいた。何故だか足が重く、根を張ったように、この場所から動くことは出来ない。
郷愁漂う静謐な空間だが、妙に胸が騒めく。ただ月の光だけが柔らかく、私の心にゆとりを持たせてくれていた。
月光に照らされて、ゆらゆらと蝋燭が揺らめいているかのように遠く見える人影。
髪の毛は肩で切り揃えられ、白装束を身に纏っている女の人。歳も私とそう変わらないくらいだが、何処かこの世のものではないような美しくも儚い気配を感じ取る。
その白い衣は月光を受けて光沢が増し、上等な絹織物だと推察できた。
私の瞳は彼女に引き寄せられ、胸の鼓動が少しずつ速まって行く。
何故だろう。この女性の姿に、知らず知らずのうちに自分の影を見ているような気がしてならない。
ゆったりと一歩ずつ浜辺に近付き、彼女は波が寄せるギリギリの境目に立ち尽くしていた。
私は息を潜めて、次の挙動をじっと見つめる。
彼女は一体、何者なのだろう。この場所で何を求めているのだろうか。
女はその場から微動だにせず、ぼそぼそと何かを呟いているようだ。風が彼女の声を断片的に運んで来る。
『はらの……つき……やど』
その言葉は、まるで古の和歌に似ているが、意味を掴み切れず私の心に影を落とす。もう少し近付けば、彼女の言葉をはっきりと聞くことが出来るかもしれないのに、身体は言う事を聞かない。
その声音は、物悲しい響きを帯びて波音に掻き消された。
"つき"とは、空に浮かぶあの天体の月のことだろうか。今夜の月は右片側が欠けている、下弦の月。
海面に映る月は、寄せては返す波に揺れ、まるで生を宿しているかのように揺蕩う。遠い時代の高貴な御方は、直接月を見上げるのではなく、水面や盃に映った月を愛でていたそうだ。彼女もまた、そんな高貴な魂の持ち主なのだろうか。
ふと、空を見上げる。ちらちらと白いものが降ってきた。雪だ。
特に冷たさは感じないが、次第に勢いを増して視界を白く覆う。風雪が彼女の姿を霞ませる。
『この海で……、待っている』
神楽鈴のように澄んだ声が、再び風に乗って届く。その言葉を脳内でゆっくりと反芻させた。
待っている、とは誰を、何を待っているというのだろうか。
彼女の姿は吹雪の中で次第にぼやけ、まるで月光の中に溶けて行くよう。ただ波音が、静寂を掻き消すように重く響いていた。
彼女は私の心の投影なのか、それともこの海に縁のある人物の魂か。答えは見つからないまま、不香の花が視界を白く染め上げた。
春の夕暮れは穏やかで、秋のそれとは違って物寂しさも感じない。黄昏た空には、琴線のような巻雲が幾重にも連なって見える。
二度寝から目覚めた時刻は、十五時過ぎ。そこから支度をして、遠路はるばる京都から下向。すっかり日も暮れた頃に、夢で見た住の江に到着した。
「完全に、寝過ごした……」
左手に巻かれた件のブレスレットは、茜空の光を纏って淡い鼈甲色に映る。
もう今日という日は、あと六時間足らずで幕を閉じるというのに、導きの"み"の字も無い。他に当てが無いことも無いが、先にこの地へ訪れてみたかったのだ。
其処は、もはや当時の面影も無い。埋め立て工事が進み、この七年の月日で砂浜は跡形もなく姿を消した。代わりにあるのは、飲食店や雑貨店の入った複合施設のみ。近くには真新しい工場が出来たらしく、情緒の欠片も無いこの場所が無機質にさえ思えて来る。
遊歩道を進みながら、私は時の流れを感じていた。実家を出るまで伸ばすことを禁じられていた御髪は、今やセミロングの長さになり、潮風が悪戯に靡かせる。
今日は少しお洒落して、白地ブラウスに水色シアーシャツコーデ。紺地の軽やかなワイドパンツのおかげで歩きやすい。お気に入りのレターバッグには必要最低限の財布・エコバッグ・バッテリー。高価なものは何一つ無いけれど、それでも自分で選び抜いたお気に入り。好きなものを身に付けていると、それだけで心ときめくのだ。
海岸沿いの鉄のフェンスに手をかけて、夢の記憶に思いを巡らせる。住の江と一口に言っても広いので、ここが夢と同じ場所とは限らないけれど、白装束の彼女が"待っている"と口にした海を望むには絶好の場所。
まだ夕暮れの、水面が宝石のように眩い光で揺れている海は、私の心をほんの少しだけ和ませてくれる。
この場所に何かヒントが隠されているのか、今のところ見当もつかない。
住の江で有名なのは、藤原定家が編纂した小倉百人一首にも収録されている藤原敏行朝臣の和歌。
住の江の 岸による波 よるさへや
夢の通ひ路 人目よくらむ
住之江の岸に寄せる波の「寄る」という言葉ではないが、夢の中で私のもとへ通う道でさえ、どうしてあなたは人目を避けて出てきてくれないのか、という意味。
平安時代は男が女の元へ通うので、女側は待つことしか出来ない。夢にまで現れなくなった彼は、自分のことなんて忘れてしまったのではないか。と、忍ぶ恋の辛さを物語る、切ない歌なのだ。夢の中の彼女が待っているのは、そんな想い人だったのであろうか。
さて。スマホ片手に調べてみると、施設の二階にはアイスの美味しい洒落た喫茶店があるらしい。ちょうど喉も乾いていたので、休憩がてら立ち寄ることにした。
緩やかな螺旋階段を上り切ると、潮の香りに混じって紅茶やハーブの華やかな香りが鼻腔を擽る。
ゆっくりとドアの取っ手に手をかけると、乾いた鈴の音と共に、私は一歩そのお店に踏み入った。
店内は北欧風で統一されている。白レンガの壁、水色貴重の木製テーブルとイス。店内を見回すと人は疎らで、どうやら外のテラス席が人気らしい。
「いらっしゃいませ~。こちらにどうぞ~」
店主さんの温かな声が、カウンター席へと私を導く。
木材の素朴さが伝わるスツールに腰掛け、メニュー表を手に取った。
彩り豊かなフードフォトに、ついつい目移りしてしまう。ナポリタンやピザ、ローストビーフ、サンドウィッチなどの軽食から、種類豊富なデザート類。プリンアラモードやパフェ、チーズケーキも美味しそう。何と言っても、アイスの種類は十五と和洋折衷なフレーバーが揃い踏み。これまた迷いどころなのである。
そんな時、クラシカルな鳩時計が十八時半を知らせるように、愛らしい声で一度鳴いた。その軽やかな「ポッポー」という音に、思わず顔を上げる。
まるで、時が一瞬だけ止まったかのような、不思議な感覚に陥った。
「お待たせしました。抹茶ラテと特製桜アイスです」
銀の盆に乗ったそれらは、もちろん私のオーダーしたものではない。
どうやら、又隣に居た客の注文品らしい。
えっっ……! どうして……?!
其処には見覚えのある、青い髪と瞳の青年が。今時のゆったりとしたモノトーンコーデに身を包み、七年前と変わらぬ姿で現れた。
「ど、どうしてここに……?!」
驚きと懐かしさに加えて、言葉の端にほのかな恐怖が滲む。
「さぁ、どうしてでしょうか?」
にこやかに微笑むその顔は、以前の彼とよく似ているけれど何処か異なる。声の雰囲気も、昔に比べて高くなったような気が。ぶっきらぼうで人の神経を逆撫でするような物言いも無くなり、砕けた印象。この彼ときたら、まるで七年前のそのひととは別人のようだ。
「それにしても、人間は七年も経つと変わるものですね」
目を細めて笑っているのは馬鹿にしているのか。私は彼の笑顔に、微かな苛立ちを覚える。
「これ、お返しします」
私は左手につけていた石の腕輪をそっと外し、カウンターの上に置いた。滑らかな石が連なるその腕輪は、鈍い光を放ち、まるで長い年月を共にした私の心の重みを映し出しているかのよう。それは私にとって、ずっと大切にしてきた御守りそのもの。自暴自棄になりかけた時も、この小さな石の輪が私の心を繋ぎ止める錨のような役割を担ってくれていた。
けれど、私はもう以前の私とは違う。悩み、苦しみ、何もかもに絶望していたあの頃よりも、ずっと強くなったのだから。再会した暁には、返そうと心に決めていた。
「なるほど」
彼はその細い指で腕輪を手に取り、まるで値踏みするようにじっと見つめる。
そして、次の瞬間──────
ごくり。彼は、なんの前触れもなく、その石の腕輪を口に放り込み、一呑みにした。私の大切な御守りだった石を。しかも、丸飲み…?!
「何やってるんですかっ!!」
私は思わず立ち上がり、カウンターを叩きながら叫んでいた。頭が真っ白になり、驚きと混乱が押し寄せる。食用の腕輪なんて聞いたことが無いもの。
店内の静けさが一瞬破られ、背中に突き刺さるような視線を感じる。恥ずかしさが一気に込み上げ、私はそそくさと席に座り直した。
「まぁ、落ち着いて。ちゃんと消化されるから」
彼は事も無げにそう言うと、カウンターに肘をつき、ニヤリと笑った。その笑顔はどこか悪戯っぽくて、憎めない。
彼のあまりにも突拍子もない行動に頭を抱える。
「そういう問題じゃ……」
「ふふふ、僕は"普通"ではないから平気だよ。胡和ちゃん」
肩肘ついて偉そうにふんぞり返っているけれど、やっぱりこの人、あの鬼神じゃない。もしかして……。
「そりゃあ、まぁ否定はしませんが。あなた、あの鬼神じゃないですよね……?」
「うんうん、そんなことよりアイス溶けないうちに食べてみて。ここのデザートはどれも絶品だから、味は保証するよ〜」
間髪入れずにそう言うと、彼はオーダー品を迷いも無く私の目の前にスライドさせる。
話をはぐらかす為の罠だろうけれど、お言葉に甘えて頂いておくか。
スプーンで一口掬い取って口へ運ぶと、桜の甘く華やかな香りがふわりと広がる。濃厚なのに軽やかな風味が美味。隣に添えられたこし餡は、しっとりとした甘さでアイスと相性抜群。
視線を移せば、抹茶ラテの表面に浮かぶ愛らしい兎のラテアート。つぶらな瞳の兎が、波しぶきの間を駆ける姿が描かれている。飲むのが惜しいほどの可愛さだが、誘われるように一口。
深い抹茶のコクと仄かな甘みが身体中に染み渡り、心まで解れるような一杯に感服。
「喜んでもらえたようで、良かったよ〜」
私が完食し終えると彼は得意気な表情で言った。その笑顔には、どこか子供のような純粋さが垣間見え、私も釣られて笑みが零れる。
「じゃあ、行こうか」
「え、どこに……?」
私の心は、期待と不安の間で揺れ動く。
「"都"に連れて行くことになっているからね〜!」
都。七年前、私は其処へ行ってみたいと強く願っていた。地獄の日々から逃げる為に、新しい居場所が欲しかったから。今では、充足感の足りない日々に辟易としてはいるものの、当時よりは気持ちも幾らか落ち着いている。
「その施設、ネット検索しても出てこないけれど、一体何処にあるの?」
私はスマホを取り出して、検索画面を見せた。
「当たり前だよ。この世界、とはまた別の世界だからね〜! 行こう!」
彼は不敵な笑みを浮かべると私の手を取り、店内から出ようとする。どうせ暇だし、私は仕方なく着いて行くことにした。




