出逢い (7/4更新)
けたたましいアラーム音に私は目を覚ました。急いでベッドサイドテーブルの上にあるはずのスマホをまさぐり、アラーム音を止める。昨日はあまり眠れなくて、頭がまだぼんやりしていたけれど、ただ一つだけ頭の片隅に覚えていたこと。
今日は、忘れもしない"あの人"との約束の日ということ。
「また"あの時"の夢…。だけど、今日で終わりかな」
私は、ベッドから起き上がると軽くのびをして、スマホ近くに置いた髪紐で軽く髪を纏める。
「今朝は、何食べようかな」
六畳一間の部屋と台所は目と鼻の先。本当はもっと大きな家に住みたいけれど、それも夢のまた夢。
家賃五万円のアパートは二十歳のしがないOLにとって、お似合いな物件なのかもしれない。生活して行くことだけで精一杯なのだから。こうして、歯磨きをしながら冷蔵庫を開けて朝の献立を考えるのも、毎日のささやかな日課となっていた。
狭いキッチンの向かい側はお風呂場とトイレ。セパレートタイプなのがせめてもの救いといったところか。
私はトイレのドアにもたれかかって、入念に歯を磨く。生まれてこの方、一度も虫歯になったことが無いのも密かな自慢である。
そんなこんなで冷蔵庫を開けて豚の細切れを手にした私は、とある料理を頭に思い浮かべた。早速口を濯いで棚にしまったタブレットを取り出して料理名で検索。今の時代、これ一つで多くのレシピを見ることができるのだから何ともお手軽。
ふと、ずっと身につけている天然石の腕輪を見た。
これは何年経っても私の大切な御守り。
"あの人"は今何処で何をしているのだろうか…。
私は、決して忘れない。七年前のあの日、あの場所の出来事を───
孤独と暗闇。これが、私とこの海の共通点。暗い海の底に沈んでしまいたい。もう、辛い日常には耐えられない。そんな思いだけが私の心の奥底に息づいていたから。だから、私は此処に来た。
学校帰りの制服のまま、バスと電車を乗り継いで一時間。見上げてみると、鉛のような空からは今にも雨が降り出しそうだった。
十一月の冷気が身体中を取り巻くこんな日に、のこのこ海まで出向く人間は私くらいのものだろう。
「全てを終わらせる、この場所で」
生命の源である海。全てはここから始まった。ならば、帰るべき場所はここに相応しい。
冷たい真冬の海に足を踏み入れたら、どんな感じなんだろう。
私は一歩ずつ打ち寄せる波に近付き、靴が濡れそうな程の至近距離で立ち止まった。徐々に身体の感覚を失って海と一体になるのだろう、その時が訪れたら。この広い海原で私の骨と魂は永遠に彷徨い続けることになる。
あと一歩。あと一歩で。さぁ、早く足を進めて。
それが、今一番の望みなんでしょ。ここで怖気付くなんて、馬鹿みたいじゃない。
ほら、早くしなさい。海が私を─────呼んでいるのだから。
いつだってそうだった。
信号待ちの横断歩道、駅のホーム。一歩踏み出せば、辛い日常から解放されるというのに、怖気付いて出来ないままでいた。
二階の自室から飛び降りることだって、今の私には容易いことだろうに。
けれど、はたまたこれが勇気といえるのだろうか。辛い現実から逃げているだけではないのか。そんな、綯い交ぜになった葛藤がわたしの中に渦巻いていた。
けれど、それも今日で終わり。否、終わらせる。
全ての感情を押し殺して、心の内に閉じ込めて。躊躇っている自分の弱さと脆さと醜さとあの劣悪な環境全てに嫌気が差して意を決してここまで来たのだ。
もう、こうするしか道は無いの。重たい足を持ち上げて、一歩前へ踏み出す。思った通り、海水はどこまでも冷たい。靴を伝って靴下の中にまで染みてなんだか気持ち悪い。
けれど、そんなことはどうだっていい。だって私は今ここで死ぬのだから。
何度、世界を恨んだろう。この世界が消えて無くなれば良いと何度願っても、終ぞその通りになることはなかった。
結局、死ぬのは、消えて無くなるのは、私の方。今、生と死の狭間にいて、もうすぐそこで死の世界が私を呼んでいる。あと、もう少しで死の世界の住民になれる。
私は只、がむしゃらに突き進んでいた。もう、ここまできたのだから迷う余地なんて無いだろう。
磯の香りに包まれて、私は。
そのとき、突然天から雷鳴がさんざめいた。轟々と劈く悲鳴のように、辺りに木霊する。心做しか波が荒くなっているような。私をあちらの世界へ誘っているのかもしれない。
もう既に腰の高さまで波が来ていて、足の感覚が麻痺していた。これで、私の望みは果たされる。
このまま──────海の藻屑となって消え去ってしまえ。
『戻りなさい』
けれど、私はその声ではっと我に返ったのだった。
誰?誰の声?それは凛として落ち着き払った女の人の声。何度も何度も私の頭の中に響いて来るそれは、今まで聞いたどの声よりも美しかった。どうして?この海岸には私しかいないはずなのに。それなのに、声が。
『早く、戻りなさい。さぁ、早く!!』
そう言われて突然、恐怖がこみ上げてくる。それは、その声の持ち主が得体の知れない"何か"かもしれないから?
それとも私、本当はこんな場所で。
私…私は─────
ずぶずぶと重い足を引きずって、迫り来る波に抗う。振り向くと海岸線までは距離にして2メートル程。今戻れば、まだ間に合うのだろうか。
不意に空から雫が落ちて来た。それは一つ二つと増え続け、私の髪や肩を湿らせる。身体はとうに冷え切っているせいか特に何も感じ無いけれど。心が酷く傷んだ。
黒い波が私の足元を掬って離さない。塩辛い磯の香が染み込んだ制服。こんなもの早く脱ぎ捨てて、私は解放されたかっただけなのに。
それなのに、波に攫われて、この世界から居なくなる瞬間を待ち望んでいた私を引き留める声。
「貴女は誰なの…っ!?」
声が掻き消されないよう、彼女に届くように叫び続けても、響くこと無く周囲の音に吸い込まれてしまう。波が激しさを増し、私の体力を削ぎ落とす。死が近付いている。そんな予感が脳裏を駆け巡った。
もう、良いかな。もう、良いよね。
『生きて。あなたにはまだ、やるべき事があるの。まだ終わらせないで』
再び声が響き渡る。
やるべき事って?私にこれ以上何を望むというの?分からない。分からないよ。私にはもう、生きる希望も無いんだよ。
『私は貴女に生きて欲しいの』
嗚呼。そんな言葉、今まで一度だって言われたこと無い。私に生きる価値なんて無いから。誰も私を必要として無いから。居場所が無いから。
それなのに。何処の誰かも分からない貴女が何故、私をこの世界に繋ぎ止めるの?
分からないけれど。分からない事だらけだけれど。貴女がそれを望むなら、それでも構わないって思うよ。
私は力の限り、歩みを進めた。浜辺まで、少しの距離なのに。何だかとても、遠く感じる。それでも、一歩ずつ、生に近付いて。
そう、私は言われるがまま、生きることを選んでしまった。よたよたと力無く岸に上がると、膝からがっくり倒れ込む。しばらくの間そうしていたけれど、辺りに人影は見えない。女の人の声も、もう聞こえなくなっていた。
「何なの…?貴女は一体…」
寒さで震える身体を抱きながら立ち上がる。振り返ってみると海はさっきまでとはうってかわり、益々黒く澱んでいた。波も荒々しく、一足遅ければあのまま呑まれていたかもしれない。自然の怖さを私は改めて思い知らされた。
思えば海に来るのも幼少期の潮干狩り体験以来。あの時は穏やかでもっと澄んでいた気がするのに、いつから変わってしまったのだろう。
まるで、私の心を写し取ってしまったかのようで胸の内側がチクリと痛んだ。
私は海に背を向けて歩道までの階段を目指す。はね上がった砂がふくらはぎに飛沫を上げてくっ付き、靴も砂にまみれてしまった。そんなことには目もくれず、私はひたすらに階段をかけあがる。
結局、彼女の正体も分からずじまい。私はとぼとぼと雨に濡れながら、バス停に向かったのだった。
雨足は徐々に強まり、いよいよ本降りになった。普通なら雨宿りをするところだけれど、私は半ば投げやりな気持ちのまま雨に打たれるのも悪くないかなとそう思ったのだ。ふと横を見ると海は荒れ狂い、波しぶきが高くなっているのが見えた。
私、何しに来たんだろ。これでまた、辛い日常に戻ることになる。生きるとはそういう事。
死にたくて海に来たはずが、まるで生きる屍みたい。
「貴女のせいなんだから」
でも、本当は心の底ではわかっていた。私には、死ぬ覚悟が出来ていなかったということを。自嘲するように笑った。自分を嘲笑った。
それとは裏腹に目から涙が一粒零れた。頬をつたって、流れ落ちる。せきをきったように、ボロボロと涙が止まらない。
でも、よかった。雨が降っていて。雨に紛れて泣けるから。笑って泣いて、感情が壊れた。
心が壊れた。
バス停に着くや否や、数字の掠れた時刻表を見る。どうやら四十分の待ち時間らしい。
私は、ただ通りを行き交う車を眺めていた。気を紛らわせようとはするけれど、唐突にトラウマが頭に浮かんできては私の心を侵食する。
学校生活、習い事、家族のことも脳裏に焼き付いて離れない。いつも、いつも、いつも私の心を苦しめる。自分なんて消えてしまえばいい、この世から無くなればいい。
どうして、私は生まれてきたの?誰も望んでなんていないのに。その事ばかりに気をとられていて私は気付かなかった。
否、気付けなかった。急ブレーキの音が辺りに響く。振り向いたと同時に全てを悟った。
トラックが私目掛けて突っ込んできたのだ。雨の日のスリップ事故か。はたまた、運転手の身に何か起こったのか。それとも、私の因果応報?
それは一瞬の出来事のはずなのに、何故だかとてもゆっくりに感じられた。ああ、私は此処で死ぬんだ。海だろうが陸だろうが大して変わらない。
ごめんね、綺麗な声の主さん。さようなら。
この世界も捨てたもんじゃないって最後の最期まで思えなかったな。
なんて走馬灯を見る余裕も無いまま、そこで私の意識はプツリと途切れた。