序章
文車妖妃様に手渡されたこの巻物は、まるで童話か御伽噺のような内容である。"続く"ということは、まだ次の巻があるということ? まだ芸亭の"う"の字も出て来ないし、やはり気になるもの。
そして"続く"のあとには可愛いらしい動物の足跡が残っている。何の動物かは分からないけれど、なかなか好きな趣向だ。
昔、子供向け出版社の文庫本で、頁の端に可愛らしいパラパラ漫画が描かれている本を読んだことがある。幼いながらに文字以外の遊び心に触れて、心ときめいたものだ。
にしても、最後のオチの部分。女神様はどうやら悪さをする人間には容赦ないらしい。異世界の異物も気になるし、それを体内に取り込むとはなかなか無茶をする。他にもっと安全な方法はなかったのだろうか。
それに、どうして女神様は力を封じて旅をすることになったのか、謎は深まるばかりだ。
磨りガラスの窓を開け放って、遠くの摩天楼を見やる。
この芸亭も、そしてこの都も現世の様々な書物を参考にして造られたのだと照葉さんに聞いたことがある。
人間が創り出した文化と歴史。それを色濃く残しているのは、何時だって書物だった。人は死んでしまったら骸となり土に還るけれど、何も残せないようでいて、実は言葉を紡いで現代の私たちに伝えようとしてくれていたのかもしれない。
あの日見た景色を、今日あった出来事を、大好きなあの人のことを。人の軌跡が、時を越えて私たちに語りかけてくれている。
この都そのものが一つの書物のように、現世の在りしの光景を写しとっているのかもしれない。虹色の雲間に女神様の瑠璃の花を咲かせる、あの御神木が見えたような気がした。
「私は、しばらく此処を留守にします。新しい仲間を迎えたばかりで離れるのは物寂しいけれど、これも書物を届ける為、隠世へ渡ることになりました。所謂、宅配図書というものですね」
文車妖妃様は後ろの牛車を振り返りながら、別れの挨拶を述べた。そこには、ぎっしりと書物が積み込まれており、底が抜けないかと心配になる程、酷く重たげに見える。
それとは裏腹に軽やかな笑みを浮かべている妖妃様は、新しい門出を心待ちにしていたのだろう。私達も総出で、芸亭の眼前にてお見送りをする。
「私が戻って来る頃まで照葉と余花、そして胡和の三人で力を合わせてこの大きな書物の宝庫を守って行って欲しいのです。三人寄れば文殊の知恵と言いますもの。どうか、この芸亭で過ごす日々が掛け替えのない人生の一頁になりますように」
ふんわりと優しく微笑みながら、妖妃様は牛車の物見から右手を振っている。その車は豪華にも桜の花で飾られ、舞い上がった際に散る花弁が雪のように美しかった。私達は、空飛ぶ牛車の影が見えなくなるまで、誰一人その場を離れずに見送ったのだった。
「本当にお客来ないよね」
三人、横並びに腰を下ろし、誰が来るとも知れぬ来客を待つ。いつもとなんら変わりない日常。悪く云うと退屈で暇……、なんて悪態をついてみる。文車妖妃様が無事に旅立たれた今、残された私達がこんなに怠惰で良いのだろうか。
けれど、そんな停滞した空気に終止符を打つべく、館長さんが一つの提案を持ちかけてきた。
「実は、儂にはまだ幼い曾孫がいての。読み聞かせをしてあげたら、本に興味を持ってくれてな……」
そう前置きしてから、館長さんは少し嬉しそうに続ける。
「この芸亭にも近々、友達連れて遊びに来るんじゃと。そこで、じゃ」
館長さんは目をかっと見開き、満を持して宣言する。
「春の読み聞かせ会を開催しようと思う」
その言葉に、私達は思わず声を上げる。
「あら」
「お〜」
「え〜」
確かに子供たちに喜んで貰えそうな企画だし、上手くすれば芸亭の利用者が増えるかもしれない。
「そうなると、まずは来てくれそうな子供たちを集めないとね。張り紙とか、散らし配りもしないと」
「読む本の選定と、時間配分も大事ですよね。子供たちを退屈させてはいけませんし……、悩みどころです」
各々、イベント開催に向けて思惑を募らせている。が、一同ここで重要問題に直面する。
「……ていうかさ」
余花さんが、ぽつりと切り出す。
「真っ先に決めなきゃいけないのって、誰が読み聞かせをするか、でしょ?」
余花さんの一言に、はっとする私と照葉さん。確かに一番大事な部分。イベントの肝。大勢の子供たちを前に、飽きさせることなく、物語の世界へと導かなければならないのだから。
「あ、私パスね。読み聞かせとか一番面倒だし」
空気を切り裂くように、早々に離脱宣言をする余花さん。
「私も今回は遠慮しておこうかと……。人前に立つの苦手で……」
人見知り且つ、あがり症の私にとっては苦痛以外の何ものでもない。よって、余花さんに続き離脱宣言。
となると─────
「もう、私しかいないじゃないの。せっかくの読み聞かせ会なんだから、三人でやりましょうよ」
照葉さんは、呆れたような、それでいてどこか期待を滲ませたような目で、私達を見つめる。
「だって、人前で読み聞かせなんて怠いし」
「……でも、やっぱり照葉さん一人に全部任せるのは、申し訳ないですし。それぞれ役を決める、というのはどうでしょう?」
その提案に、照葉さんは一瞬考え込み、やがて小さく頷く。
「じゃあ、語り部は私がやるから、それぞれ配役の台詞はお願いね。それで、何を読もうかしら。ここはやっぱり、定番の昔話が良いわよね」
「えー、何か退屈。物語より詩の方が良いんじゃないの? 浪漫に欠けるわ」
案の定、真っ二つに割れる意見。
「詩集なんて、すぐ読み終わっちゃうじゃない」
「昔話なんかより、詩の方が子供たちも喜ぶって」
そんな調子で、論争は止まる気配を見せない。
照葉さんは江戸、余花さんは大正とそれぞれ別の時代出身だから、価値観も違って当たり前なのだけれど。
そういえば、この間も和菓子と洋菓子どっちが美味しいかで言い争っていたっけ。
「……で?」
照葉さんが、ふいにこちらを見る。
「胡和は、どっちが良いの?」
余花さんも、にやりと意味ありげな笑みを浮かべながら、言い添えた。
「あ、どっちも、は無しだからね」
ここで私が余計なことを言えば、また新たなる火種が生まれてしまう。どうにかして、この論争を穏便に収めなくては。
「そうですね……。せっかくなので、短いお話や詩集を抜粋して豆本にするのはどうでしょう」
江戸時代の書棚には、子供向けに編纂された赤本が幾つも並んでいる。当時、草双紙と呼ばれていた大衆向けの絵入り読み物は、子供から大人まで幅広く親しまれていたそうだ。
赤本は子供向けの昔話、青本は大人向けの合戦物や恋愛話、黒本は歌舞伎や浄瑠璃の翻案、黄表紙は教訓や時事を扱った小説と表紙の色で分類されている。
豆本は後の江戸後期に流行った手のひらサイズの本で、袖に入れて持ち運べることから袖珍本とも呼ばれていたそう。
「なるほど」
余花さんが、感心したように頷く。
「それなら一冊あたりの分量も少なくて済むし、読み聞かせにも丁度良さそうね」
「私も賛成よ」
照葉さんも快く頷いてくれた。
「手作りの本なら、読み聞かせ会が終わったあと、子供たちにお土産として渡すこともできるし」
思いの外、二人とも私の提案をすんなりと受け入れてくれた。その後は、本の冊数や内容、読み聞かせにかける時間配分などを決めて行く。
不思議なことに、あれほど静まり返っていた芸亭の空気は忙しくも心地よい熱を帯びる。そうして、いつもよりもずっと早く、時が過ぎて行くのであった。




