幕開け
木曜日、プレゼン当日の早朝。私はバルコニーに出て、明け行く空を眺めていた。山の端から、白く朝日の光が差してくる。雲は虹色に細くたなびいていたけれど、現世と変わらない、千年前と変わらない光景が眼前に広がっていることに、私の心は高鳴る。
現世の朝方のカーテンの隙間から漏れ出る光。朝日がゆっくり昇って、紫色の雲が細くたなびいている光景。現世では山の端ではなく、ビルやマンションの隙間からだったが、その美しさは同じだ。今も脳裏に焼き付いて離れない。
それまでの私は世界を憎んでいて、滅びてしまえなんて短絡的な発想を思い描いていたのだけれど、こんなに綺麗で色鮮やかな側面を隠し持っていたのかと思い知らされた瞬間だった。
遠い過去に思いを馳せていると、いつの間にか朝日は完全に昇りきっており、私は文机に戻って書き上げた用紙を手に取る。
此処には、私の今の気持ちが、ありのままの気持ちが書かれている。上手く伝わるように、悔いの残らないよう祈るばかりだ。
「改めまして。私は文車妖妃と申します。この芸亭の書物の選定と管理を一任しております。以後お見知り置きを」
ふわりと丁寧にお辞儀をした文車妖妃様は、白の小袿姿で誠に美しい出で立ちであった。足元まで連なる黒く艶やかな黒髪、白粉にまろ眉、紅の引かれた唇。正に平安貴族の装いそのまま。
初めて会った彼女と二度目ましての館長さんに向けて、練習の成果を発揮し、事を終えたのは数刻前。
「最終結果が出るまで、今しばらくお待ちくださいませ」
私は彼女に言われた通り、館長室の長机の椅子に座って結果を待っていた。てっきり、その場で合否が下されるとばかり思っていたのに違ったようだ。
文車妖妃様と館長さんは奥の部屋で、私のプレゼンの採点でもしているのか何やら話し込んでいるようだった。
鼓動の五月蝿い心臓を落ち着かせる為、私は深く呼吸を繰り返す。女神様の神紋である鉄線の簪を御守り代わりに身に付けて来たけれど、無意味に終わらないよう、そっと祈るばかりだ。
こんな時も思い出されるのは、私が現世の京都にマンスリーマンションを借りて、手当り次第に面接を受けていたあの数週間。
人から選ばれるという事は何と難しいことか、あの時嫌という程思い知らされたのだ。元来の人好きのしない顔立ち、女性にしては低く通りにくい声に加えて、話し方や表情管理など何度練習しても慣れなかった。
十回目の正直でやっと受かった和雑貨店も、接客仕事に挫折して、敢え無く九ヶ月で転職することになってしまったし。
そうして、また面接を繰り返して何とか経理事務の仕事にあり付けたものの、何処ぞの鬼神のせいで、やむ無く辞めることになってしまい。私の人生は『続かないもの』ばかりが増えて行く。
「ほっほっ、待たせたのぅ。着いて来なされ」
館長さんが杖を突きつつ、奥の扉から出てきた。長机の向かいで立ち止まって私を一瞥すると、再び館長室を出て行こうとする。一体、何処に連れて行く気なのか。
また大階段を下って、受付カウンターに入ると今度は通用口へと回る。鹿威しの風流な音を背に、芸亭の塀を巡って正面の楼門まで歩を進めると、館長さんが五回コツコツと地面に杖を突き始めた。
それは何かの合図のようで、まるで魔法のように楼門が独りでに閉じて行く。
神社仏閣にあるような、ありふれた朱色の門扉はギシギシと荘厳な音を立てながら、完全に閉まり終えた。よくよく見ると、六花弁の神紋が施されていて、此処は紛れもなく女神様の御加護がある神聖な場所なのだと思い知る。
「楼門の鉤は持っておるな?」
「はい」
先日、喫茶『花鳥風月』の女給である、ざらめさんにいただいた金平糖柄の巾着袋。その中に勝手口の鍵と一緒に大切に懐へ仕舞ってあった。
鉄製の鉤は十二センチの掌サイズだけれど、いつも以上に重みを感じるような気がした。
「この鍵穴に差してみなされ」
館長さんに言われるがまま、私は震える手でそっと鍵穴に押し込む。今日、この瞬間が記念すべき初回の解錠。
最奥のつっかえの部分まで鉤を捩じ込み、右に捻ると微かにガチャと鈍い音がした気がした。今度は左に戻して、鍵穴から鉤を抜く。
これで正解なのかと首を傾げていると、
「か……鉤がっ」
みるみる内に鉄色だったはずの鉤が、七色に光り出した。手のひらの上で淡く光ったそれは、しゃぼん玉のように美しく、キラキラと蝶の鱗粉のような煌めきを残して、紺色に変貌を遂げた。
更に、ギッと門扉が開く音がして中から妖妃様が姿を現した。
「おめでとう、胡和。私は、この瞬間を待ち侘びておりました」
「妖妃様……!」
彼女は相も変わらず見目麗しいお姿だったが、先程とは異なる色の衣を纏っている。それも、私が手に持っている鉤と全く同じ色に。
妖妃様は赤子を抱くように、腕に一本の巻物を抱えており、私にそっと優しく差し出して下さった。
手渡された巻物は草書体の筆致で『芸亭縁起帳』と記されている。
「貴女は無事、晴れてこの芸亭に選ばれました。驚かせてしまってごめんなさいね」
文車妖妃様は囁くようにそう言って、私の肩を抱く。
ふわりと紙とインクの香りがして、まるで一冊の本を抱き締めているかのような、胸の内が温かく時めくのを感じた。
「ありがとうございます……!」
瞳が潤むのを堪えながら、私は妖妃様に一礼した。
まるで、この一時を祝福するかのように、春の風が優しく吹き抜けて行く。こうして、私の芸亭司書としての都生活が静かに幕を開けたのだった。
『芸亭縁起絵巻』 ──────ということは、芸亭の起源や歴史などそういった内容が書かれているのだろうか。
私は定時通りに帰宅すると、お宿に戻って文机の上で巻物を広げた。
達筆な字で書かれたそれは、なかなか読むのに苦戦するだろうと身構えていたけれど、難なく捗る。
『女神は平安の世でも旅を続けていた。京の都の外れにある森で一休みしていたところ、近くの茂みからガサガサと音が鳴るのを耳にする。
この近くには湖があり、色鮮やかな毛並みを持つ不思議な鹿が出没すると何処かで聞いたことがあった。きっとその鹿に違いないと、女神は息を潜めて、見守ることにしたのだ。
木の影から辺りを窺っていると、獣の足音は次第に近付いてくる。いよいよ見られるのかと、期待に胸を膨らませて静かに待つこと数分。
ところが、獣の足音がぱたりと途絶えてしまった。おかしい。先程まで、軽やかに辺りを駆け回っていたというのに。ふと、気付くと小鳥の囀りも聞こえなくなっていた。辺りを舞っていたはずの蝶も忽然と姿を消している。そして、辺りは静寂に包まれる。不気味な程に。
すると突然、紫の靄が、どこからともなく流れ込み、辺り一面を覆い尽くした。
──────これは、まずい。
女神は力を封じていたため、異変に気付くのが遅れてしまったのだ。紫の靄は女神の気力を吸い取り、やがて命を奪うべく、次第に濃さを増していく。
と、そのとき、見知らぬ狼が一匹現れた。牛ほどもあるその巨体は、青色の毛並みを煌めかせている。
狼は倒れている女神を咥えて背に乗せると、颯爽とその場を後にした。
遠くまで走って来た狼は、シロツメクサの咲く高原に女神を横たえた。女神は暫くすると無事に目覚め、狼に礼を述べる。
「ありがとう。あなたが私を助けてくれたのね。お礼に、私の眷属として使わせましょう」
そう言って、女神はそっと狼に口づけた。そして狼の背に跨ると、紫の靄の正体を突き止めるため、再びあの森へと向かうのだった。
森へ戻った女神は、人間たちが交わしている会話を偶然耳にしてしまう。それは、あまりにも恐ろしい内容であった──────』
これも巻物に施された、魔法めいたものなのだろうか。じっくりと丁寧に、隅々まで時が経つのも忘れて読み進めて行く。物語の行く末が気になって仕方ない。
『どうやら、人間たちは妖狩りを行うために霧を発生させたらしい。都には、悪い妖を退治する陰陽師という存在がいる。それとは別に、希少な妖を捕獲して、高額に売り捌く妖狩りを行う者もいる。今回の、この紫の霧は例の色鮮やかな毛並みを持つ鹿を捕獲する為にわざと仕掛けたものらしい。許せない。
神聖な森に罠を仕掛けるだなんて、罰当たりな人間もいるものだ。相手がそのつもりなら、この女神が直々に天誅を下してやる。
「お言葉ですが、女神様。貴女のその封じられた力では、どうしようも出来ないのではありませんか?」
突然、狼が喋ったので女神は度肝を抜かれた。
「あら、あなた話せたの? やっぱり只者じゃないわね」
女神は笑みを零しながら、腰まである長い御髪を弄ぶ。
「でも私、これでも神の端くれよ。ここを東に行って頂戴。私を信仰している人の子が建てた社があるわ。そこに行けば、少しだけ力を取り戻せる」
狼は女神の言うとおり、社を目指した。そして、日暮れに差し掛かった時間。小高い山を登った先に、大きな鳥居が見えてきた。
「着いたわ。あなたはここで待っていて」
大鳥居の前に横たわり、狼は女神が戻ってくるのを待っていた。夕日に照らされた大きな鳥居は朱色ではなく、鮮やかな青色。狼は不思議に思いながらも、ずっと自分の毛並みと同じ色の大鳥居を眺めていた。
女神が戻ってきたのは、夜の帳が降りる頃。辺りは薄暗くなり、遠くの方を見下ろすと松明や焚き火の明かりが点っている。
「ごめんなさいね。時間がかかってしまって。でも、このくらいの時間の方が丁度良いかしら」
女神は大胆不敵に笑っている。確かに、幾分か力を取り戻したように感じるが、まだ心許ない。
女神が何を考えているのかは分からないが、自分は眷属だ。余計な事は考えず、ただ女神に付き従うことだけに専念しようと、そう思ったのだった。
また森に戻ってきた一柱と一匹は、人間たちを懲らしめるべく、罠を張り巡らせていた。人間と同じく、結界を張って。
その、効力は実に凄まじいものだった。その森に入った人間は漏れなく、青色の霧に包まれて死んだ。辺りには死体が幾つも転がっている。何とも、神を怒らせるのは恐ろしいことか。女神の結界はとても頑丈で、誰にも破ることは出来なかった。
──────たった一人を除いて。
その人間が現れるまでの数週間、森は立ち入り禁止となり、平和が保たれていた。小鳥は囀り、蝶は舞い、色鮮やかな動物たちも、静かに平穏に暮らしていた。それなのに。
女神は突然現れた、その人間と対峙した。相手はただの人間ではない。かと言って、妖でも神でもない。
「あなた、何者なの? 人間の"気"を感じるけれど、人間じゃないわね。私の結界を簡単に破るなんて」
「……」
相手は何も答えない。
狼は密かに女神と人ではない"何か"とのやり取りを見守っていた。あとに聞いた話だが、人間の姿をした、別世界の異物らしい。女神はこの現世に生み出され、信仰されている神だ。別世界の生物をどうにかすることはできない。女神は困り果てた。
相手からは、全く意思というものが伝わってこない。敵意も悪意も感じられないが、良識や良心も感じられない。このまま、野放しには出来ない。
そう、思った女神は仕方なく"それ"を体内に取り込んだ。別世界のものがこの現世にあっては、世界の秩序が乱れかねないからだ。
けれど、どういう因果かはわからないが、偶然女神と出会った"それ"は後に大きな悲劇を齎すことを今は知る由もない。
女神はその後、もう一度結界を張り直し、この森を去った。結局、数週間居座ったものの、噂の色鮮やかな鹿は最後まで姿を現さなかった。
「残念ね。見たかったのになぁ……」
森を立ち去る最後の瞬間まで名残惜しそうにしていたけれど、女神がその鹿に出会うことは二度とないだろう。
何故なら、その鹿は狼の仮の姿だったからである。斯くして、一柱の女神と一匹の狼の旅は始まった。 続く』




