剣の舞
あくる日の朝、火曜日。私は、黒漆塗りの文机に向かって、プレゼン資料の作成に励んでいた。静かな畳の部屋に落ち着きのある調度品の数々。現世で買えば零が幾つ付くのか計り知れない、貴重な品々に胸を高鳴らせている。
旅館に住むのが密かな夢でもあった私にとって、この優雅な日常は誠に有り難い話。だから尚更、眠っている間に判を押させた件の鬼神には幻滅しているのだ。
それはさておき。幸せを噛み締めながら、自前のノートに文字を書き連ねていると、ふと学生時代の頃が蘇った。高校生の時分は古典の授業が大好きで毎回、心躍らせていたものだ。クラスメイト達はさほど興味が無い様子で寝ている人が大半だったけれど。
その時の教科書は今でも大切に仕舞ってある。あの頃も今も文学が好きな気持ちは変わっていない。けれど、社会人になってからは現実世界に追われるばかりで、本を読む機会はほとんど無くなってしまった。物語の世界の扉を開けることは無く、本棚に眠っている本が何冊もある。
そういえば確か、宰相から貰った本もあったっけ。お祓いをしてくれたあの日から、時々神社へ行っては話し相手になってくれて。特にお互い漢詩の話で意気投合。私が地元である大阪から出て京都へ移り住むと決め、あの土地から離れるときも、餞別にと漢詩集までくれた。
宰相、元気にやっているのかな。都のトップらしいから、さぞやお忙しいのだろうけれど、いつかまたご挨拶に伺えたらと思う。
そんな折、コンコンとドアをノックするような音が響いた。襖ではこんな音出るはずも無く。ということは、文机の前の磨りガラス張りの窓か。
その先は東向きのバルコニーで、丸テーブルと椅子まで備え付けられており、外の和空間までのんびり堪能出来てしまうのだ。
「あれ?此処って確か十二階だよね……」
磨りガラス越しに紛うことなき小さな人影が見える。
居る、確実に誰か居る。妖? 神様? それとも得体の知れない何かか……。
「胡和〜! 遊びに来たぞ〜」
この声、何処かで聞き覚えが。明るいけれど、どこか中性的で威厳を感じさせる声。
「もしかして……、白練様?」
「そうじゃ。開けてくれ〜」
言われるがまま窓を開けると、そこには白くて艶々の毛並みが可愛いらしい、お狐様が居た。
「どうやって十二階まで……」
すると、白練様はちょいちょいと上の方を指差す。視線を上げると、そこには小ぶりな花車が浮かんでいた。花車とはその名の通り牛車を花で飾ったもので、縁起の良い着物の柄としても知られる。今回は春らしく桜の花が満開に咲き誇っていた。
「空飛ぶ花車とは……、初めて見ました」
「可愛いらしい車じゃろ。それより胡和に大事な話があって、こちらから出向いたのじゃ」
はてさて、大事な話とは何だろうか。
「どうぞ、こちらへ」
白練様を中に招き入れて、窓を閉める。突然の来訪で、しかもバルコニーからとは白練様らしい突拍子の無さ。
隣の広間でちゃぶ台越しに対面する。
「何かお飲みになりますか? 下の売店で購入したお茶ならすぐにお出し出来るのですが……」
「うむ。それを頂こう」
旅館一階にある売店は現世と変わらず、スナック菓子やペットボトルのジュースなども取り扱っていた。
冷たい飲み物が好きな私は水とお茶を冷蔵庫に常備しているのだ。棚の引き出しを開けて、湯呑みを取り出す。
果たしてペットボトルのお茶は神様のお口に合うのか。
「どうぞ」
白練様はごくごくと一気に飲み干して「美味い!」と一言。小さな両手で湯呑みを持つ姿も愛らしい。
「早速じゃが、鬼神のことでな……」
もしやと思っていたが、やはり領主様のことだったか。
「あの後、領主様とゆっくりお話させていただきましたよ。懸念点が無くなったので助かりました」
白練様に悟られないよう、なるべく明るめの声色で話す。あの後の気まずさを思うと胸の奥が痛むけれど。
「そうか……、いや少し気がかりだったのでな。彼奴は他人を嫌うから、胡和と上手く話せたのか……、心配で夜しか眠れなかった」
「そうでしたか。白練様にご心配いただくような事は何も。ただ、その……」
『嫌われているので、拒絶されました』なんてとてもじゃないが言えない。なるべく言葉を選んで、穏便に、慎重に……。
「領主様は言葉数が少ない方なので、私のような口下手とは相性が悪いというか何と言うか……、白練様の仰っていた良き話相手にはなれそうにございません。お力になれず、申し訳ありません」
私の持てる最大の語彙力を駆使して白練様に心境をお伝えする。頭を垂れて、少しでも誠意が伝わるように。そもそも、神様や眷属はおろか人間ともプライベートでまともに話した事も無いのだ。上手く話せている自信が無い。
もしも、白練様の怒りを買ってしまったら、領主様と同じように拒絶されてしまったら……、私はきっと立ち直れそうに無い。
「胡和よ、お主は本当に良い娘じゃな。よしよし」
気付くと白練様が私の頭を撫でてくれていた。
「私は白練様の思うような人間ではありませんが……」
「鬼神のことを悪く言わないのは胡和くらいのものだ。悪い噂はあっという間に広がって、真に受ける輩がほとんど」
その表情はどこか憂いを帯びていた。白練様は領主様のことを大切に思っているのだろう。同じ職場にこれ程、気にかけてくれる同僚が居るとは何とも恵まれている。
「頼む胡和よ。鬼神との縁をここで断ち切らないでくれ。この通り」
今度は白練様が深々と頭を下げている。
「私はただ、領主様のお気持ちを尊重したいと思っているだけです。もう、顔を上げてください」
わざわざ嫌われている相手と仲良くしたいと思う人は居ない。合わない人とは、分かり合えない人とは関わらない方がお互いの為なのだ。
「領主には胡和が必要なのだ。胡和も領主との和解を望んでいるのじゃろ?このままで本当に良いのか?」
「私は別に……」
昨日のことが脳裏に過ぎり、私は微かに口篭る。
「鬼神はお主のことを好いているのに、」
「私は、七年前からずっと嫌われていたんです。もう、無理なものは無理なんです!」
一息に言って、私は思わず口を塞いだ。しまった、つい気が動転して本音を口走ってしまった。
「なるほど、それが胡和の今の本心なのだな」
束の間の沈黙が流れる。どう言葉にすれば良いのか分からない。出来ることなら白練様の気持ちも尊重してあげたい。でも、きっと領主様の気持ちは変えられない。私の気持ちも届かない。
「胡和の気持ちは分かっているつもりだ。鬼神の本当の想いもな」
本当の想い?
「それってどういう……」
「着いて来てくれぬか? 胡和に見せたいものがある」
バルコニーに出て花車に腰掛けるよう白練様に促される。二人並ぶと窮屈なので、私の膝上にお狐姿の白練様が優雅に鎮座された。
「これから何処へ?」
花車は真っ直ぐ空を駆けて、虹色の雲間を抜ける。温かい陽気と全身を抜ける風がとても心地よい。
「奈良の都じゃ。今は封鎖されて誰も出入りできぬ。ただ一柱を除いてな」
柱ということは神様か。
「もしかして、それが領主様?」
「如何にも。瘴気を払うのが領主の役目じゃからな」
奈良の都。今は黒い煙の渦巻く荒れ果てた土地。かつての栄華は遠く、瘴気に覆われたこの地には、まるで時間が止まったかのような寂寥感が漂う。それでも、ぽつりぽつりと八重桜の薄桃色の花だけが、わずかな希望の光のように咲き誇っていた。
この広い土地をたった一人で巡り、払い清めている領主様。彼の活躍があってこそ、この奈良の都は再び息を吹き返しつつあるのだろう。
「ほれ、居たぞ」
白練様の小さな声に、私は目を凝らした。
遠く、黒い霧のなかで揺らめく人影。紺地の絹織物の着物に、薄い納戸色の羽衣のような直垂を纏ったその姿は、まるで陽光を一身に宿しているかのように輝いて見えた。
領主様は一振りの十束剣を携えて、黒い霧と対峙している。まるで神楽舞のようにしなやかで優美な所作に思わず息を呑む。剣が空を切り、霧が裂ける度に目が釘付けとなった。
「綺麗……」
粗野で他人を寄せ付けない。傍若無人な態度で周りから疎まれている彼とは打って変わり別人のようだ。
見惚れていると、彼の青褐の双眼が私を捉えたような気がした。鋭い視線に心臓が跳ねる。
けれど、彼は何も言わず、ただ黙々と黒い霧を払い除けていく。
「ふふ、鬼神もなかなかやるじゃろ?」
白練様が私の膝の上で笑みを零す。愛らしい狐耳がぴょこぴょこと揺れ、まるでこの状況を楽しんでいるかのようだった。
「鬼神よ〜! 今、そちらに行くから、しかと受け止めよ!」
白練様は私の膝から飛び降りると、領主様に向かって駆け出した。その小さな体躯は花車から軽やかに飛び、彼の腕に飛びつく。
領主様は怪訝そうな顔をしながらも、白練様を軽く受け止めた。二人の間に流れる信頼感に微笑ましく思っていると……。ふと、彼の頭上で固まる。今、一番会いたくない存在とこんなところで顔を合わせるなんて。
「白練様、私は帰らせていただきます」
私は慌てて花車から身を乗り出したが、白練様の悪戯っぽい笑顔に嫌な予感が走る。
「その花車は我の念で動かしているのじゃ。一人では帰れぬぞ〜!」
しまった、お狐様にのこのこ着いて来てしまったが嵌められた。仕方なく、私は荒野に降り立つ。
足元に広がるのは、乾いた土と枯れた草がまばらに生える荒涼とした大地。冷たい風が私の頬を刺し、吹き抜けて行く。
「また、お前達か」
顔色一つ変えずに冷たく言い放つ領主様。私は深く息を吸い、なんとか平静を装う。
「私と話す気は無いと?」
昨日も同じようなやり取りをしたような気が。彼の態度はいつもこうだ。まるで私を疫病神とでも言わんばかりに。
「昨日も言ったが、面倒ごとは避けたい性分なのだ」
「私を厄介者扱いしないでいただけます? だいたい、此処に連れて来たのは白練様でって、白練様?!」
振り返ると、いつの間にか子供姿に戻った白練様が花車の上で悠々と手を振っている。もう既に、かなり遠ざかっていた。
「置いて行かないでください! 鬼と荒野でふたりきりなんてあんまりですー!」
絶望が胸の内に広がる。帰り道も分からないのに、どうしろと……。
「ふたりとも、仲良くするんじゃぞ〜! 達者でな〜」
まさか、最初からこのつもりで?
あのお狐様、絶対にこの状況を楽しんでいるに違いない。私は拳を握り、悔しさを噛み締める。
領主様はそんな私を一瞥すると、静かに歩き出した。
こんな枯れた地では右も左も分からないし、まるでRPGゲームの世界に迷い込んでしまったみたい。私は仕方なく彼の後を追いかけることにした。
「領主様はおひとりで、この地を巡られているのですか?」
沈黙が重たいので、何とか会話を試みる。
「……」
「白練様とは仲が良いんですね。他に親しい神様はいらっしゃるのですか?」
「……」
また、無言。私は意地になって、更に続ける。
「敵襲に遭って、女神様がお隠れになられたと伺いましたが、それは本当で」
「お前も執拗いな」
やっと返事が帰って来た。
「領主様が答えてくれるまで永遠に続けますよ」
にこにこ満面の笑みで囁くと彼の表情が微かに歪んだようだった。
「二度と口を聞けなくしてやろうか」
「そんな脅しには屈しませんよ、私は〜」
ますます嫌われちゃいそうだけれど、白練様がせっかくこの機会を設けて下さったのだから、少しは親睦を深めないとね。
「そうか? この刀で何人もの人間を葬り去ったが、貴様を黄泉の世界へ送ってやっても良いんだぞ」
彼は鬼火を浮遊させ、再び剣を出現させる。十束とは、拳十個分の長さを意味する、およそ一メートル程の長さの直刀。彼は徐ろに私の首筋へとその刃を宛てがう。僅かにも触れていないのに、鋼の冷たい感触が伝わってくるようだった。
私は息を呑みながらも、その刀の峰にそっと手を添える。
「なら、最期までちゃんと送り届けてくださいね。それが、私の命を救った貴方の責務です」
私の言葉が響いたのか、僅かに彼の瞳が揺らいだようだった。呆れたと言わんばかりに刀を消失させる。
「お前を救ったのは俺では無く女神の方だ。勘違いするな」
「実際に救ったのは領主様じゃないですか」
「屁理屈だ」
「どっちが」
こんな荒野で言い争っていても埒が明かない。
すると、突然太陽を覆うように黒い雲が広がった。日差しが届かず、冷たい風が身体を包み込む。今度は酷い地鳴りがして、バキバキと地面に罅が入り、私はバランスを崩して蹲る。揺れはどんどん酷くなって行くようだった。
「不味いな、逃げるぞ」
「逃げるって、どうやって……」
彼は私を担ぎ上げると、疾風のごとく辺りを駆け巡った。地面が割れて、黒い霧が辺り一面に広がって行く。彼はその中を縫うようにして、走り抜けた。瘴気を諸共せずに、私を抱えて、ここまで動き回れるなんて。本当は彼の足手纏いにはなりたくなかったのに、無力な自分に嫌気が差す。
でも、もう何もかも限界みたい。瘴気のせいで呼吸がし辛くて、息が詰まる。目も開けず、全身の力が抜けていく。
──────私、きっと此処で死ぬんだ。
身体がふわふわして、まるで肉体と魂が引き離されるみたい。本当は言いたかったこと、もっとたくさんあるはずのに、こんな所でこんな最期。




