芸亭
ふと、目が覚めると私は畳の一室に寝かされていた。軽く伸びをしつつ、起き上がって辺りを見回す。
枕元には丁寧に着替え用の着物が置かれ、十畳程の広間の中央には座卓と座椅子が据えられている。その奥の壁には重厚感のある桐箪笥。
左手には床の間があり、掛け軸には淡い水色の桜が見事に咲き誇っていた。その足元の花器に生けられた辛夷の純白が、掛け軸の桜と調和され、美しい空間を醸し出している。
ここ、どこだろう……?
私はひょんなことから、とある女神様が創ったというこの不思議な都に招かれた。
確か昨日は、この都を統括している領主様に存分にもてなしてもらい、何やらとてつもなく美味しいお酒をご馳走になった……、ところまでは覚えている。
けれど、それからの記憶は一切無い。
私は、一旦外を見ようと畳の縁を踏まないように移動して、窓の格子を引いた。
「た、高い……」
空は青く澄み渡り、綺麗な虹色の彩雲が相も変わらず流れている。心なしか、いつもより雲が近いような。
此処はバルコニーになっており、木製の椅子と真四角のテーブルが置かれていた。
私は黒漆塗りの柵に手をかけて、遠くを見渡す。どこまでも寝殿造が連なっているが、左端には高い建築物が見える。あれは確か、昨日の話にも上がった摩天楼だろうか?
どうやら、私はまだ都に留まっているようだ。昨日の夜に帰るはずが、一泊してしまったらしい。
これからのことを考えると目眩がするものの、一旦枕元に用意されている着物に着替えることにする。
肌襦袢は身に着けてあったので、淡い白藍に手鞠の柄が素敵な着物に袖を通して、華音さんに教えてもらったことを思い出しながら、腰紐を結んだ。
そして、銀の帯に手を掛けると、それに包まるようにして青色の六弁花の簪が零れ落ちた。
「これ、何の花だろう……?」
せっかくなので簪で長い髪を纏めようとするも、すぐに解けてしまう。我ながら、なんて不器用…。
一先ず、懐に簪を仕舞って帯を結ぶ。
「よし、領主様を探すぞ!」
意気込んで襖を開け放ち、踏み込もうとした瞬間、
「あーーーーーーっ!いたー!良かったぁ」
私を指差して、足元に張り付いてくる兎が一羽。無意識のうちに抱き上げて、ふわふわの毛並みに頬を寄せる。
「可愛い、癒し!」
「ちょっと、苦しい……。やっぱりここの旅館は人探しには向かないね。入り組んでるし、おおざっぱだし。無臭を探し当てるのは至難の技」
「無臭?」
「あやかしや神様は霊力の匂いがするんだよ。人間にも稀にいる。君は、普通の人間だから無臭なんだ」
確かに、私は霊力とやらを持っていない。霊力ってどんな匂いがするのだろうか。美味しい匂いかな。
まぁ、それはさて置き。この兎の名は卯月。とある神社の眷属もとい神使である。
私をこの都に導いてくれた、かけがえのない存在。頑張って私を探してくれていたみたいだけれど……。
「もしかして、領主様に頼まれたの?領主様は今どこに?」
「そうだよ。鬼神殿はお忙しいから、代わりに来たんだ。あと、言付けがあってね。『今日から、この都の正式な住人になったのだから、心して働け』だって」
伝言の部分だけ領主様の低く威厳のある口調を真似て、丸めた紙を私に差し出す。もふもふの毛並の中に収納スペースがあるのだろうか、とりあえず巻き紐を解いて広げてみる。
『五都転移誓約書』と達筆に書かれてあるそれには、以下の文面が記されていた。
『五都摩天楼式部省 御中(並びに「芸亭」管理神殿)
私、蓬莱胡和は、自らの意思により現世の一切の権利・身分を放棄し、五都の領域に永住し、「芸亭」の司書に就任することを、ここに誓約いたします。
第一条(身分移行)
私は本誓約書提出と同時に現世の戸籍・一切の財産権を放棄し、五都の住民登録を受けます。
第二条(職務の厳守)
私は芸亭の司書として、以下の職務を生涯に亘り誠実に履行いたします。
・蔵書一切について毀損・隠蔽・改竄・無断持ち出しをいたしません。
・利用者の読書案内及び、読書活動推進のための各種主催事業の企画、立案と実施に取り組みます。
・館外奉仕活動の展開並びに、宮内省の命に遵守します。
第三条(秘密保持義務)
私は五都および芸亭に関する一切の情報を、現世を含む外部に漏洩いたしません。違反した場合は即時、名前の抹消処分を受け入れます。
第四条(違反時の責任)
本誓約に違反した場合は、五都摩天楼式部省の請求により、違約金五千万円の支払い義務があることを認めます。
第五条(効力発生)
本誓約書は、私が自署・指印の上、効力を発します。以上、誓約の証として本書を提出いたします。』
何故か、既に私のサインと指印が押されてある。誓約書の内容は無茶苦茶であり、自らサインしたとは考えにくいが。
「私、こんなもの知らないんだけれど……」
そこで、はっとする。思い当たるとすれば……、昨日の美味しい宴会は全てこの為? 私が眠っている間に無理やり判を押させたってこと?
どうしてそこまでして、私をこの都に置いておきたいのか甚だ疑問だ。それにしても、あの領主は生粋の悪鬼だわ。
「大丈夫だよ! ここのひとたち皆優しいから、胡和ちゃんも楽しんで働けると思うよ〜」
「でも、あやかしや神様とうまく馴染めるかわからないし、何より私みたいな人間じゃ、お役に立てないと思うし……。誓約解消、出来ないのかな?」
お願いしますと訴えるような目で彼のつぶらな瞳を見つめる。
「あ~、それは誓約違反になるから、第四条が行使されるよ。ほら、ここに書いてあるでしょ?」
期待に反して軽くあしらわれてしまう。再度、誓約書に目を通すと、確かに記載がある。
「第四条、違約金五千万円の支払い義務……」
「つまり、五千万払えば現世へ戻れるね」
ポンと私の背中を叩き、励ましてくれる卯月。五千万もの大金、どうやって工面しろというのだろうか。
その後、私たちは揃って女将さんにご挨拶しに行くことになった。改めて、部屋の契約をする為だ。
どの道、秋まではこの都に留まらなければならないので、部屋を借りられるのは有難い話。
「しかも、朝夕二食付き? で、更に宿泊費無料というのは……。本当に宜しいのでしょうか?」
「はい、もちろん。当宿は都唯一、人の子のみ宿泊可能な温泉宿『五光亭』にございます故」
聞くところによると、何でも先代が人の子に助けられた恩に報いる為、この地に開業したのが始まりだそうな。
現世の私が住んでいるアパートの家賃は五万円。それが浮くとなれば、こんなに嬉しい話は無い。
おまけに朝夕の食事に困らないし、至れり尽くせりとは正にこの事である。
会食場で朝食を食べ終わると、私は卯月に連れられて、職場もとい芸亭へ向かう。
通りはやはり道を行きかう者はなく、静寂に包まれていた。何となく卯月を抱えてとぼとぼ歩く。
「うんていとは、今でいう図書館のことだよ。本棚がたくさん並んでいて、書物や巻物がぎっしり詰まっている。ちなみに、この都については何か聞いてる?」
物知り顔で得意気な卯月。
「詳しいことは何も」
「この都は、奈良、平安、鎌倉、江戸、明治・大正に分かれていて時代ごとに文化を保存している。そして、暇なあやかしやら神様たちが各時代の文化に合わせてこの都で商売を営んでいるわけだ」
これまたどこから取り出したのやら、いつの間にか手に小さな紙が握られており、広げて見せてくれた。
後ろから覗きこむと、五つの丸の中にそれぞれの時代の名が書かれている。簡素な落書きのようなもの。
そういえば、案内板にも似たような紙が張り付けてあったっけ。
「それって地図? なんか、雑じゃない?」
私が苦笑しながら言うと、
「この都は空間でできているんだよ。だから地形というものは存在しない。だから、こんな感じでしか書き表せないんだ」
卯月は前足で器用に紙を丸め、ポンと音を立てて消した。手品みたいだなと思いつつ。
「ちなみに、ここが平安だとして、他の時代へはどうやって行くの?」
「うーん。普通は橋で繋がっているよ。昔から橋はあの世とこの世を繋ぐと云われていて、そのおかげで伝説も多い。まぁ、僕は霊力の音を頼りに空間のねじれを見つけて、飛び越えたりするけどね」
耳をピクピクさせて得意気に言い張る卯月。兎らしいなと一人納得する。
「私も他の時代へ行ってみたいな。昨日は江戸っぽい所に行ったし。でも、方向音痴だから、ちゃんとした地図がないと不安かも」
「まぁ、大丈夫じゃないかな。その内、お目付け役の眷属が付くことになっているみたいだから、一段落したら一緒に巡ってみると良いよ。さぁ、今はうんていへ急ごう」
ということで歩くこと十五分。大きな朱色の楼門が立ちはだかる、二階建てのモダンな建築物の前に到着した。
「ここ?」
「そうだよ。でも、ここは表門でお客さん用だから、裏門に回ろう」
「あっちだよ」と卯月が指差した方へ向かう。それにしても立派な建物だなぁ。きっと現世の平安時代には無かったであろう建築物だもの。その存在は異質を放っていた。
塀沿いにぐるりと回ると、棟門が見えて来た。そのすぐ傍に設置された引き戸を開けて中へ入り、中庭の石畳を通る。ししおどしも置かれ、なかなか風情のある場所だ。
数歩行ったところで、今度は館内の開き戸を開けて、遠くの明かりを頼りに薄暗い廊下を歩いていく。
そして、ついに明るい光に目を細めながら、暖簾を掲げた。
「わあ……」
そこは、正に書物の宝庫。
棚一面、覆い尽くすように本がぎっしり詰まっている。それは一定間隔で設置され、奥の方までひっきりなしに続いていた。
どうやら、従業員用の通用口から直結して、本を返却する為の受付カウンターに出てしまったようだ。
床には青い絨毯が敷かれ、二階にはレースのカーテンが。全体的に平安時代の和の空間ではなく、どちらかというと大正時代の洋館を彷彿とさせる。
驚きと嬉しさで館内に見惚れていると、私の腕に抱かれていた卯月がもぎゅっと抜けだし、ピョンと机に飛び乗った。
「ふふん。すごいでしょ。感動したでしょ」
「うん。なんだか夢みたい。こんなに本が置いてある図書館、久しぶりに来たよ。それと思ったより近代的な作りなんだね」
「まぁ、いろんな時代のいろんな文化が融合されている都だからね。六つの時代に共通した、この都で唯一のうんていだから、女神様が好き勝手に詰め込んだんだよ。全く、欲張りなんだから」
最後の方は愚痴になっていたが、どこか嬉しそうな卯月。卯月も本が好きなのかな。兎の姿で本を読んでいるところを想像するだけで、思わず頬が緩む。
と、そこへ奥の勝手口が開く音がして綺麗な女の人が入ってきた。華音さんと同じ、どこか妖艶な美しさに思わず息を飲む。
葡萄色の髪は御所風に結わえられ、鴛鴦模様の地無し小袖にカルタ結びの帯。"地無し"とは正しく、生地の地色が見えない程に刺繍や摺箔の模様で埋めつくされた、豪華な小袖であった。
「あらー、もう来たのー? 早いわね」
「えっと……、今日からお世話になります。蓬莱胡和です。よろしくお願いします」
先輩が優しそうな人で良かったと内心、ほっと胸を撫で下ろす。
「私は照葉。もう一人の同僚と二人で司書を勤めているの」
今日から三人なんて賑やかになるわ〜、と何処か嬉しそうだった。おっとりふわふわとしていて、接しやすい。
次は館長に挨拶しようと卯月が言うので、私はきょろきょろと辺りを見回した。私たち以外は誰も居なさそうだけれど。
「ああ、館長は今留守にしてるわよー。夕方には来ると思うけれど。せっかくだから、開館時間までお茶にしましょうよ。いちご大福もあるし」
照葉さんはいそいそと隣の部屋に入り、紙袋を掲げて戻ってきた。青色の丸印に『菓樂』の文字。
「あれは、美味しいやつだ」とヨダレを垂らしている卯月に目配せをして頷くと、待たせてもらうことにした。
そこは従業員用の休憩室のようで、畳の部屋の中央には丸いちゃぶ台。奥に台所と左隅には木製の箱が置かれている。右手の方には着物や本、映画のパンフレットらしき物まで乱雑に散らばっていた。
「でも、珍しいわね。生身の人間が招かれるなんて。女神様が考えることはやっぱり奇抜だわ」
いちご大福を盛るための小皿を用意する照葉さん。どこか華のあるひとだけれど、それとは別にどこか砕けたような物言いに私の緊張は解れて行く。おかげで、人見知りな私でもすらすらと言葉が口から零れた。
「そうなんですね。でも、私が此処に居るのは案内してくれた卯月のおかげだし。留まることになったのは神の悪戯だけれど、せめて馴染めるように頑張ります」
現世は何かと慌ただしく、私のマイペースな性格では追いつくので精一杯。その点、この都は時間が流れるのがとてもゆっくりな気がする。昨日、今日では計り知れないけれど。
「うふふ、あなた面白い子ねぇ〜。そうそう自己紹介まだだったわね」
彼女はふわふわ浮いている妖火を借りて、あっという間に湯を沸かし、青磁色の急須に入れて戻ってきた。
「私は元々、現世の江戸に生きていたのよ。でも、大火に巻き込まれてしまって気付いたらこの都に居たの。司書に任命されたのは、本好きが興じたのかしらね」
細長い湯気が立ち上り、棚から取り出した青色の湯のみに注いでくれる。
「どうぞ、召し上がれ」
白磁の小皿には大きな丸い、いちご大福。彼女は薄い唇の口角を上げると、艶やかに微笑んだ。
「いただきます」
お茶を一口啜ると風味が口全体に広がる。心までじんわりと温かくなるような心地がした。
いちご大福は白皮にこし餡と大きないちごが包まれた、王道のもの。
白皮の弾力のあるもちもちとした食感、餡子の甘さと甘酸っぱいいちごの酸味が調和されて途轍もなく美味しい。お茶請けにぴったり。
卯月も口周りに粉をつけながら、いちご大福を頬張っている。何とも愛らしい。
しかし、こんなところでゆっくり一服していて良いのだろうか。
「あの、開館前に準備や清掃はしなくても良いのでしょうか?」
図書館の司書さんなら、朝の業務の一環としてすることの一つだと思うが。
「ああ、いいのいいの。開館時間まで、ここでのんびりしていたら……」
照葉さんが言い終わらないうちに扉が開き、今度は小柄で海老茶の袴姿が良く似合う女の子が入ってきた。
ウェーブがかった胡桃色の髪はちょうど肩上くらいで、可愛らしい牡丹の髪飾りを着けている。見た目は童顔で幼く見えるが、妖であれば私よりも遥かに年上なのだろうか。
「おはよー、姐さん。もう、その苺大福私のなのに、勝手に食べないでよね〜。ってか、その子誰?」
彼女は机の上に乗っているいちご大福の紙袋に目を付け、その後私を指差した。
「新人の子よ。ほら先週、館長さんと妖妃様から話を伺ったでしょ? 今日から仲間が増えて嬉しいわね」
照葉さんに目配せされ、私は先程と同じように挨拶をする。
「蓬莱胡和です。よろしくお願いします……」
「ふーん。よろしく」
彼女は黒の短靴を無造作に脱ぎ捨て、ちゃぶ台の前で立ち止まった。紙袋から何の気なしにいちご大福を取り出し、頬張る。
「あ、ちなみに私は余花って名前だから」
以後、お見知り置きを〜なんてモゴモゴ言いながら。
何だか、緩い空気感の二人に少しだけ心配になる。私も普段はぼーっとしていることが多いので、ひとのことは言えないのだが。
「そういえば、新人なら"あれ"があるんじゃないの?精々、頑張りなさいよ」
照葉さんの淹れたお茶をごくごく飲み干す余花さん。
「"あれ"って?」
「まぁ、その内わかるわよ」
頭に疑問符が浮かぶ中、私も静かにお茶を飲み干した。




