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01

 秋が深まるごとに白鳥が娼館を訪れる頻度は減っていった。実家からの仕送りが滞るようになり、今までのような豪勢な暮らしができなくなってしまったためだ。白鳥はいよいよ覚悟した。そしてその覚悟通り、久しぶりに自宅の固定電話が鳴った。実家からだった。


 その夜、白鳥は半月ぶりに娼館へ足を運んだ。いつの間にか、季節は冬に移り変わっていた。白鳥は笑顔で出迎えてくれた梅子の顔を見て、すっかり打ち解けてしまったその女を自分のものにしたいという願望に囚われた。ここにきて、白鳥はこの関係性に恋愛という定義を与えようとしていた。最初は中卒の娼婦だからと馬鹿にしていたが、頭の回転が速く賢いといえるし、見た目も好みだったし、何よりも彼女のことを愛していた。……と、そこまで考えたところで、白鳥は独りよがりな気持ちを抱いているのではないかという恐れを抱いた。好きだと思っているのは、自分だけなのではないか、と。実のところ、白鳥には娼館で遊ぶような余裕はもうほとんどなかったのだが、そのこと、つまり梅子の気持ちを確かめるために最後の賭けに出たのだった。それに、自分の気持ちが本物なのかどうかを確かめるためにも。

 身体を洗い流して白鳥は先に和室に入った。 いつものように薄明かりが灯っていて、いつものように部屋の隅に暗闇が沈殿していた。布団に入って天井を見つめながら自分の決心を確かめているところへ、梅子がやって来た。やはりいつものように後ろ手に襖を閉めた梅子は、白鳥が選んだあの花柄の下着を着ていた。白鳥は梅子の決意を見たような思いがした。いつものように掌に乳房を納、いつものように熱っぽい接吻をした。まるで体の芯が燃え上がるような、触れ合う肌が一つに解けていくような、そんな官能的な興奮が最高潮に高まった。

 そのとき、関東地方を大きな地震が襲った。最初は動悸の激しさが身体を揺らしているのだろうと思われたが、家具がかたかたと揺れる音ですぐに地面が動揺しているのが分かった。娼館はマンションの五階部分にあったため、揺れは余計に酷く感じられた。何十秒か何分か、あるいは何十分も経ったような気がした。次第に落ち着きを取り戻していった白鳥は、傍らの梅子が恐怖に打ち震えて枕を抱きしめているのを知った。最早、官能的な気分はどこかへ吹き飛んでいた。

 白鳥はリビングにラジオが置いてあったのを思い出し、それを枕元に持ち込んだ。いつかもこの部屋で地震のニュースを聞いたことを思い出し、そのときとはまるで状況が変わってしまっていることで感慨深い気分になった。梅子は布団に潜って震えていた。白鳥が梅子の手を握りながらチューニングを合わせると、ちょうどアナウンサーが地震の規模を読み上げていた。娼館のある地域は震度四だった。


「聞いてごらん、震度四だそうだ。まだ余震はあるかもしれないが、本震がこの程度なら大した心配はないだろう」

「……津波はどうなんです、津波は」

「津波……?」


 白鳥は奇妙に思った。この内陸部で津波を心配する必要はなかったが、梅子を安心させようとラジオに耳を傾けた。少しして、津波の心配はないとの発表があった。その少しの間に梅子もいくらか冷静になったようだったが、白鳥の手を強く握って離そうとしなかったし、相変わらず身体が小刻みに震えていた。白鳥はその身体を抱きしめたい衝動に駆られたけれども、今夜はその先に進むことはできないだろうとわかっていたので、手を握るだけにした。二人は恋人同士ではなかったから。

 しばらくして、梅子が口を開いた。すっかり冷静さを取り戻したようだ。


「梅子というのは……」

「うん?」

「本当は妹に付けるはずの名前だったんです、梅子というのは。生まれてすぐに死んでしまった、可哀想な妹の。あのときから何かが狂ってしまったのかもしれない……」


 最後の方はほとんど独り言のようだった。白鳥には返す言葉もなかった。


「この仕事を始めるとき、私はほとんど本能のままに梅子という名前を選びました。妹の魂が、私の中に生きていたのかもしれません。少なくとも今ここに、梅子という女は生きていますから」

「その……悪かったね、そんな大事な名前を貶してしまって」

「いいんです。言われ慣れてますから、名前のことは。……でも、貴方が梅子という名前を呼ぶとき、どこかで嫉妬する私がいたんです」

「それはどうして」

「さあ、どうしてでしょう。いつか美術館で言ったように、曖昧なままにしておいた方が良いんじゃないでしょうか」

「そうかもしれないな」


 今日という大事な日に地震が起こったのは一種の運命なのではないかと、白鳥は思わずにはいられなかった。梅子とは一つになれない、そんなことを暗示されているかのように感じた。


「きみはあの大震災のあったとき、何をしていたんだ」

「気になりますか」

「……いや、この話はやめよう。それにしても、あれだな――」


 不意に白鳥の腹が鳴った。二人は顔を見合わせて笑う。時計を見れば、午後九時半だった。


「実はまだ晩飯を食べてないんだ。付き合ってくれないか?」

「外食ですか?」

「うん。きみの作る料理も食べてみたいが、そんな図々しい真似はできないしな。どこかへ食べに行こう」

「支度します」


 突然の頼みだから断られる覚悟をしていたが、梅子は意外にあっさりと着替えを始めた。リビングで着替え始めた梅子は、あの花柄の下着をもう一度着て、一番上にコートを羽織った。明るい照明の下で見る梅子の着替えは、何となく白鳥に恥ずかしさのようなものを植えつけた。と、白鳥はそこまで観察していたところで、自分も着替えなければならないのだということにようやく気付いた。




 夜の街は静かだった。あの地震の後だから、同じように寂しさを抱えた人々がうろつき回っているかもしれないと思われたが、街並みは却ってひっそりとしていた。梅子は白鳥の三歩後ろを歩いていたが、白鳥は梅子の手を取って自分の横に並ばせた。そのときの梅子のはにかみ混じりの笑顔には、暗闇の中でもぱっと華やぐものがあった。ふと、暗闇の中を梅子と歩くことの新鮮さに白鳥は気付いた。夜を共に過ごしているときは、いつも薄いながらも明かりの下にいたので、梅子の姿形はよく見えていた。こうして暗闇の中に並んでいると、いよいよ梅子への官能的な想いは強まるように思われた。

 白鳥は梅子があの下着を着て和室に入ってきたときの、あの顔を思い出す。あれは、どこまでも共に行こうという決意の表れではなかったか、と。

 このとき、白鳥の帰郷が既に決まっている。今日の朝、業を煮やした父親からの電話を受け取ったときには、帰郷以外の選択肢はなかった。激昂する父親の怒気を躱し、年末に帰郷することで合意したのだ。帰郷の時期を引き伸ばすこと、それが父親にできる精一杯の譲歩だった。両親は然るべき相手がいるなら連れて帰るようにと言っていたが、どう転んでも娼婦である梅子が然るべき相手と見なされるはずがなかった。それは白鳥の冷静な状況判断といえたが、反対を押し切ってでも梅子と一緒になるという気概に欠けることをも意味した。これほど深い関係になっても、梅子はやはり一人の娼婦でしかなかった。

 それでもやはり、やはり、白鳥は梅子と別れることに耐え難い苦痛を感じた。その理性ではどうにもできない感情の動きが、白鳥の口を開かせた。


「実家に……」

「えっ?」

「岡山の実家に帰ることになった」


 白鳥が発したのは、ただそれだけの言葉だった。それでも、聡い梅子は、その意味をしっかりと把握した。もう二度と会えないということを。


「きっと、見送ってくれるような人間はいないだろうけどね」

「私で良ければ見送りに行きます。私のような女で良ければ」

「来て、くれるのか……?」

「私、白鳥さんのことは……好きですから」


 どういう意味で、と問おうとして白鳥はやめた。世界を切り取ってそれを定義したところで、腐っていくのは目に見えていた。

 それから二人は黙ってしばらく歩いたところで、見慣れない通りの中に迷い込んだ。どこをどのようにして通ってきたのか分からないので、二人はただひたすら進むしかなかった。その先は行き止まりだった。


「ああ、袋小路ですね」


 梅子があっさりとした口調で言った。白鳥はその先に進めないことを惜しんだが、梅子に促されて今来た道を戻って行った。




 十二月の末、白鳥は新幹線のホームに立っていた。見送る者はなく、白鳥は帰省客に混じって岡山に帰ることになった。梅子はまだ姿を現さなかった。

 流線型の新幹線がホームに滑り込んできた。この街と別れるのだと思っても、不思議に名残惜しさはなかったけれども、やはり梅子と別れることは口惜しかった。もしも梅子が来たならば、そのときにはきっと梅子の本当の名前を教えてもらうつもりでいた。梅子が望むならば、岡山に呼び寄せようと思ってもいた。この期に及んで、白鳥はようやく決意したのだ。

 思案にふける白鳥に呼びかける者があった。梅子だった。


「良かった、なんとか間に合いました」


 驚きの色を浮かべる白鳥の目の前にやって来て、梅子は必死に息を整えようとする。本当に来てくれるかどうか、白鳥には確信が持てなかったのだが。新幹線の発車までにあまり余裕がなかった。


「来てくれたんだね」

「約束しましたから。約束してなくても、きっと来たと思います」

「うん、そうだな。きみは俺なんかよりもずっと立派な女性だから」


 そこまで会話を交わしたところで、二人にはもう話すことがなかった。正確には、話すべきことが多すぎて言葉にすることができなかったのだ。白鳥が口にしたのは、別れの場に似つかわしくない言葉だった。


「俺は白鳥じゃないんだ。本当の名前は――」

「そんなこと……、そんなこと、分かってますよ」

「教えてくれ、きみの本当の名前は?」


 二人はしばらく見つめ合った。家族連れが階段を駆け上って来て、新幹線の中に飛び乗り、ホーム上の時計の分針が前進し、二人の間を風が駆け抜けていった。


「私の名前は……」


 発車の時間が刻一刻と迫っている。梅子の顔に逡巡が閃いた。

 そして梅子は、そっと口を開いた。

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