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01

 以前の梅子は、自分のことをどこにでもいる普通の女だと思い込んでいた。雪のように白い肌のきめ細やかさやすらりとした背の高さなどには非凡なものがあったが、部屋の中に引きこもっていた梅子には比較対象がなかった。自分の女性らしい美しさを発見したのは、初めて口紅を塗りつけた十六のときだ。慣れない手つきで唇を彩る様子は、まさに塗りつけるという言葉が相応しかったけれども、出来上がった自分の顔を鏡の中に見ると、そこには美しい顔をした女が座っていた。美しくあること。梅子にとっての喜びがそこにはあった。

 梅子が個性を獲得したのは、皮肉にも娼婦としての生活を始めてからだった。約十年ぶりに伯父に引き会わされたとき、伯父は感嘆のような声を上げた。けばけばとした服装で身を飾るようになってからも、梅子は装飾品に劣らぬ美しさで客を魅了した。自分の肉体を客の前に投げ出したとき、梅子は自分に秘められた可能性を知った。そうして外側にレンガを積み上げるようにして美しさという壁を築いていった梅子は、その道から抜け出すことを考えられなくなっていた。当たり前の幸せというものが分からなくなっていた。

 快楽に溺れることはなかったし、先行きの不透明な生活であったけれども、梅子は決して不幸せではなかった。季節の移り変わりに情緒を感じたり、同じ電車に乗り合わせた幼い子供たちの純粋さに目を細めたりと、日々の細々とした喜びはあったし、同じ境遇の女と慰め合うこともあった。それに何より、今までに手にしたことのないような金が転がり込んできて、それなりの贅沢もした。ただし、それで心が満たされていたかといえばそうではなくて、いつか自分の身を引き上げてくれるような存在が現れることを求めてもいた。

 その予感は何度かあった。最初に出会ったのは五十代の善良な男だった。彼は裕福な生活をしていたし、梅子との相性も合ったが、彼には妻がいる上に年齢が離れ過ぎていた。次にであったのは三十代の男で、こちらには妻はなかったが、同時に金もなかった。そうして三番目にその予感をもたらしたのは、友人から紹介されてやって来たあの男だった。

 男が梅子という名前を古臭いと切り捨てたとき、梅子はこの男にあまり良い印象を持たなかった。それはとても思い入れのある名前だったから。そこまで言うならそちらの名前はどうなのだと梅子の心は反発した。ただ、客の情報をみだりに訊き出すのはご法度だったので、梅子は相手の名前も知らないままに交わった。それは決して珍しいことではなく、この娼館で自分から名乗る者など滅多にいない。名乗ったとしても、それは多くの場合、偽名である。それが当たり前の世界だった。

 梅子の見たところ、男の顔には女遊びに倦んだような色が滲み出ていた。鈍い黄色の清潔感のなさや、つややかな光沢に欠けた瞳や、しばしば歪んでみせる唇などが、そんな印象を梅子に与える。歳を重ねているようであって、どこか幼くもあった。身体の方も筋肉質であるけれども、突けば壊れてしまうような、どこか健康的な色に欠けた身体に思えた。

 梅子の名前を否定したその男も、自分から名乗ろうとはしなかった。梅子はやきもきしながら、態度だけは事務的にして男と交わった。最後の瞬間に接吻を拒んだのは、男へのちょっとした反抗心を示したかったからだ。その犯行は絶大な効果をもたらしたようで、その男が梅子の部屋を訪ねてくることはしばらくなかった。

 そうしてある程度の期間を置いて、予約もせずに娼館までやって来た男のことを、梅子は何という非常識な人間だろうと思った。自分のわがままが通ると思い込んでいることが、やはり幼さを感じさせた。梅子はいつもなら客には麦茶を出すところが、オレンジジュースを出すことで無言のうちに拒絶を示した。しかし、男にはその意図が伝わらなかった。男は梅子のバスローブの中に手を入れると、今日の相手をして欲しいと重ねて言った。さすがの梅子もこれには腹が立った。そこで、こんなことを訊いてみた。


「ところで、貴方のお名前は?」

「俺か? 俺は……白鳥(しらとり)というんだが」


 偽名であることは間違いなかった。しかし、この男に白鳥という名前を与えたとき、不思議に調和するものがあった。古来、白鳥は男性的な象徴であるという。ギリシア神話におけるレダと白鳥のモチーフが、梅子の頭の中にはあった。梅子の心の中で何か解れるものがあった。まるでデジャヴを体験したときのような、目には見えない脳の不思議な働きを感じた。そこで白鳥の無茶に応じることにしたのである。

 ……白鳥は嫌味な男だった。梅子が中卒であるという事実を知ると、眼の色ががらりと変わってしまって、梅子を露骨に蔑むようになった。ところが、梅子はそれで肩にかかる負担が一つ減ったような思いがした。心の中に芽生え始めていた何かが、さっと枯れてしまったのだ。梅子はその曖昧な感情を、曖昧なままにしておこうと思った。それが、梅子が初めて白鳥と接吻した夜のことである。

 翌朝、朝日の差し込む街を二人は歩いた。白鳥は並んで歩くことを嫌がっている様子だった。梅子には残酷なまでにその仕草の意味が分かった。それで、梅子は橋の袂で立ち止まった。正直な気持ちを吐露すれば、一緒に川の向こう側まで渡ってしまいたかった。付いて行ったところで、白鳥が梅子を愛してくれるはずもなかった。だからこそ、梅子は白鳥と最低限の距離を保とうとした。

 梅子の気持ちが決定的に解れるきっかけを作ったのは、美術館での出会いだった。白鳥が三幅対の黒い矩形に娼婦の顔を見たとき、娼婦もまた白鳥の顔を深淵に見出していたのである。そのとき、梅子の気持ちは決定的に揺れ動いた。揺れ動いたためにあの議論が起こり、あの雑踏の中での告白に至ったのである。梅子は過去を明け透けにしたけれども、ただ一つ、自分の名前だけは包み隠した。それが最後の心理的障壁であった。それを暴かれてしまえば、梅子が梅子として白鳥と築いた関係は崩壊してしまうしかなかった。梅子は娼婦としてしか、白鳥との関係を結ぶことができなかった。




 季節が移り変わっても、しばらくの間は夏の暑気が続いた。それでも次第に暑さが引いて、涼しげな風が都会を流れるようになった。二人の関係もそのように冷めてしまうことがあり得たけれども、実際にはより親密で深い関係を結ぶようになった。梅子はそのことを恐れた。きっと後戻りができなくなるのではないか、と。秋が深まるほどに接吻は密になり、冬が近づくほどに梅子は口を一杯に開けて快感を味わった。梅子は女性としては大柄な体型をしていたが、白鳥はそれ以上に背が高く、筋肉質な身体をしていた。白鳥が貧弱な男であれば、梅子は彼に馴染むことはなかったかもしれない。

 身体を洗い流して玄関先まで白鳥を見送るとき、二人の間には微妙な沈黙が流れた。同じ布団に潜り込んで朝まで眠ったとき、目覚めて顔を見合わせた二人の間にも、やはり微妙な空白があった。二人はその間隙を埋めることを恐れて必要以上に身を引いたけれども、そうすると関係がそこで終わってしまうような気がして、却ってそれ以前よりも距離を縮めてしまう。それでも二人はその関係を恋だとか愛だとか、そんな言葉で片付けてしまうことを好まなかった。

 恋愛といえば、あれ以来、梅子は白鳥が選んだあの花柄の下着を着ようとはしなかった。男が女の下着を選ぶという恋人じみた行為を思い出すと、梅子はどうしてこんなものを買ってしまったのだろうと思わずにはいられなかった。着ることも捨てることもできずに、タンスの肥やしになってしまった下着のことを、白鳥はまるで忘れてしまったようだった。

 ところがあるとき、客の一人が梅子のタンスを勝手に開けて、その下着を見つけてしまった。梅子はその無作法な振る舞いを詰ったけれど、客は梅子の心を解きほぐす鍵を見つけてしまったような顔をして、却って増長してしまった。


「これ、ひょっとして大事なもの?」

「……」

「男からの贈り物かな? ほら、着てごらんよ」


 そう言ってその客は下着を床に落とした。跪いてそれを拾えと命令してきた。仕方なく跪いた梅子の頭に客の足がのしかかってきた。客は足の裏で梅子の顔を撫でるようにして、終いには蹴飛ばした。胸元を突かれた梅子は後ろに倒れこみ、客の顔を睨みつけるように見上げた。そこに立っている男は悪魔のような笑みを浮かべていたが、すぐに善良な顔を取り戻して、梅子が立ち上がるのを助けた。


「冗談だよ」

「……冗談にしては意地悪が過ぎます」


 それからというもの、梅子は白鳥が訪ねてくるのを待ち焦がれた。梅子はその出来事を白鳥に語ることはできない。この娼館に誰がやって来て、何をするかは秘密でなければならないから。白鳥にただ一目会いたかった。会って身体を重ねるだけで良かった。梅子はその関係をやはり恋愛という言葉で片付けたくはなかったが、自分の心が白鳥に傾斜していることは否定できなかった。自分の心を理解することで、梅子はどんな苦難にも耐えられる拠り所を見つけたような気持ちになった。




 白鳥はなかなか姿を見せなかった。

 梅子はその間に幾人もの男と交わり、幾つもの夜を孤独に過ごした。それでも白鳥が現れる気配はなかった。都会の夜はビルの谷間に深い闇をこしらえて、梅子という儚い存在に悪い夢を見せているようだ。梅子は一人和室に眠るとき、寝汗をかいて目覚めることがあった。そんなとき、隣に白鳥のいないことが歯がゆく思われた。粘着くような汗の不快さも、湿った布団のカバーの温もりも、白鳥と一緒ならば快感に転換するというのに。

 次第に白鳥という男が憎く感じられてきた。どうして、こんなときにあの人は私の傍にいてくれないのだろう、と。それはまるで運命のようでもあった。二人は決して一つになることはできない、どんな苦しみもどんな痛みも共に乗り越えることなどできない、結局は娼婦と客の関係でしかないのだから、という風に。

 白鳥はなかなか姿を見せなかった。

 梅子はその間に幾人もの男と交わり、幾つもの夜を孤独に過ごした。それでも白鳥が現れる気配はなかった。都会の夜はビルの谷間に深い闇をこしらえて、梅子という儚い存在に悪い夢を見せているようだ。梅子は一人和室に眠るとき、寝汗をかいて目覚めることがあった。そんなとき、隣に白鳥のいないことが歯がゆく思われた。粘着くような汗の不快さも、湿った布団のカバーの温もりも、白鳥と一緒ならば快感に転換するというのに。

 次第に白鳥という男が憎く感じられてきた。どうして、こんなときにあの人は私の傍にいてくれないのだろう、と。それはまるで運命のようでもあった。二人は決して一つになることはできない、どんな苦しみもどんな痛みも共に乗り越えることなどできない、結局は娼婦と客の関係でしかないのだから、という風に。

 梅子は自分の身の上を呪った。今までそんな考え方をしたことはなかったが、白鳥と出会ってから梅子の心は決定的に揺れ動いた。揺れ動いて行き着く先は、果てしない地獄のように思われた。白鳥と一緒ならば、それでも構わないと思った。梅子に無限の力を与える白鳥の存在は、地獄の底のコキュートスにあって、一瞬の煌めきのような梅子の美しさをより輝かせるのだった。

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