02
食事を終えた二人は、昼間の街を連れ立って歩くことにした。人気の少ない朝の街を歩くことさえ躊躇った男が、こうして白昼堂々、人混みの中を梅子と歩くまでには多少の心理的な変化を要した。一つには、鑑賞を終えた後で頭が火照ったようになって、一種の興奮状態にあったことも原因している。だが、結局のところ、男は梅子を見下しているのだ。中卒の娼婦にあの絵画の良さが分かるはずはないだろう、と。そのために余裕が生まれていた。それを知ってか知らずか、梅子はいつになく芯から笑っているようだった。
このまま帰宅しても良かったが、せっかく時間があるのだからと、男は梅子を百貨店に誘った。男は今回の展覧会へ行くきっかけともなった友人のために、何か贈り物をするつもりでいた。梅子に訊けばネクタイやハンカチなど、身の回りで使う物が良いのではないかとのことだったが、後に残らない食べ物や飲み物が良いと男は思った。そこで男は友人が甘いものに目がないことを思い出した。ケーキやプリンなどが美味そうに映ったが、友人とはすぐに会うわけではないので、チョコレートを買うことにした。そこで梅子が面白いものを見つけた。
「これ、ジャスミンの風味がするらしいですよ」
「へえ、面白いじゃないか」
こうして男はジャスミン風味のチョコレートを無事に購入した。これで男の用事は片付いたわけだが、まだ時間に余裕があった。男は梅子の下着を見に行こうと提案した。梅子は拒んだが、男が見に行くだけだからと促すと、梅子も渋々ながらエレベーターに乗り込んだ。下着売り場に男性客の姿はなく、男は少しばかり気分を良くした。女を従えて歩くことに優越感を覚えたのだ。
男は見に行くだけだからと口では言いながら、あれやこれやと下着を指さしては、これは似合うだとかもっと地味な方が良いだとか、色々と寸評した。梅子の胸は平均よりも少し大きい程度だったので、選択肢は無数にあった。終いには花柄の下着を見つけて、男はこんなことを言った。
「きみの名前は梅子だろう。さっきもジャスミンのチョコレートを見つけてくれたし、こんな花柄のものが似合うんじゃないか?」
梅子は俯いて考えている様子だった。少し間を置いてから、梅子はこんなことを言った。
「本当に似合いますか?」
「ああ、とても似合うと思うよ」
「これは自分のお金で買いますから、それでも良ければ、着てみようかな……」
梅子の顔がほんのりと華やいだようだった。その名に相違して満開の桜のような暖かさがあった。男は梅子の可愛らしさに改めて気付いたようだった。
百貨店を出ると、いつの間にか時刻は午後五時を回っていた。男はここで別れるつもりで、梅子に握手を求めた。梅子は嫌な顔一つせずそれに応じた。
「私、今日がこんなに楽しい一日になるなんて想像できませんでした」
「うん、俺もなかなか楽しめたよ。きみとの会話も面白かった」
「本当ですか? 私のような女と一緒で不愉快だったでしょう」
「そんなことはないさ。きみだって、俺と同じ人の子だよ、そんなに卑屈になることはない」
梅子は笑っているのか、悲しんでいるのか、よく分からない顔をした。男は梅子が娼婦の身にまで堕ちたのは、やむを得ない事情があるのではないかと、今更のように思い至った。それはただの同情であったかもしれないが、一つの前進と呼べないものでもなかった。
「もう少し、一緒に歩こうか」
気が変わった男の言葉に梅子が頷いた。雑踏の中にいるおかげで、余計な言葉を発する必要はなかった。しばらく歩いたところで、梅子が口を開いた。
「一つ、昔話をしても良いですか。いえ、独り言だと思って下さい」
「うん?」
「私、東北で生まれ育ったんです。育ったと言っても中学の頃に引きこもってしまって、中卒と言っても本当の中卒じゃないんです。母子家庭に育ったものですから、母も私には甘くて、外に引っ張り出してくれるようなものがなかったんですね。いえ、別に恨みがあるわけじゃないんです。最終的には自分で解決しないといけない問題でしたから」
「……」
「あるとき、私が十八歳になった年でしたけど、関東に住む親戚が私のことを預かると言い始めたんです。母はね、田舎にいるよりも色んなチャンスが転がっているし、途中で帰ってきても構わないから行っておいでって言うんですね。私、あんなに泣いたのは初めてでした。母とは泣く泣く別れて、関東まで上ってきたんです。でも、その親戚のおじさんは私のことを預かるつもりなんてなかったんです」
「と、いうと? ……ああ、いや、これも独り言だ」
「おじさんはね、理由は分かりませんけど莫大な借金を作ってしまって、それで私の身を売って借金の代わりにしようとしたんです。それが今の生活の、始まりだったんです」
梅子は最早、男にすっかり心を許してしまっていた。男も梅子もそうと知りながら、またそれではいけないと思いながら、話すことをやめられなかった。それはちょうど、言葉を使って自分たちの関係を確かめようとしている風であった。男は自信を持った。持ったけれども、面倒なことになってしまったと思いもした。ここまで二人の距離が縮まってしまい、またその関係があの部屋の中で完結していないとあっては、これはもう恋愛関係というべきものなのではないか、と。
男にとって幸いなことに、梅子はそれ以上のことを語ろうとはしなかった。梅子が独りぼっちの娼館を築くまでの経緯ははっきりしなかったけれども、そのおかげで、二人はあと一歩のところで踏みとどまることができた。男はふと、自分の心のなかに解体できない気持ちが沈殿していると気付いた。それを解明することは不幸な結果を生むような気がして、今は曖昧なままにしておこうと思った。
暑苦しい夜だった。梅子は男の身体を洗い流すと、男に脱がされるためだけに花柄の下着を着た。後ろ手に襖を閉めた梅子は、下着姿のままに自分の身体を男の筋肉質な身体に擦りつけてきた。じっくりと接吻をした後で男が下着を脱がす頃には、二人の額に汗が浮かんでいた。この部屋は空調が利かないのだろうかと男は思ったが、わざと空調を働かせていないのだと気付いた。そうすることで、二人の身体は最も効率的に燃え上がるから。
夜中の二時を過ぎた頃に男は一度目覚めた。快い疲労感が身体の隅々に残っている。腕に絡みつく梅子の身体を剥がし、トイレに立った。手を洗ってベランダに立ち、タバコを吹かす。都会の夜景は賑やかで、あちらこちらで同じように男女が交わっているのだと思うと、不思議な心地がした。自分もその中の一人だと思うと、より強く。ふと空を見上げてみれば、十字架状の星座が夜の闇に輝いている。男は不意に寒気を感じた。
生ぬるい夜風に雨の匂いを嗅ぐと、男は煙草をもみ消して室内に戻った。もう一度和室に戻って布団に入ろうかと思ったが、気持ち良さそうに寝ている梅子を起こしてしまうのは忍びなかった。そう思ったところで、男は自分の本当の気持ちを知った。娼婦と客との関係から、抜け出そうとしていた。
明け方に帰宅した男を待っていたのは、岡山の実家から届いた手紙だった。電話やメールではなく、わざわざ手紙を送ってくるしかつめらしさに男は辟易した。その内容が事前に予想できたので、男は不機嫌になったのかもしれない。
封を切ってみれば、それは予想通りの内容だった。「一筆啓上火の用心……」とまではいかなかったが、早く帰って来い、然るべき相手がいるなら連れて帰れ、といった簡素な内容だった。それだけのことを言うために手紙を送ってきたことに強迫的なものを感じたが、同時に男のことを扱いかねている相手側の心理を読み取ることもできた。論戦をすれば男が勝つだろうから、電話をしたくてもできないのだ。それに、いざとなれば仕送りを停止することもできるはずだが、それをしないところから察するに、まだまだ時間の猶予はあるように思えた。
……しかし、男には何の計画もなかった。職に就いているわけでもなければ夢や目標を追いかけているわけでもなく、特定の交際相手がいるわけでもない。時間の猶予があったところで、その先に待つものは何もなかった。それに、いずれは故郷に帰るつもりでいた。都会の遊びに溺れたところでそこが故郷になるわけでもない。結局、異郷で生きていけるだけの強さは男にはなかったのだ。