第2話 迷子札の決まり
目を覚ますと、知らない天井だった。
……いや、天井というより梁だ。太い丸太がむき出しになっていて、隙間から朝の光が差し込んでいる。
「……そうだったわね」
エルナはゆっくりと体を起こした。
王都の屋敷の天蓋付きベッドとは比べものにならない、藁を詰めた寝台。それでも、思っていたよりずっとよく眠れた。神殿で結界を張り続けた一年間、こんなに深く眠れた夜はなかったかもしれない。
首元に手をやる。
革のチョーカーは、昨日のまま、そこにあった。
「……外れないわね」
金具を指で探ってみる。押しても、引いても、ひねっても、びくともしない。留め具らしい凹凸すら見当たらない。
「どうなってるのよ、これ……!」
十分ほど格闘したところで、とんとん、と扉が叩かれた。
「エルナ様ー、起きてる?」
のんびりした声。昨日のあの村人だ。
「お、起きてるわよ!」
慌てて髪を手櫛で整え、ショールを羽織る。公爵令嬢たるもの、寝起きの姿を他人に見せるわけには――
「朝ごはん持ってきたよ。入るね」
「入っていいなんて言ってないわよ!?」
扉は、すでに開いていた。
◇ ◇ ◇
「……おいしい」
口に出してから、しまった、と思った。
向かいに座ったレンダールが、嬉しそうに目を細める。
「よかった。かぼちゃのスープ、昨日収穫したやつ」
小さな木のテーブルに並んでいるのは、湯気の立つスープと、焼きたてのパンと、とろりとした卵。王都の料理人が作る豪勢な朝食とは違う。けれど、どれも驚くほど優しい味がした。
「あなたが作ったの?」
「うん。一人暮らし長いから」
「……そう」
悔しいけれど、手が止まらない。
そういえば昨日は、まともに何も食べていなかった。
「ところで、これ」
エルナはスプーンを置いて、首元のチョーカーを指さした。
「どうやって外すのよ。どこにも留め具がないじゃない」
「だから、知らないって言ったでしょ」
「つけたのはあなたでしょう!」
「つけ方は知ってるけど、外し方は知らないんだよね」
にこにこ。
何を言っても、この顔だ。
「そんな馬鹿な話が――」
「それに、外さない方がいいよ。この辺、本当に危ないから」
レンダールはパンをちぎりながら、なんでもないことのように言った。
「迷子札をつけてる人は、村の誰かが必ず見つけられるようになってる。だから、森で迷っても大丈夫」
「……本当に?」
「本当。でも、だからって勝手に森に入っちゃだめだよ」
ちぎったパンを、エルナの皿にそっと置く。
「約束ね」
◇ ◇ ◇
朝食のあと、レンダールは「畑に行ってくる」と出ていった。
ひとり残されたエルナは、改めて村を見て回ることにした。
「あら、聖女様! おはようございます」
声をかけてきたのは、昨日村の入り口にいた恰幅のいいおかみさんだった。村でただ一軒の宿屋を営んでいるマーサだと名乗った。
「よく眠れました? レンダールの隣の家、日当たりがいいでしょう」
「ええ、まあ……」
「朝ごはんは? ちゃんと食べました?」
「……あの村人が持ってきたわ」
「あらあらあら」
マーサは頬に手を当てて、なぜかとても楽しそうに笑った。
「そういえば聖女様、聞きました? 昨日の護送の兵隊さんたち」
「兵士? あの失礼な?」
「ええ。今朝、街道沿いの宿場町から知らせが来たんですけどね。夜中に真っ青な顔で駆け込んできて、そのまま馬も借りずに、走って王都へ帰っていったんですって」
「……走って?」
「ええ、走って。何に追いかけられたのかしらねえ。熊でも出たのかしら」
ほほほ、とマーサは笑う。
その目が、一瞬だけ畑の方へ向いた気がした。
「……いい気味だわ」
エルナは小さく鼻を鳴らした。
あの兵士たちが何に怯えたのかは知らないけれど、少しだけ胸がすっとした。
「そうそう、聖女様。村を歩くなら、これ持っていきなさいな」
マーサが差し出したのは、使い込まれた小さな籐のかごだった。
「森の入り口あたりには、いい薬草が生えてますからね。……入り口あたり、には」
◇ ◇ ◇
昼過ぎ。
村の外れまで歩いてきたエルナは、森の入り口で足を止めていた。
木々の根元に、淡い青色の花が群れて咲いている。
「月雫草……こんなところに」
神殿の薬草園でも、なかなか育たない貴重な薬草だ。煎じれば、傷薬にも熱冷ましにもなる。
この村には医者もいないだろう。少し摘んでおけば、きっと役に立つ。
(……森の入り口なら、入ったうちに入らないわよね)
エルナは、かごを抱え直して一歩、木々の影に足を踏み入れた。
もう一歩。花はもう少し奥に、たくさん咲いている。
あと少しだけ――
「どこ行くの?」
すぐ後ろから、声がした。
「ひゃっ!?」
振り向くと、レンダールが立っていた。
手には泥のついた鍬。畑仕事の途中で、そのまま来たような格好だ。
「な、なんでここに……畑にいたんじゃないの!?」
「うん、いたよ」
「畑はあっちでしょう! ずっと向こうの!」
「そうだね」
にこにこと笑ったまま、レンダールが一歩近づいてくる。
エルナは思わず後ずさった。背中が、木の幹に当たる。
「勝手に森に入っちゃだめだって、言ったよね?」
「ま、まだ入り口よ! 薬草を摘もうとしただけで――」
「うん」
レンダールの手が伸びてきて、首元のチョーカーに、そっと指がかかった。
引かれたわけじゃない。ただ、触れられただけ。
それなのに、息が止まった。
「俺の見えないところに行かれると、すごく困るんだ」
近い。
見上げた顔は、いつもと同じ、人の好さそうな笑顔だった。
なのに、目だけが、少しも笑っていない。
「――次はないからね、エルナ」
最後の一言だけ、ほんの少し、温度が低かった。
様がついていないことに、その時は気が付かなかった。
「さ、帰ろっか」
次の瞬間には、レンダールはいつもの顔に戻っていた。エルナの手からかごをひょいと取り上げ、ついでのように、足元の月雫草をいくつか摘んで入れる。
「これ、欲しかったんでしょ? 明日、一緒に採りに来ようね」
「…………」
エルナは返事もできないまま、その背中を見つめた。
首元のチョーカーが、さっき触れられたところだけ、まだ少し熱い気がした。




