第1話 追放聖女、森で村人Aに拾われる
「エルナ・ルミエール。聖女の名を騙り、妹ミレイユを虐げた罪により、そなたとの婚約を破棄する」
王宮の大広間に、王太子アルベルトの声が響いた。
きらびやかなシャンデリアの下、居並ぶ貴族たちが一斉にこちらを見る。憐れみ、好奇、そして隠しきれない愉悦。
その中に、エルナを庇う者はひとりもいなかった。父も、母も、昨日まで「聖女様」と頭を下げていた神官たちも。
アルベルトの腕にすがりついた異母妹のミレイユが、潤んだ瞳でこちらを見上げている。
「お姉様……どうして、あんなひどいことを……」
(ひどいこと、ね)
エルナは扇を閉じた。
妹の教本を破いたこともなければ、階段から突き落としたこともない。そもそもこの一年、神殿で結界を張り続けていて、まともに屋敷へ帰ってすらいなかった。
けれど、それを言ったところで誰が信じるだろう。
「……承知いたしました、殿下」
エルナは完璧な角度で膝を折った。五歳から叩き込まれた、公爵令嬢としての、聖女としての礼。
「どうぞ、お幸せに」
顔を上げたとき、震えていたのは声ではなく、扇を握る指先だけだった。
◇ ◇ ◇
辺境送り、と言えば聞こえはいい。
実際のところは、ほとんど捨てられたも同然だった。
王都を出て十日。粗末な馬車に揺られ続けたエルナは、見渡すかぎりの森の前で放り出された。
「ここから先は、馬車じゃ入れねえんで」
護送役の兵士は、目も合わせずにそう言った。
「……辺境の村まで送る、という命令ではなかったかしら」
「森を抜けりゃ村がありますよ。まあ、魔物が出なけりゃの話ですがね」
ははは、と下卑た笑いを残して、馬車はあっという間に来た道を引き返していった。
残されたのは、トランクがひとつと、エルナだけ。
「…………」
風が木々を揺らす。どこか遠くで、聞いたこともない鳥が鳴いた。
エルナは深く息を吸って、吐いた。
「上等じゃない」
泣いてなどやるものか。
聖女の力はまだ残っている。自分の身を守る程度の結界なら張れる。森を抜ければ村がある。なら、歩けばいいだけの話だ。
エルナはトランクを両手で持ち上げ――その重さに、よろめいた。
「……っ、上等じゃない……!」
◇ ◇ ◇
一時間後。
エルナは、自分の見通しが甘かったことを思い知っていた。
「なんで、こんなに、道が、ないのよ……!」
ドレスの裾は泥だらけ。お気に入りの靴は、片方のかかとが取れた。トランクは三回ほど木の根に引っかけて転がした。
そして、今。
茂みの向こうから、低い唸り声が聞こえていた。
ひとつ、ふたつ……いや、もっと。
木々の隙間に、赤く光る目がいくつも浮かぶ。灰色の毛並みに、大人の背丈ほどもある体躯。
「森狼……」
それも、群れだ。
エルナは震える手を胸の前で組んだ。
「――光よ、我を護れ」
淡い光が、エルナの周りに薄い膜を張る。
飛びかかってきた一頭が、光の壁に弾かれて悲鳴を上げた。
(大丈夫。まだ張れる)
けれど二頭目、三頭目が次々とぶつかってくるたびに、膜は目に見えて薄くなっていく。王都の結界を一年張り続けた体には、もうほとんど力が残っていなかった。
ぴしり、と。
光の壁に、ひびが入った。
「……嘘でしょ」
こんなところで。
誰にも信じてもらえず、誰にも惜しまれず、こんな森の中で、ひとりで――。
「あ、いたいた」
場違いなほど、のんびりした声だった。
◇ ◇ ◇
振り向くより先に、目の前の森狼が真横に吹っ飛んだ。
どさり、と木の幹にぶつかって、そのまま動かなくなる。
「え」
そこに立っていたのは、ひとりの青年だった。
日に焼けた肌に、袖をまくった生成りのシャツ。肩には、どう見ても畑仕事用の鍬。
茶色がかった柔らかそうな髪の下で、丸い目が少し困ったように笑っていた。
「ごめんね、遅くなって。怪我してない?」
「な……」
答える前に、残りの森狼たちが一斉に青年へ飛びかかった。
「危な――」
叫びかけたエルナの目の前で、青年がひょいと鍬を振った。
本当に、ひょい、という感じだった。畑の土を返すみたいに。
それだけで。
次の瞬間には、森狼の群れが、全部地面に転がっていた。
――いや、一頭だけ残っていた。
群れの奥にいた一番大きな森狼が、牙をむいて低く唸っている。
青年が、そちらに顔を向けた。
それだけだった。睨んだわけでも、鍬を構えたわけでもない。にこにこと笑ったまま、ただ目を向けただけ。
森狼はびくりと身をすくめ、尻尾を巻いて、悲鳴のような声を上げながら森の奥へ逃げていった。
「…………」
「よし、っと」
青年は鍬を肩にかけ直して、額の汗を手の甲でぬぐった。
「このへん、最近ちょっと多いんだよね。森狼」
「……あなた、何者?」
「俺? レンダール。この先の村で畑やってる」
「畑」
「うん。今日はかぼちゃの収穫だったんだけど、途中で抜けてきちゃった」
にこにこと笑う顔は、どこからどう見ても人の好さそうな、田舎の青年そのものだった。
(……今、何をしたの)
エルナは聖女として、何度も騎士団の訓練を見てきた。王国一と謳われた騎士団長の剣も知っている。
けれど、今のは。
「今、何をしたのかと聞いているのだけど」
「うーん」
レンダールは足元の森狼を見下ろして、首を傾げた。
「転んだんじゃないかな。足場悪いし、このへん」
「そんなわけないでしょう!」
「あはは、元気だね。よかった」
笑われた。
公爵令嬢である自分が。聖女である自分が。村人に。
エルナは泥だらけのドレスの裾を握りしめ、精一杯背筋を伸ばした。
「……助けていただいたことには、礼を言うわ。でも勘違いしないでちょうだい。あのくらい、私ひとりでもなんとかできたのよ」
「そっか。すごいね」
「…………」
まったく信じていない顔だった。
ふいに、レンダールがその場にしゃがみ込んだ。
「ちょっと、何を――」
「動かないで」
静かな声だった。
さっきまでと同じ柔らかい声なのに、なぜか足が動かなくなる。
レンダールはエルナの足首をそっと持ち上げ、かかとの取れた靴を見て、それから擦りむけた肌に目を落とした。
「……痛かったね」
ポケットから出した手ぬぐいで、手際よく足首を巻いていく。断る隙もなかった。
「はい、できた」
立ち上がったレンダールは、もういつもの顔で笑っていた。
「ところで」
レンダールが、地面に転がったトランクをひょいと拾い上げる。エルナが両手でよろめいたそれを、片手で、軽々と。
「エルナ様、だよね。王都から来た聖女様」
「……っ、どうしてそれを」
「村に知らせが来てたんだ。今日あたり、偉い人が来るって」
なんでもないことのように言って、レンダールは森の奥を指さした。
「村、こっち。歩ける? 靴、壊れてるみたいだけど」
「歩けるわよ!」
「無理しなくていいのに。抱えていこうか?」
「結構です!!」
真っ赤になって叫ぶと、レンダールはまた楽しそうに笑った。
◇ ◇ ◇
森を抜けた先にあったのは、小さな村だった。
石垣に囲まれた畑。煙突から煙を上げる木造の家々。遠くで鳴く山羊。王都の屋敷の庭より狭いかもしれない。
「リンデ村へようこそ。何にもないとこだけど」
「……本当に何もないわね」
「でしょ」
皮肉のつもりだったのに、レンダールは嬉しそうに頷いた。
村の入り口では、いかにも頑固そうな白髭の老人が腕を組んで待っていた。その後ろには、恰幅のいいおかみさんと、遠巻きにこちらをうかがう村人たち。
「村長のガルドさん。ガルドさん、聖女様連れてきたよ」
「お、おう……ご苦労……じゃなかった。よ、よく来なさった」
村長は、なぜかレンダールの方をちらちら見ながら咳払いをした。
「しばらく、村で面倒を見させてもらう。住まいは……」
「俺の家の隣、空いてたよね」
レンダールがにこっと笑った。
村長の顔から、すっと血の気が引いた。
「……そう、だな。レンダールの家の隣が、ちょうど空いておる。うん。そうだ。そうだった」
「?」
なぜだろう。村人たちが一斉に目をそらした気がした。
「それと、エルナ様。これ」
レンダールがポケットから取り出したのは、細い革のチョーカーだった。飾り気のない焦げ茶色に、小さな銀の金具がついている。
「なにこれ」
「迷子札。この辺は森が深くて魔物も出るから、よそから来た人はつける決まりなんだ」
「……田舎の変な風習ね」
「うん、変だよね。でも決まりだから」
エルナは渋々受け取ろうとした。けれどレンダールはすっと手を引いて、少しだけ首を傾けた。
「金具が後ろにあるから、自分じゃ難しいよ。ほら、髪あげて」
「自分でできるわよ」
「いいから」
柔らかい声だった。
柔らかいのに、なぜか逆らえなかった。
気づけばエルナは、言われるまま髪を持ち上げていた。首の後ろに、少しだけ硬い指先が触れる。
かちり、と小さな音がした。
金具に触れた指が、ほんの一瞬、離れずに留まる。
首元がかすかに温かくなった気がしたけれど、きっと夕日のせいだろう。
「……外し方は?」
「さあ。俺も知らないんだよね」
「は?」
絶対に嘘だ。睨みつけると、レンダールは楽しそうに目を細めた。
「似合ってるよ。すごく」
「~~っ!」
言い返す言葉が見つからないうちに、レンダールは「じゃあ、家に案内するね」とトランクを持って歩き出してしまう。
その背中を追いかけながら、エルナは首元のチョーカーを指でつまんだ。
(何なの、あの村人……!)
だから、エルナは気づかなかった。
後ろで村長が、膝から崩れ落ちかけたことにも。
宿屋のおかみが「あらあら」と頬に手を当てて笑ったことにも。
そして前を歩くレンダールが、誰にも聞こえないくらい小さな声で、
「――やっと、捕まえた」
と、呟いたことにも。
◇ ◇ ◇
その夜。
森から遠く離れた街道で、王都へ戻るはずの護送の馬車が止まっていた。
車輪がひとつ、外れている。馬は一頭もいない。
御者台の兵士は、がたがたと震えながら、目の前に立つ青年を見上げていた。
「な、なんだ、お前……ただの村人じゃ……」
「うん。ただの村人だよ」
月明かりの下で、青年はいつもと同じように笑った。
「ひとつだけ、聞きたいことがあって」
一歩、近づく。
それだけで、兵士の喉がひゅっと鳴った。
「――あの人を森に置いていけって言ったの、誰?」
笑顔のまま。
声だけが、ひどく静かだった。




