第3章『中学1年生・下』
(1953年)
次の日、瑠璃が学校に着くと統が廊下を掃除していた。
「あら、朝から掃除なんて偉いじゃない」
皮肉を込めて統に云ってみる。すると統は、
「うっせえ」と云って、瑠璃から視線を逸らした。瑠璃はそんな統がなんだか面白く思えて、
「昨日帰ったのが悪いのに」とさらに追い討ちをかけた。
「しゃあねぇだろ? あの時は怒りで何も見えてなかったんだ。あの財閥カップルのせいでな!」
「くふふっ」
瑠璃が笑った。なんだよと不満そうな声が聞こえた。
「いいや、なんにも。あ、一つ教えてあげる。帰り道に八重と渉と考えたんだけど、気分を害しているのは凛ちゃんじゃないと思うよ」
瑠璃がそう云うと、
「どういうことだ?」と統が云った。瑠璃は統に背を向けて云った。
「あの主語は三井だったってこと」
そしてスタスタと歩き出して教室へと入った。
そう云われた統は、ふぅんとだけ云って箒で廊下をサッサと掃いた。
教室に入った瑠璃は自分の席に荷物を下ろすと、すぐに窓際のある席に向かっていった。その席には、小柄で可愛らしい顔をした瑠璃と同じセーラー服姿のお嬢様が座っていた。彼女は窓の外を眺めるわけでもなく、机の上に置かれた閉じた教科書の表紙を、ただジッと見つめていた。一体彼女はなにをしているのだろう。瑠璃はそんな感想を抱いた。
「凛ちゃん」
瑠璃はおっかなびっくり声をかけた。凛は瑠璃を横目で見た。瑠璃の眼には、凛がとても冷ややかな目をしていたように映った。
「あ、えっと。今話しても、いい?」
ぎこちなく瑠璃が口を開く。瑠璃には凛からなにかオーラのようなものを感じていた。そもそも、瑠璃は凛を得意としていない。その上こうもオーラのようなものを放たれるとビクビクするのも無理はなかった。
「いいですけど……」
凛は小さな声で返答をした。そして辺りを見て、
「私の話も聴いていただけますか?」と云った。その一言は瑠璃の不意を突いた。
「えっ?」
とだけ云って固まる瑠璃を見て凛が笑った。
「いいのです。お気になさらず。私の話はまたの機会でもいいので、まずは楽にしてください。私、そんなに怖くない人間だと自負していますので」
凛がそう云って、初めて瑠璃の顔を正面から見た。もちろん瑠璃も初めて凛の顔を正面から見る。その顔は美しい笑顔で輝いていたが、裏に微々たるあどけなさを備えていた。それを見て、瑠璃は自分の心が和んでいくのを感じた。それと同時に、悔しさに駆られた。彼女の笑顔に堕とされたことに気付いたからだ。
(なるほど。こうやって男子どもはこの子に堕ちていったのね。分からなくもないわ。この笑顔は反則的だもの)
そう思った瞬間、瑠璃の中にあった凛への苦手意識がふと消えた。瑠璃は凛を真っ直ぐ見て、
「ごめんなさい。あたし、あなたのことをだいぶ勘違いしていたみたい」と云った。凛はクスリと笑って、
「いいえ。きっとそれは勘違いではありませんよ。もし今勘違いだったと感じたのならそれは違います。あなたは今、勘違いに陥ったばかりなのですよ」と云った。瑠璃は凛をジッと見た。凛は笑っていた。表も裏も無いような笑顔を浮かべ、瑠璃を見ていた。
「……分からないわ」
瑠璃は呟いた。正面の笑顔が困惑に変わった。
「なにがですか?」
「あなたのことよ」
「そうですか。それは残念です」
「……はあ」
瑠璃は疲れを感じた。きっとこのお嬢様のことを知るにはとても時間がかかる。瑠璃は瞬時にそう感じたのだった。
「ああ、そう。それで」
瑠璃はもう諦めて本題に入ることにした。このままやり取りを続けたのなら、完全に凛のペースに呑まれると思ったからだ。
「あなた、三井のことをどう思ってるの?」
「……」
その質問を聞くとすぐに、凛は瑠璃から目を逸らした。
「私は……」
そう云って、首を横に振った。そして外を眺めながら、
「深入りは勘弁してください」と弱々しく答えた。
「深入りなんじゃなくて」
凛のその煮え切らない態度が逃げているように思えて、瑠璃は少しばかり苛立った。
「ああ、もう! あのね、正直に云うわ。あなたと三井を見ている限り、あなたは三井を拒んでいる様子はない。でも一緒にいて楽しそうというわけでもない。そういう中途半端な態度は人に嫌われるの。あなた、女子の中ではかなり嫌われているわよ? 知ってる?」
瑠璃は優しい嘘がつけない女であった。何かに優しく包むこともできない女だった。所謂不器用なのだ。その言葉を聞いて、凛は目を瞑った。
「わたし、」
凛の一人称が私からわたしに変わる。その声は細く震えていた。瑠璃は今になって失敗したと感じた。
「わたし、わたしは……! わたしだって、わたしにも!」
凛がバッと目を開いた。大粒の涙が流れ落ちた。その声は次第に大きくなって、最後の叫びは教室に反響した。清楚で大人しいお嬢様がそんなに大きな声を上げたことに、周りにいた生徒の視線が集まる。凛はそれに気付いて慌てて席を立ち上がった。涙の粒が瑠璃の頰に落ちた。
「ごめんなさい。失礼します」
そう云って、凛は瑠璃の前から去った。
「ちょっと!」
瑠璃がそう云って凛を追おうと廊下に出たそのとき、
「おい、クズ。てめえ凛を泣かせやがって!」という声がした。廊下の先、数メートルのところに信之がいた。その裏に隠れるようにして泣いている凛。
「俺の妻に手を出すとはいい度胸してんなぁ?」
迫り来る信之。彼は大柄だった。女子の中でも身長が高い方の瑠璃であったが、さすがに彼には達しなかった。
信之が瑠璃に近づいて、瑠璃の、後ろで一つに結んだ長い茶色の髪の毛を引っ張った。
「痛いっ!」
瑠璃はそう云ったが、
「泣かせたんだったらお前も泣け! 同等な罪を味わえ!」と信之が云って、さらに強く引っ張った。
「いたいいたいいたいいたい……!」
瑠璃は自分の目に意識せずとも涙が溜まってくるのを感じた。いつの間にか周りには人集りができていた。これではまるで見せ物だ。大衆の前で泣くところを見られる。それは嫌だった。瑠璃は人前で泣きたくなかった。誰しもある羞恥心なのかもしれないが、とにかく人前で泣きたくなかった。しかし、このままでは泣いてしまう。そう思うと、意思に反して急にまた涙がこみ上げた。
「離してってばぁ!」
瑠璃は泣くのを限界に堪えてそう訴えた。
「しぶといなぁ、このゴミ」
信之がそう云って、髪の毛を引っ張っていない方の手を握りしめた。そして瑠璃の腹を殴った。
「うっ」
瑠璃は痛さのあまりついに涙が溢れた。最初は一滴。しかし次第にそれは止まらなくなって、どんどんどんどん頰を垂れた。声だけはなんとか抑えようとして、結果的に噦り上げるような形になってしまった。
「おお、泣いた泣いた」
信之はそう云って、瑠璃の髪から手を離した。そして、ヘナヘナと座り込みそうになっている瑠璃の顔を、足で思いっきり蹴り飛ばした。瑠璃は1メートルほど後ろへ飛んだ。その瑠璃に慌てて駆け寄る統。
「あっはは、鈴川瑠璃! なんだその様は。滑稽だな。まあせいぜい後悔しな。石井! そんな奴は放っておけ。お前は廊下の掃除をしているのがお似合いさ」
そう云って凛に、
「さあもう大丈夫だぞ」と云ったその瞬間だった。
パチンッ!
信之の頰を凛が叩いた。俯いて、でもその目からは涙がポロポロと落ちていた。
「え……?」
信之にはなにが起きたのかが分からなかった。横を向いた首をゆっくり戻して凛を見る。すると凛は、カッと目を見開いて、怒りに満ちた表情で信之を鋭く見た。そして、
「バカッ!」と叫んだ。顔を真っ赤にして、声を荒げて、廊下に何度も反響するほどの声で叫んだ。そして信之の胸を両手で押して、彼を廊下に張り倒した。廊下で見物していた生徒は全員驚きを隠せなかった。男子の中でも大柄な方の信之を、女子の中でも小柄な凛が倒したのだから。
廊下に倒れた信之に凛が馬乗りになる。そしてペチペチと頰を叩いた。一回、二回、三回……。一回に叩く強さはそれほど強くはなかったが、塵も積もれば山となるの原理で、信之の頰はだんだんと赤く腫れ上がっていく。
叩きながらも凛は泣き続け、そしてこう叫んだ。
「わたしは泣かせられたんじゃない! わたしが泣いたの! 恥ずかしくて、居ても立ってもいられなくなって、教室を飛び出したの! それをあなたに見つかって、あなたの早とちりで間違った解釈をして、あなたが鈴川さんを泣かせたの!
わたしはあなたに毎日のように泣かせられてる! あなたはわたしに今まで何回暴力を振るったの? 言葉も含めて何回痛めつけたの? わたしはあなたに何度も泣かせられた! それは言い切れる!
あなたは、泣かせたんだったら泣いて償えって考えをしてるのよね? じゃあわたしも、今まであなたに泣かされて我慢してきたけど、それももう今日でおしまい! あなたが泣くまでわたしはあなたを叩き続けてやる! あなたが泣くまで、ずっとずっと叫び続けてやる! 死ぬまで泣かないんだったら、あなたが死ぬまで叩き続けてやる! 死んでも泣かないなら、わたしは死んでからでもあなたを叩いてやる!」
凛がそう云って叩いている間に信之は既に泣いていた。だからもう凛が叩く理由は無いのだが、泣いていて涙で周りが見えていないものだから、凛は手を止めることは無かった。
「おい、佐倉! なにしている!」
凛が叩くのをやめたのは、それから数分後に先生が来たときであった。先生が目にした状況は恐ろしいものであった。信之に跨って彼の頰を叩き続ける凛。その奥で統に抱えられる瑠璃。そして瑠璃を抱えている統の目は怒りに満ちている。
「お前らぁ! 退学になりたくなければ一時間バケツ持って廊下に立ってろぉ!」
困惑の表情を浮かべた先生だったが、とりあえず廊下に立たせておけば良いだろうという判断に至ったのかは知らないが、怒号と表情が釣り合わないままそう云った。
「なんで俺まで立たされるんだよ」
下校中、統がそう云って石を蹴った。石はコロコロ転がって、側溝にチャポンと落ちていった。
「仕方ない。三井のせいだ」
渉がそう云って、統を宥めた。
「にしても意外だった。凛ちゃんがあそこまで変わるなんて」
八重がそう云う。
「まあ、あの子も色々悩んでるんじゃないの?」
瑠璃がそう云ったら、
「そういやお前、お嬢様とは接触できたの?」
と渉が瑠璃に訊いた。
「……した結果があれよ」
「どうしてそうなった……」
それは誰もが思う疑問であろう。瑠璃はため息を吐いて、その前にあったことを全部伝えたのだった。
それを聞いた渉は、
「じゃあきっと隠したことが叫んだ内容だな。暴力を受けていたことで誰かに助けを求めたかったんだろ」と推測を立てた。
「どうだかね。まあ、また機会があったら訊いてみる」
そう瑠璃が云って、この話はひとまずこれで終わるのだった。
そのままその話は忘れ去られた。一同が再びその話を思い出すことになるのはそれから一年後のことであるが、今はまだ先の話である。
その年の暮れ。瑠璃が風邪を引いて学校を休んだ。下校中、八重が渉と統にふと云った。
「瑠璃ちゃんにプリントを渡すように先生から託されたんだけど、私この後すぐ用事があるの。だから、二人のどっちか届けてくれないかな?」
統と渉は少し迷いを見せた。と云うのも、二人は瑠璃の家を知らないのだった。
「ああ、えっと。家の場所は、私と別れてから三つ目の十字路を右に曲がって、左手側の五軒目の家よ!」
八重は二人の知りたいことをぴしゃりと言い当てた。そして、
「それじゃ、私こっちだから!」と八重が走り去った。
「相当急いでるな、ありゃ」
渉がそう云うと、統は渡されたプリントに目を落とす。
「届けないで、俺たちが解いて提出すれば……」
「アホか」
統の考えは渉に一蹴された。
「字でバレる」
そう云われて、統はそうだったと気付くのだった。
「渉。お前今日、夕飯の買い出しじゃないか?」
統が気付いたことは、全く関係ないことであった。
「あ、忘れてた。ってかお前思考回路どうなってんだ?」
最後に渉に突っ込まれたが、統はそんなの気にしていない。
「別に。普通の人間だろ」
そう返して、
「じゃあ、夕飯頼んだぞ」と渉に云い放って瑠璃の家へと歩き出した。
瑠璃の家に着いた統は、ドアをゴンゴンと叩いた。中からは誰の声もしなかった。
「すみませーん、鈴川瑠璃さんいますかー? 石井統でーす」
今度は声をかけながら、ドアをさっきよりも激しくゴンゴンした。すると中からトトトと音がして、やがてガチャリと鍵が開いた。
「うるさいわよ、ゴンゴンゴンゴン。あたし寝てるんだから静かにしてよね!」
だるんとした着やすそうな寝巻き姿で、いつもは後ろで一つに結んでいる長い茶髪の髪を解いている。髪の毛はボサボサだった。目は今にも閉じそうなくらい細い。
「ほんとに寝てたんだな」
「なに疑ってんのよ」
「いや別に」
統がそう云って、少し目を逸らしてから、
「しっかり飯食ってるか?」と訊いた。
「ご飯なんて面倒で食べて無いわよ」
と瑠璃が答えた。すると瑠璃のお腹がグーと音を立てた。瑠璃は顔を赤くした。それを見て統が、
「なんか作ってやる。上げろ。てか上がるぞ」と云って、瑠璃が許可を出す前にズカズカと家に上がった。
「ちょっと統! あんた、ここ、あたしの家なんだから……」
と瑠璃が云って咳き込んだ。
「お前は休んでろ。食材勝手に借りるぞ」
統がそう云って、台所へと立ち入った。そして目の前に広がった光景を見て呆然と立ち尽くした。
その台所は、異常なくらいに片付いていなかったのだ。
「……お前、これなんだ?」
散らかったコンロの上に無造作に置いてあるフライパンの上に乗っかった、黒い丸焦げの物体を指で摘んで持ち上げて統が訊いた。
「ああ、それ? 見て分からない?」
瑠璃がそう云って統を見た。
「分からないから訊いてんだ」
「うっそだぁ。どっからどう見ても目玉焼きじゃない」
統は絶句した。
「嘘……だろ?」
「ほんとよ。お母さんみたいに綺麗に白と黄色にならないけど、作る人が違うからよね」
統はもう何も云えなかった。黙ってその黒い物体を生ゴミ入れに入れた。
「……お前、親はいつ帰ってくる?」
瑠璃にそう訊くと、瑠璃はしれっと、
「ん? 一週間帰ってこないけど?」と答えた。統はまたも絶句した。
「いつからいない……?」
「一昨日」
「皿洗いは……?」
「一度も」
「洗濯は……?」
「籠に入れた」
「掃除は……?」
「全く」
もうなにも云えなくなった。統は云うより動いた方が良いと思ったのだった。まず最初に、台所の片付けをザッとしてしまう。そして食材を用意してチャチャっと作れる物を作る。作り終えたら瑠璃に提供し、瑠璃が食べている間に自分は掃除と洗濯を済ませた。それを見ていた瑠璃は、意外だと云わんばかりの顔をして見せた。
「めちゃくちゃ美味しいんだけど!」
「そうか」
「驚いた。統が家事できるだなんて」
「なんだ、失礼な奴だ。俺は家事くらいできるぞ? 伊達に人の家に住んでいるわけじゃない」
そう統が云った。瑠璃は輝くような目で統を見つめた。そして、
「大人になったら、あたしをお嫁さんにしてくれる?」と訊いた。
「やなこった」
統はそう答えて、しかし最後にニヤッと笑って、
「家事ができるようになれば考えないこともないな」と云った。
「……じゃあがんばる」
瑠璃はそう云って、右手をギュッと握りしめたのだった。
冬至の近い冬の夕方。外はだんだんと暗くなり、風も強くなってきた。
「雪が舞いそうだな」
統がそう呟いて、
「帰る」と一言云った。瑠璃は玄関に見送りに出て、
「ありがと」とだけ呟いた。統はフッと笑って、
「早く元気になれよ」と云いながらドアを開けたのだった。そしてバタンと音を立ててドアが閉まった。数秒の間、しんと音が静まった。
「……なんだろ。すごく胸がイガイガする」
薄暗い玄関に取り残された瑠璃は、鍵を閉めながらそう呟いて、部屋に戻って布団に潜った。瑠璃は簡単に眠れなかった。そして胸のイガイガが一体なんなのかをふと理解した。
「もう、バカ。あなたのせいで、あたし、不治の病を患っちゃったじゃない……」
ゴロンと一つ寝返りを打った。掛け布団をギュッと握りしめ、歯をグッと食い縛った。そしてゆっくりと目を閉じた。彼女の目蓋に焼き付いていたのは、ニヤッと笑った統の顔だった。




