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八章 そして彼女は



 落ちてゆく。




私が、落ちてゆく。





もう一人の私が見ている。


ああ、私は落ちていないんじゃないのか?

だって私は崖の上から私のことを見下ろしているもの。


いや、でも、そんなのは困るの。



だって、どちらかがいなくならなければいけないから。

でも私はそれに気づけなかった。


私はいつだって、もう一人の私に助けられてきた。



彼女は私に合わせてくれた。



私は気づけなかった。



だから落ちてゆく。



気づいていて、私の代わりに苦しんでくれたんだね。



でも、もういいんだ。私達は二人で一人。




私が死んでも、『私』……いえ、『あなた』が生きてる。










――そうでしょう? セツ。



 







          ○   ○   ○







 後日、杉野雪は一人で粋の住処へと足を運んだ。


「その後、理子ちゃんとはどう?」


 英人が紅茶を出しながら笑い掛けると、雪は少しだけ微笑んで答えた。


「まだ……何とも言えない。彼女とは、もう一度やり直さなくちゃいけないから」


雪が紅茶に口をつけると、粋が奥の部屋からコツコツと靴音をたててやってきた。


「それで、今日はどうしてここに来た」


粋の言葉は何か確信めいた響きをしていた。

「すべて、言っておきたいと思ったのよ」

雪が強い眼差しを粋に向ける。



「ほんとうの事を」










――『仕方が無い。仕方が無いのが、私の運命だった』




セツはそう言って、ふらりと海の方へその身を投げ出した。

ユキと同じ顔で、でも今は前髪を理子からもらったピンで留めていて、ユキとは違う、セツが。海へと身を投げ出している。

ユキは固まっていた。


セツがしようとしていることが、理解できない。


どうして、どうしてセツは死のうとしている?



 

 体ががくりと動いた。閉じていた眼をおそるおそる開けると、目の前で『私』が……いや、ユキが泣きそうな顔でセツを見ていた。


セツの体は海の方へ傾いているけれど、自分の右手がしっかりとユキの両手で掴まれていた。

ユキは震えつつもセツの右手をしっかり掴んで離さなかった。

まだセツの足は地面にあったので、自分ですぐに体勢を立て直すことができた。





『何でなの? 置いてかないで!』


ユキは声を荒げた。セツは仕方が無く思い、自分が「気づいてしまったこと」について話した。


『そんなの何とかなる! 絶対何とかなるから!』


ユキは何度も繰り返した。目の前にあるのは自分と同じ顔なのに、自分には持っていない純粋な瞳で見つめてくる。



――ほんとうに? 本当に私たちは一つの存在でしかないのか? 本当に私たちは世界に認められないのか?

私が目を開けて世界を見渡せば……ほんの少しだけ周りを見渡せば、世界は変わるんじゃないのか?



セツは立ち上がった。

崖から海を改めて見ると、かなり高い。おまけに今日は天気が悪く、海は灰色で、大蛇のようにうねっている。風も強くなってきた。



『ごめん、ユキ。ごめん』

セツが俯いて言うと、その言葉が本心であることが通じたのか、ユキはほっとして笑った。


セツは崖の端から、来た道を戻りだした。

よくよく考えれば、あんなバランスの悪い崖、立っているだけで危ない場所だ。


セツの後ろ、少し離れたところをユキが歩く。


また、突風が吹いた。ユキとセツの長い髪を乱していく。


ふと、何か金属音が聞こえた。金属が岩にぶつかる音だった。


『待って!』


そのあと聞こえたのは、ユキの声だった。

ようやく視界を塞いでいた髪を手で押さえつけた時には、もうユキが崖に向かって走っていくところだった。



――髪留めがない。



セツは髪を手で押さえたときに気づいたのだが、そのときピンはすでに地面の岩にバウンドし、崖から海へ落ちようとしていた。



『それは、セツの大事なっ……』

そこまで言って、ユキは崖から落ちてゆくピンに手を伸ばした――


目の前に一面海が広がるのと同時に、強い風と浮遊感が体を襲った。


ユキはとっさに左手で崖を掴んで体を支えたが、濡れた岩肌が彼女の掌を滑らせた。

 



セツはその一瞬の事に、体が固まって動かなかった。落ちていくユキを呆然と見つめていた。



――ユキと目が合った。



ユキは驚いたように目を丸くしていたが、次第にその顔はなびく黒髪で見えなくなった。

しかし、見たのだ。長い髪の隙間から見えたユキの顔は、笑っていた。

口の両端を上げて、セツを見て笑っていた。

 





そう、死んだのだ。




『杉野雪』の片割れ、杉野ユキが死に、杉野セツが生き残った。







「『もう一人の私』……いや、『ユキ』は、落ちながら笑ってた。そのことが何を意味するのか、私には分からない。私にはもう居場所なんて無いのに。ユキの方が、生きていくのにふさわしかったのに」


 雪――いや、セツは、カップを持った手に力を込めた。


「私はユキへの償いとして、『ユキ』として生きていくことを決めた。だから、死んだのはユキではなくてセツなんだ」


セツの表情はどこか疲れているようにも見えた。生きる意味も見出せず、ただぼんやりとしているようだった。


 そっと、そばに英人が立つ。


「ユキさんはさ、嬉しかったんだよ。君が生きている事が。大好きな君が、生きている事

が。だから彼女は最後に笑ったんだよ」


セツは弱々しい声で反論した。


「適当なこと言わないで。私はね、ユキが憎いときだってあった。でも、姉妹だから、どうしてもユキを憎む事なんてできなかった。ユキだって、きっと私のことを憎んでた。私さえいなければ、自分が本当の『杉野雪』なのに。って」

「君はさ、作文……書いた?」


英人がポツリとそんなことを口にした。

セツが不思議そうな表情で英人を見上げる。



「これは、きっと彼女からの君へのメッセージだよ」


すっと、英人は何かをテーブルの上に置いた。それは、茶封筒に入った文集だった。



『  私は、毎日の学校生活が楽しいです。

   

   私には、いつも傍にいてくれる人がいるからです。

   彼女と私は似ていますが、彼女と私は違う人間です。

   

   彼女を見ていると私は鏡を見ているような気持ちになりますが、彼女と

   は別の人間である事を私は分かっています。

   

   だからこそ、彼女がとても愛おしいのです。

  

   世界で私に最も近くて、最も私と違う。

   泣き虫な私は彼女がいたからこそ、今まで生きてこれたのです。

   でも、彼女は強いので、私をたよってはくれません。

  

   私はドジなので、彼女を支えるほど強くはありません。

   だからこそ、私はいつか、彼女の役に立ちたいのです。

   私のために「今まで」を使ってくれた彼女のために、もし私が何かでき

   た時がきたら、きっと私は嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて、言葉になら

   ないと思います。

   

   私たちは、二人で一人です。

   

   私は、強がりな彼女を支えるために一緒に生まれてきたんです。 』







 文集の文字が滲んだ。

手で持たれた文集の端が、くしゃりと歪む。

 

「ユキ……」

セツの肩は震えていた。長い黒髪が彼女の顔を隠している。


そのままセツは、文集を顔に押し当てた。


「ユキはちゃんと分かってたんだ。私達のこれからが、とても困難なものであること。でもユキはちゃんと目を開けて、世界を見ていた。目を逸らし続けていた私の代わりに、全てを見ていた。そして、生きていこうとしてた。……ユキは、生きてた。確かに、私の隣にいたのよ」




 しんとした室内の中で、セツの泣き声だけが、静かに響いた。










        ○   ○   ○










 英人と粋は、建物の外まで出て、去っていくセツの後姿を見送った。

「あの子はこれから、杉野ユキとして生きていくんだな……」



粋は腕を組んだまま、彼女に背を向けて歩き出した。


「彼女はそれを選んだ。敷田理子にもセツではなく、ユキとして接しなくてはならない。それが、彼女が自分に科した罰だ。それが、彼女の片割れだった者の命の重さだ」


英人もその後ろを歩き出したので、粋は少し歩みの速度を緩めた。


英人に背を向けたまま、静かに言う。

「重すぎるほど誰かを思い、重すぎるほど誰かに思われる。それが、人の命の重さ」



英人は驚いて粋を見たが、粋は澄んだ目でただ前を見ていた。


「……本当の依頼人はもしかしたら敷田理子ではなく、杉野ユキだったのかもしれないな」

「え?」

「杉野セツの片割れだった杉野ユキが、敷田理子を僕らの元へ導いたのかもしれない」


粋の言葉に、英人は静かに微笑んだ。


「……粋の言う『常世の掟』ってヤツはさ、そんなに冷たいものじゃないと思うんだ。『同じモノの存在を認めない。同じものが存在した時点で、そのモノは常世に認められない』でも、これってさ、『この世には同じモノなんて一つも無いよ』って言ってるようにも取れない?」


 英人の言葉に、粋は少し目を丸くしたが、英人はその変化に気づかずに、粋のほうに人差し指を立ててにっこりと笑った。


「つまりは、ドッペルゲンガーとも友達になれるかもしれないってコト!」


英人がそう言うと、粋は驚いたように何度か目を瞬いたあと、小さく肩を震わせながら口元を手で覆った。


そしてそのまま英人に背を向けると、早足に先に歩いていってしまった。


背を向けたままの粋の押し殺した笑い声が小さく聞こえ、英人はどうして粋が笑っているのだろうと思いながら首を傾げ、答えが浮かばないまま粋の後を追って歩いていった。




 

粋は建物に入る寸前で、ふと空を見上げた。しかしすぐに英人のほうへ視線を向ける。


「うむ、今日はこのままおでんを買っていこう」


粋は楽しそうに目を輝かせた。


「あ、おでんブームまだ続いてたんだ」

「当然。あぁ、そうだ藤巻、僕はいいことを考えたぞ。お前の実家のパン屋の新商品は、おでんパンだ!」

「……ごめん、それ超まずそう」

「何っ!? コロッケパン、ヤキソバパンがあるのならおでんパンもありだろう!」

「え、じゃあ中身にはおでんの具の何を入れんの?」

「……大根……とか」

「それ、結局大根パンじゃん」

「むう……検討が必要だな……」

粋が真剣に考え込むので、英人は笑いを堪えた。

 





――その時ふと、英人の横を風が通り抜けた。





潮のにおいがした。




突然、先日総太からもらった髪留めをポケットに入れていたことを思い出し、手でポケットを探ってみると、何故かピンは無かった。



何もない掌を見つめていると、掌に何か冷たいものが当たった。

空を見上げると、空は晴れているのに白い綿のようなものが降ってくる。






雪だった。



とても綺麗な雪だった。






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