七章 彼女は海にいる
週末、学校も休みの日、英人は要からの電話により、海へと呼び出された。
『もしもし? って、なんで吉野さんが俺の番号知ってんの!?』
『うるさい、粋から伝言だ。「明日、海へ来い」とのことだ。じゃあな』
『あーちょっと待って海って何処の――!?』
電話なのにメールのような短文で用件だけ伝えられ、指定された時間の十五分前に、要に聞いた場所にやってきたわけだが、まだ誰もいないようだ。
海……と言っても、隣町をちょっと過ぎたところにあるこの海は、海水浴が出来るような浜辺は無く、断崖絶壁の急な崖がたくさんある海だった。人影もまったくない。
英人が立っている崖も、バランスを崩せば海へ真っ逆さまというくらい足場が悪かった。
恐る恐る崖の下を覗いてみると、うねるような波が何度も何度も崖に体当たりを繰り返していく。
生憎今日は快晴で、風も少ない。たとえ落ちても、何とか泳げそうだった。
「いや、でも、こんな季節に海に落ちたらめっちゃ寒そう!」
一人言をこぼすが、吸い寄せられるようにして目が波から離れない。
崖に体当たりする波が、青い液体から白い泡へと変化していく。
人魚姫がその身を滅ぼしたくて、何度も何度も崖にぶつかり続けているようだ。
――泡になるまで、何度も、何度も。
「大丈夫ですか?」
突然声を掛けられ、英人ははっと現実に引き戻された。
「危ないですよ! そんなところで」
英人の腕を引っ張ったのは理子だった。休日なので私服だったが、普通の高校生らしい服装だった。
「あれ、なんでここに?」
英人は腕時計を見た。どうやら自分は五分も波を見続けていたようだ。
「私は、この間女の人が私の学校に来て、今日ここへ来るように言われたんです」
「それって、日本人形が洋服着て歩いてるような……?」
「そうです、藤巻さんと一緒に喫茶店に来てた方です」
――吉野さんが? ってことは、粋が呼ぶように言ったってことか。
「早いな、藤巻。……そして、君が敷田理子だね」
後ろから声がしたので二人が振り向くと、粋と要が立っていた。要は休日にも関わらず制服だった。
「あなたは……」
理子は疑問を口にしようとしたが、英人と要が一緒にいるということから理解したのか、それ以上は何も言わなかった。
粋が三人を連れて行ったのは、さらに人の気配のない、崖の上だった。さっきより崖が高くなっていて、海は遥か下にある。
「粋、こんなとこに何の用があるんだ?」
英人が口を開く。四人の間に流れる微妙な沈黙に耐え切れなくなったのだ。
「彼女の依頼を解決させようと思ってね」
粋はその辺の大きめの岩に腰を下ろした。
「解決って……粋、杉野セツを見つけたってこと……」
「本当ですかっ? ほんとうに……本当に見つけたんですか? セツに会えるんですか?」
英人の言葉を途中で遮って、理子は食いつくように粋に向かって歓喜を帯びた瞳を向けたが、粋は反して目を逸らした。
顎に手をあて、何か考える風にしたあと、少し間をとってから答えた。
「それは不可能だ。君の友人であった『杉野セツ』を連れてくることはできない」
粋は理子の方を見据えて、まっすぐに言い放った。
「率直に言おう。杉野雪はすでにこの世には存在しない」
○ ○ ○
「セツ、理子においしいスイーツのお店教えてもらったの。今度一緒に行かない?」
「ダメだよ、ユキ。それはできないだろ?」
『彼女』はいつになく厳しい口調で拒否した。
「杉野夫妻にその事がバレたら、ここにはいられなくなる。そうしたら二人で行く当ても無く、途方にくれてしまうよ。だから今は我慢しなくちゃ」
『彼女』が真剣に言うので、私は何だか自分がとても悪い事を言ってしまったような気持ちになって、少し俯きながら「ごめん」と謝罪した。
「ああ、ごめん。別に強く言うつもりはなかったんだけど……」
つられて『彼女』まで俯く。こういうとき、私達は不便だと思う。
「じゃあ、大きくなったら。ね? 高校も卒業して、この家から自立したら、絶対一緒に行こうね?」
私が無理やり小指を突き出すと、『彼女』もはにかみながら自分の小指を出した。
「なんか、小学生みたい」
「悪かったわね、子供っぽくて」
私は『彼女』と同じ顔の頬をぷうっと膨らませてみせた。まったく同じ顔が、そんな私を笑いを堪えつつ見ている。
たとえ同じだとしても、『彼女』は駄々をこねたりしないし、頬を膨らませてみせたりもしない。
だって、私達は別の人間だったから。
きっと、『彼女』はそれに気づいていなかったのだと思う。
○ ○ ○
『セツは、もう死んだからです』
杉野雪の言葉を思い出す。
彼女は確かに、杉野セツは死んだと言った。
そして、粋も今、同じ事を言った。
「セツはどこにいったんですか?」
放心状態だった理子がふいに口を開いた。顔には困惑の表情が浮かんでいる。
「少なくとも、杉野セツにもう会うことは無い」
粋は目を逸らして答えた。逸らした目が、英人たちの後ろを見つめている。
「そうよ、全て真実」
ふと、声がした。
理子と英人が弾かれるように後ろを向くと、そこには杉野雪がいた。
長い黒髪に凛とした姿。少しつりあがった瞳はいつも明るいユキとは様子が違っていて、その真剣な眼差しは杉野セツを連想させた。
「どうして私がここに来たか分かりますか?」
うっすら笑って言った雪の視線の先には、英人がいた。
「……」
英人が黙ると、雪は寂しそうに目を細めて、視線を理子にずらした。
「私とセツは、気づいた時には施設にいて、私達はいつもお互いを支えにして生きてきたの。この世でユキを理解してるのはセツだけ、セツを理解してるのはユキだけ。そう思って生きてきた。
そして十四歳のとき、運命の日が訪れた。杉野夫妻が、子供を一人だけ引き取ると言ってきた。そして、施設は私達を引き取らせた。施設の人は言ったわ。『あなたたちは区別なんかつかないんだから、二人で一人の娘になればいいじゃない』ってね。笑っちゃうでしょ。私達のその後の苦労なんて考えもしない。ただ、今の自分の生活が大事だったんでしょうね。施設がなくなったら、職員だって仕事を失ってしまうんだから。そして、施設に十五人いた
子供が十三人になって、なんとか施設の経営は持ち直したわ」
理子は何も言わず、今までのことを吐き捨てるかのように語る雪の言葉に聞き入っていた。
「ユキが着ていたのは杉野夫妻からもらった制服。セツが着ていた制服は、施設からの最初で最後のプレゼントだった。部屋には鍵も掛けることができたし、家も大きかったから好都合だった。普段は二人で部屋にいて、誰かがノックをしてきた時は一人が娘として親子の会話を交わした。学校は交互に通って、もう一人の分の食事は近くの店に抜け出して買いに行ったわ」
「え、どういうこと……?」
理子が小さく声を上げた。
英人はその疑問はもっともだと思った。
理子は今まで勘違いをしていたのだ。
彼女達が、『一つの身体を二人で共有している』と思っていた。
でも、違う。彼女たちは、ほんとうは――
「粋、私には疑問がある」
突然言葉を発したのは要だった。しかしその表情には何の変化もなく、武士のような静かな気配を含んでいるだけだった。
「今まで私は敷田理子の話を聞いてきた。が、同じ姿と名前であり、一つの存在を共有しているが、二つの人格を持つ。それはつまり『二重人格』というものではないのか?」
もっともな意見だった。英人も理子の話を聞いている時はそうではないかと、確信に近い思いを持っていた。
「確かにその考えはごく自然だ、要。しかし間違っている」
粋は要の質問に答えつつも、英人と理子の顔を交互に見た。そして、雪のほうに視線を移す。
「杉野ユキと杉野セツは二重人格ではない。なぜなら、彼女らはそれぞれに肉体を所有していたからだ。顔は互いに酷似し、しかしそれぞれ別の人間である。つまりは……」
「双子」
彼女達は双子だった。
そして、普通の双子よりも特にお互いの顔が酷似していた。
「私達はこの場所が好きだったの。ほら、二人で外にいるところを誰かに見られて、杉野夫妻に私たちが双子な事がバレたら、私たちは行くあてがなくなってしまうでしょ? だから私達は絶対に外へ二人で出る事はなかった。でも、真夜中にこっそり何度か二人でここに来たの。ここは誰もいないから……」
雪は崖にゆっくりと歩み寄った。
――― どうか許してほしい。これは、仕方の無いことだから。
――― 仕方が無い、私達が二人で一人であることも。
――― 仕方が無い、私達が二人では生きていけないことも。
――― 仕方が無い。仕方が無いのが、私の運命だった。
「……セツは海に飛び降りた」
雪は崖に立ち、海を見下ろした。
「そうね、ちょうどこの場所から」
粋は目を丸くして呆然としている理子に向けて言葉を発した。
「彼女たちは『杉野雪』という一人の存在として生きてきた。今はそれでいいかもしれない、しかし、将来は? 杉野家から自立したあと、どうやって生きていく? そして何より、顔がまったく同一であった彼女らをこの世の中が認めなかった。掟として、同一であるものを認めなかった。それを生まれながらに気づいていたのは『セツ』のほうだったということだ」
杉野ユキは、それに気づかなかった。
杉野セツは、それに気づいていた。
「ユキ、本当なの? セツはもういないの?」
理子が口を開いたが、その場にへたり込んでしまった。雪は理子を寂しそうに見おろす。
「……そう、セツは死んだ。私達はいずれにせよ、どちらかが死ななければ生きていけなかったから。そして、それに気づいたのは『セツ』だった。
セツは先に気づいた以上は早いうちに自分が死のうと思った。生きたいと思ったら、何も知らないユキを自分は殺してしまうと思ったから」
雪は海に向かって一歩前に出た。
「目の前でね、落ちていったの。その時は時間が止まったみたいにゆっくりで、手を伸ばせば届きそうだった。でも私は手を伸ばさなかった。きっと私はどこかであの子のこと、死ねばいいって思ってたのよ。だから助けようとしなかった」
雪の顔はまだ微笑を帯びたままだった。
「あの日から私は呪いにかけられた。だって、あの子が落ちていくとき私を見て笑ったのよ。あの子はね、私をこの現実っていう地獄に突き落とした。今までずっと二人だったのに、今さら一人で生きていけなんて、生き地獄よ。でも、あの子は笑った。『やってやった、私の憎い片割れを、この世の中という地獄に一人ぼっちで放り投げてやった』って、笑ったのよ」
雪は目を閉じた。
理子や英人が驚いていると、
彼女は背に体重を預けた。
後ろは海だ。
雪の体は海に向かって倒れていく。
「違う!」
理子は叫び声を上げて駆け寄ろうとしたが、間に合わない。
精一杯伸ばした手は届かず、空を裂く。
指先だけが、雪の服の端に触れた。
――ふと、理子の横を風が通り過ぎた。
その風は理子の横をすり抜け、落ちてゆく雪の手をとった。
雪は突然体が引っ張られ、驚いたように目を開けた。
「セーっフ……」
手をとったのは英人だった。額には冷や汗が滲んでいる。
「離して、呼んでるの! 波が呼んでるのよ、波が……『もうひとりの私』が、私を呼んでる!」
雪がその場に座り込んだまま抵抗してその手を振り払おうとすると、英人に耳元で怒鳴られた。
「ばか! この、ばか! この季節、寒中水泳できるほど海は甘くないんだぞ!」
英人は真顔で怒鳴っているが、言っている内容は何とも間抜けだ。
理子は立ち上がって雪に近寄ると、頬をひっぱたいた。
「違う、セツはそんな子じゃなかった!」
乾いた音が潮風にのっていく。雪は驚いて目を丸くし、何度も瞬きをした。英人も驚いてその光景を見ていた。
理子は何度も首を振りながら、雪に向かって静かに言った。
「双子だったなんて……全然気づけなかった……。一度でいい、一度でいいから、三人並んで歩きたかった。簡単なことだったのに。そんな普通のことなのに、どうして私たちは出来なかったのかな。どうして、誰かが目の前からいなくならないと気づけなかったのかな」
そう言って涙ぐむ理子のことを、雪も涙を滲ませて見上げていた。
その涙は止まることなく、
波や潮風と一緒に流されて、
流されて、
流されて、
いつかきっと、青に溶けていくだろう。




