目的
ここはイクアノクシャルの三階にある、アスラに宛がわれた専用の一室。世界を育む全ての光が切り離されたその部屋では、シャンデリアに灯る魔法的な光だけが室内を照らしていた。
現在この室内に居るのは部屋の主人であるアスラと、この部屋に招かれたアスタロト配下のサタナキアだけ。彼は謁見の間の北側にある自室から近くの階段を上がり、テラスを通り抜けた先にあるアスラの部屋へと赴いていた。
サタナキアは自分で開けた扉を静かに閉める。普段なら専属のメイドが扉を開閉するところだが、この無機質な空間にいつも華を添えている二人は、今は何処にも見当たらなかった。
「サタナキア、来て貰って悪いわね」
重厚感に溢れる漆黒の椅子に深々と座ったアスラが、脚線美が艶めかしい脚を組んで柔らかく微笑む。
「アスラ様のご命令とあらば」
一礼して応じるのは、ビキニパンツをマッチョな体に纏い、シックスパックを前面に押し出した、前開きが大胆なグレーのローブに身を包む男だ。
名はサタナキア。人間の胴体から生える両脚は膝から下が鳥脚のように鋭く、背中から生えた翼が蝙蝠のように禍々しい、首から上に山羊の頭を乗せた地獄道に属する悪魔である。
「貴方は、カミュ様のご容態を知っているのかしら?」
「瀕死の重傷を負われたと」
口数の少ないサタナキアから、苦渋と憤怒が伝わってくる。
主君が重傷を負うなど信じられないことではあるが、彼の主人であるアスタロトがそう言明しているのだ。
疑う余地もない事実。だがその事実は、彼が大切にしている配下としての許容限界を遥かに超えていた。
「認識に間違いではないわ。でも大丈夫、今はお元気よ。でも……」
「でも?」
サタナキアは白目だけの瞳を鋭く光らせる。
「カミュ様がお持ちの神器である、ルキフェルの璧にはもう魔力が残ってないの」
「それほどまで過酷な戦闘だったのですか?」
「凄まじい爆発と衝撃だったこと以外、私にも判らないの」
「凄まじい爆発であったにもかかわらず、気象の変化が起こっていないということは……我々とこの大地を守る為に神器の力を解放されたと?」
何気ないサタナキアの一言に、アスラの心臓が大きく跳ねる。
なぜ自分は気付けなかったのか? 空前絶後の強大無比な大爆発だったのだから、一番近くで見守っていた自分にその余波が届かない訳がない。
アスラは自分を叱責する。主君の真意に気付けない自身の不甲斐なさに、そしてそのショックを迂闊にも表に出してしまった自分に、彼女は強い憤りを感じながら厳しく自責していた。
「その通りね……」
「それで、我をお呼びになられた理由は?」
「これはあくまでも私の独断なのだけど……増やして欲しいの」
「何を?」
アスラが発した"独断"の一言に、サタナキアの眉間へと深い皺が寄る。
ロードマスターと言えどそれが個人的な理由なのであれば、彼は下の立場であっても断らざるを得ないのだ。
だが彼女の話を聞きもしないで遮るのは、あまりに礼に欠けるというもの。彼はそう思い直して、否定の吐露を心の中に押し留める。
「フィードアバンよ」
「神器への供給ですか……」
神器の能力は蓄積された魔力により発揮される。しかし消費された魔力が自然に補充されることはない。
使った分は自分で補充しなければならないのだが、その方法とはただ一つしかない。生きとし生けるものの、その生命を奪うことだけが補充の方法なのだ。
「フィードアバンの人口は、現在や五万まで減っているようね」
「先の補充でだいぶ減りました」
サタナキアが東の空へと思いを馳せる。
「取り敢えずは倍の十万で良いかしら?」
「多くて二匹、通常は一匹ですので、目標到達まで数年は掛かります」
「まぁ仕方ないわね。フィードアバンへは、現在ベンヌが向かっているわ。ベンヌと協力しながら増やしてちょうだい」
「承知しました」
彼が保有するスキルは<支配>。その能力は女性を服従させる支配力だ。それに加えて全ての惑星に関する深い造詣をも持ち合わせている。
そう、狂気の幕開けに力を発揮したのは、探索を受け持ったアガリアレプトと、探索に陰ながら助力した彼なのだ。
「それにしても……人間とは救いようがない浅ましい生物ね。女が股を開けば、直ぐに人口が増える。簡単なものだわ」
「その通りかと」
「その場の気分で行動し、直ぐに感情的になる女。その醜悪な欲情に誘われ、鼻の下を伸ばして腰を振る男。本当に救えないわ」
「だからこそ可愛げもあるのかと」
すかさず人間を擁護するサタナキアだったが、その言葉には一切の優しさも愛情もない。
「そうね。カミュ様のためだけに存在し、カミュ様のために死んでいく彼等には、本当に感謝しかないわ」
「まさに」
見つめ合いながら微笑みを交わすアスラとサタナキア。
彼等は人間を認めない。何故ならこの地上に生息する生物の中で、最も愚かな存在が人間であると思っているから。
だがだからと言って、彼等は下等な人間を全否定したりはしない。何故なら人間達はある一点においてのみ、至高の存在である主君の役に立つことが出来るからだ。
「ただ一つ問題なのは、フィードアバンまでカミュ様にご足労頂く必要があること。そんなことでお手を煩わせるのは不敬だと思わない?」
「……」
サタナキアは言葉を発しない。だが彼も同意していることは、その表情から確かに伺い知ることが出来た。
「だから探して欲しいの。無ければ作って欲しいのだけど……」
「生命力を吸う道具ですか?」
サタナキアの一言で、アスラの美しい顔が喜悦に歪む。
「話が早くて助かるわ。ルキフグスであれば可能かしら?」
「おそらく、問題ないかと」
「じゃ、そのアイテムが見つかり次第、千人程度を間引いて実験しましょう」
「誰をご指名で?」
サタナキアから当然の質問が飛ぶ。
フィードアバンから連れ出される、希望に満ち溢れた莫迦な人間たちの処分。
彼も嫌いではないのだ。明るい未来に希望を見出した者達の表情が、狂気の宴で絶望へと変わる瞬間が。
「それは……ベンヌでしょうね」
「そうですか」
がっくりと肩を落としたサタナキアが、無念の表情で静かに目を閉じた。
彼の気持ちを思うと心が痛むアスラではあったが、ここで譲歩すると後々面倒なことになるのだ。
フィードアバンを守備するのは、あのベンヌ・オシリス。自分が殺戮に参加出来なかったと知れば、唾を飛ばして魔鉱扇を振るうことだろう。
「貴方には、また別の機会にお願いするわね」
「お願いします」
恭しく一礼したサタナキアが、話の終わりを悟って踵を返した。
そしてアスラは彼の承諾に胸を撫で下ろす。彼が承諾することを見越しての相談だったのだが、思い通りにならない可能性が無きにしも非ずだったからだ。
だがまだ予断は許されない。イクアノクシャルにはもう一人、煩いのが残っているのだ。
アスラはゴシックロリータの黒い衣装に身を包む、小憎たらしい美少女を脳裏に浮かべながら、長く深い溜息を吐くのだった。
ここはイクアノクシャルの地下三階にある、不気味なシミが蔓延る石造りの部屋の一室。窓や装飾品も無く生気さえも感じられないこの部屋を照らすのは、燭台から細やかな光を届ける魔法の火だけだ。
現在この室内に居るのはサリアとその配下であるカルラ、それと無口な兵士であるガーガイル型のゴーレムが四体。
そしてそんな彼等が見つめるのは、招かざる客である奇妙な容姿の男だ。
「さて、そろそろ楽になったらどうじゃ?」
サリアが話しかけているのは、顔面の四半分を失っても未だ息を絶やさない男。
首と四肢を固定されて一切の身動きが取れない彼は、その意識を絶望の深淵へと落としていた。
「我の前で眠りこけるなど、大したものじゃ。カルラ、起こしてやれ」
「はい。<麻痺毒解除>
カルラは一礼の後で、男へと向けて治療系の魔法をかける。
唱えたのは回復系水魔法である麻痺解除。
瀕死の状態で項垂れる男を淡い光りが包むと、麻痺により失われていた彼の痛覚が即座に蘇る。
「――う、ぅがあぁあぁぁあああああ!!」
首から上を左右へと激しく振り、開ききった口から大量の涎を撒き散らす男は、またもや一瞬にして意識を失う。
そんな彼の鼻と口は、容赦なくごっそりと抉られていた。抉ったのは男の前で微笑む美少女。抉られたのは鍛え抜かれた体に狐の頭を乗せる、この世界では"エルフ"と呼ばれる妖精だ。
「はぁ……根性がないのじゃ。話にならん」
神経が剥き出しになっているのだ。根性だけで耐えられる方が可笑しいのだが、彼女の基準に照らし合わせればそういうことになるのだろう。
問い掛けを無視し続ける男の無礼な態度に、苛立ちを隠せないサリアはその細い腕を伸ばして、目の前に垂れ下がった右腕を静かに掴んで優しく引き千切った。
「――う、ぅぎゃあぁあぁぁあああああ!!」
首から上を先ほどより激しく揺さ振った男が、開ききった口から大量の涎を撒き散らして再び意識を手放した。
彼の唯一の幸運は、激痛の後で一瞬にして気を失えること。この世のものとは到底思えない激痛に、瞬間的に襲われるだけで済むのだから。
だがその幸運も長くは続かない。何故なら、目の前の美少女がそれを許さないからだ。
「はぁ……面倒じゃ。目的を話せば直ぐに殺してやるのじゃが」
この激痛に顔を歪ませ続ける男は、魔国に潜り込んでいた諜報員の一人なのだが、彼は実に運が悪かった。
数日前に起きた大爆発の原因調査を急遽命じられた彼は、クライネスランドから爆心地へと移動していたのだ。
そのフィードアバンへ向かう彼を見つけたのは、サリアに同行していたアスタロト配下のネビロス。彼女が彼を見つけるのは必然であり必定だった。
もし外に出ていたのがサリアだけであれば、彼は見つからなかっただろう。何故なら、彼女は索敵という便利な能力など持ち合わせていないから。
だが同行していたのは索敵能力と統帥能力に長けたネビロスなのだ。見つからない方が不自然であり不可解極まりないだろう。
「はぁ……お前ら、止血じゃ。カルラはもう一度起こしてやれ」
一礼の後でカルラは麻痺解除を、ガーゴイルの一体は回復魔法を男へと向かって詠唱する。
さっきよりも精神的に重症となった男を淡い光りが包むと、麻痺により失われていた彼の痛覚が即座に蘇っていく。
「ぅぐぐ……ぐ、ぐがぁあぁぁあああああ!!」
「また意識を失ったのじゃ。はぁ、もう面倒じゃ」
再び激痛に襲われた男が、またしても一瞬のうちに意識を失う。
彼は顔と腕を大きく欠損させ、余すところなく全身に孔を穿たれ、鍛え抜かれた筋組織を無残に抉られてなお、まだ生きていた。
彼の根性が無いと嘆くのは些か酷な反応だろう。その状態にあってもまだ痛みを感じることが出来る、彼の精神力を褒め称えるべきなのだ。
「そうじゃ! 良いことを思い付いたのじゃ」
「良いこと……ですか?」
美しい顔に満面の喜色を浮かばせたサリアへと、カルラが小首を傾げて問い掛ける。
碌でもないことは間違いないのだが、どう碌でもないのかがカルラには判らないのだ。
「我と勝負するのじゃ。この亜人を殺したら我の勝ち、貴様かゴーレムの魔力が尽きたら貴様の勝ち、どうじゃ?」
「は、はぁ……」
「この亜人はソコソコ強い……かもしれぬ。直ぐに勝負が尽くことはないのじゃ」
「……わかりました」
言っても聞かない主人の性格を踏まえ、カルラは無駄な説得を早々に諦める。
無駄なことに労力を費やすほど、彼女は出来た精神を持ち合わせていないからだ。
「お前達、先ずは完全に回復させるのじゃ。終わったらカルラ、起こしてやれ」
ゴーレム達の唱えた回復魔法で、男の部位欠損が完全に修復される。
続いて痛みのなくなった彼の精神が、強制的に外道の前へと引き戻される。
「……う、うぅ」
「さて、カルラは麻痺解除を唱え続けよ。お前達は四体同時に回復魔法を唱え続けるのじゃ!」
「はい」
カルラとゴーレム達が一礼すると、美少女は醜悪な笑みを一層濃くした。
一切身動きが取れない男へと身構えたサリアは、配下達が突き出した手の先を一瞥してから叫ぶ。
「では、開始じゃ!」
その喜悦に歪んだ掛け声とともに麻痺解除と回復魔法の連続詠唱が飛び交う中、今にも折れそうな白く細く美しい鉄拳をサリアは間断なく男へと叩き込んだ。
彼は話すことも、意識を失うことも、死ぬことすらも許されない。
彼にとって永遠とも思える四半刻が過ぎたその時、彼は遂に肉体の死と精神の旅立ちが許されるのだった。