奇跡
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少女のあとを追うように、花園は花びらとなって風にさらわれていった。それと同時に、ここまで降りてきた階段や扉も消えてなくなっていた。辺り一面、ただの水面が続いている。
トロイの木馬。
この空間を、まっさらに、何もない空間に変えてしまった。
あのときのように、空間が壊れることはない。
ただ——再構築されるだけだった。
何もないなら、作ればいい。
僕たちの世界は、ここから始まるんだ。
「潤」
「ん?」
ふと、後ろから声をかけられる。振り返ると、藍華が手を後ろで組んでこちらに微笑みかけていた。その眼差しは、初めてあったときよりずっと大人びていたが、二度目に会ったときよりはずっと穏やかだった。
「ありがとね、潤。貴方がいなかったらあたし……きっとここまで来れてなかった」
彼女は恥ずかしそうに笑っている。僕はそんな彼女に対する謙遜の言葉を口にしかけてやめた。
「僕も、君がいなかったらここまで来れなかったよ。本当にありがとう。それに——雨帝も」
隣で息を呑んだ雨帝は、相変わらず薄い笑みを浮かべていた。いつまでも飄々として人間らしい。そんな雨帝が驚くのは、結構珍しいことだった。
足下の水面が小さく揺れる。
「君との約束、絶対に果たすよ」
「おや、ちゃんと覚えてたんですね」
おちょくるような口調で雨帝は不敵に微笑む。藍華は何のことだか分からないというように僕と雨帝を交互に見て不思議そうな顔をした。
「約束?」
「私と潤の秘密ですよ……。ね、定数」
雨帝は悪戯っぽい笑みを浮かべて、人差し指を唇へと当てた。どうやら、藍華が眠っていた時のことは、秘密にしようということらしい。僕はこんなときにまでお茶目な雨帝にほんの少しの寂寥感を抱きつつ、なんだか緊張が解けて一緒になって笑った。藍華はからかうように笑っている僕らに頬を膨らませつつ、上目遣いにこちらを見ている。なんだかいじめているみたいだ。けれど、あの約束は、僕たち二人だけのものにしておきたかった。
「そうだね」
藍華の質問に、僕たちは顔を見合わせて笑った。藍華は首を傾げると、そのままそっぽを向いてしまった。
その瞳が見開かれる。戸惑うような、理解できないものでも見ているような視線は、この空間内のある一点を見つめていた。
「ね、潤……あれ……」
藍華が指差す方を、僕と雨帝はほぼ同時に視界へと入れた。理解したのは、きっと雨帝の方が先だったと思う。僕にはそこにあったものがなんであるか、すぐには理解することができなかった。
そこにあったのは、ドアノブだった。ドアはない。ただ、ドアノブだけがそこにあった。僕はわけが分からなくなって、そのまま数秒硬直した。ドアノブというのは、ドアがあってこそのドアノブなのではないだろうか——などと、意味のない思考が巡り回る。そして数秒間見つめ続けて、ようやく気づいた。
ドアノブのあるあたりの空間そのものが、扉になっていた。
「あれ……もしかして外に繋がってたりするかなぁ?」
すねたような口調で呟きながら、藍華がドアノブへと近づく。扉だと思われる付近には亀裂のようなものが走っていて、特に何かの仕掛けがあるわけではなさそうだった。僕と雨帝も藍華のいる方へ移動する。
「とりあえず開けてみよう。仮に外に繋がってなくても、なにかのヒントにはなるはずだよ」
「迷っていても仕方ありませんし——後のことは、開けてから考えましょうか」
隣で藍華が頷く。ここに来て、ようやく閏年計画が安定したことを感じた。そして、おそらく、この扉が外に繋がっていないことも、何となく分かった。閏年計画はまだ達成されていない。この扉を開けて初めて達成されるような、そんな予感がした。
「……開けるよ」
息を呑む音が聞こえてくる。思い出すのは、一番最初にドアを開けようとしたとき、雨帝と出会った防音室での出来事だ。あのときは、ドアを開けようとドアノブに触れた瞬間、黒い影に襲われた。また似たようなことが起きないとも限らない。僕は周囲に警戒しつつドアノブに手をかけた。何も起きない。僕はほんの少し安心して息を吐いた。二人もほぼ同時に、深く息を吐いていた。
そのまま、力を入れて、ドアを開ける。その先には、何かしらの空間が広がっているようだ。ドアからは微かに軋む音が聞こえてくる。それは、現実世界と大して相違なかった。
ドアが開く。発光する室内は、ここでもなければ現実でもない、全くの別世界であるかのように感じた。それはきっと、僕の中にあったこれまでの閏年計画の印象が見せた幻だったのだと思う。
扉の先にあったのは、とても小さな、花園だった。
「これは——」
先ほどの花園とは比べ物にならないほど小さな花園が、室内には広がっていた。色とりどりの花がこぢんまりとした花壇の上で静かに揺れている。藍華が教えてくれた花もあった。花壇の周囲にはいくつかの花瓶が置いてある。それらには白い薔薇が生けられていた。
「カミツレ、薔薇、勿忘草……全部、あたしの好きな花」
藍華が柔らかい声で呟く。そっと手を伸ばしかけ、ためらうようにその手を引いた。きっと、触れないことを危惧したのだろう。この空間内で触れたのは、道の途中に落ちていた青い薔薇ただ一つだった。ここに青い薔薇の木はない。触れる可能性は限りなく低く、そのときに受ける衝撃は悲しいほどに大きかった。
僕はためらう彼女の代わりに、花壇の花に手を伸ばした。止めようと手を伸ばすのが見えたが、そのまましゃがんで手を伸ばした。藍華はその場で立ち止まったまま硬直していた。
「……ねぇ、これ、触れる。これ、本物の花だよ!」
傷の残る手が触れたのは、カミツレだった。僕が入院していたとき、藍華がくれた花だ。そっと指先でつつくと、花は可憐に揺れた。感触がある。この花は、確かにここにある。
幻影ではない。
僕の言葉に、藍華は弾かれたように花へと手を伸ばした。細い指先が白い薔薇へと触れる。安心した喜びからか、藍華はそのまま泣くように笑った。そのままそっと、花を撫でる。
「あぁ……よかった。もう、ただの夢じゃない——よかったっ……」
瞳を細め、愛でるように花を見つける。彼女を見守る雨帝の眼差しは、とても優しかった。きっと本人は気づいていないだろう。指摘してみようかとも思ったが、やめた。一つぐらい、僕が知っていて雨帝が知らないこともあっていいような気がしたのだ。
「……あのさ、さっき言い損ねちゃったんだけど……ね、雨帝。あたしもね——」
「大丈夫、ちゃんと分かってますよ。この花園を見れば、流石の私でも分かりますって」
何かを言いかけた藍華を、雨帝は飄々とした口調で制止した。悪戯っぽい笑みを浮かべ、見透かしたような目を三日月型に歪ませる。こういうところは何も変わっていない。変わってはいないが、ほんの少し、照れ隠しが含まれている気がしないでもなかった。
藍華は、数秒呆然としていたが、すぐに呆れたような笑顔を見せた。とても優しい笑顔だ。始めに比べて、僕ら三人とも、少し明るくなった気がした。
「……ああ、でも、ここで私が黙りを決め込むというのは、フェアではありませんね」
わざとらしい言い回しで雨帝が言う。左手を腰に当て、右手を唇に当てて、大げさな動きで考えるそぶりをする。ふざけているのか、あるいは本当に考え込んでいるのか、僕にはよく分からなかった。それは藍華も同じようで、彼女の頭の上にもクエスチョンマークが浮かんでいるようだ。こういうところ、雨帝は多少難解な性格をしていた。
「定数、奇数。もうこの名で呼ぶこともないでしょうから、あえてこちらで呼びますけど——アナタ方には、本当に世話になりました」
ほんの少しだけ、口調が柔らかくなる。口元には穏やかな笑みと安らかな安堵が宿っていた。僕はなんだか不安になって雨帝を見つめた。もしかしたら、雨帝は消えようとしているのか——そんな予感さえよぎる。確かに、僕はまだ約束を果たせていない。かといって、雨帝をここから連れ出すという、途方もない夢を諦めるつもりもない。あの幻影の花園のように、選択次第では、実体を持つかもしれない。
僕は緊張しながら雨帝の言葉を待った。睨みつけるような、そんな目をしていたかもしれない。
「この世界に作られて——このまま、ただ事務的に生きていくのだと思っていました。つまらなさそうだと、思わなかったわけでもないですけど。でも、まぁ、私の力ではどうにもならないことだと諦めていましたからね。……諦めというのは、時に心に安寧を与えるものです」
嘲るような瞳で雨帝は笑う。事務的に生きていく、という言葉に、自分のことを思いだした。何となく生きて、何となくこなしていれば、全てがどうにかなると思っていた。つまらなくても、それで何も変わらない日常が続くなら、それでいい。そう思っていた頃がなんだか懐かしかった。
「けれどね……そうやって得た安寧よりも、アナタたちと一緒にいるときの方が、ずっと穏やかな気持ちでいられましたよ。決められたレールの上を歩く、などとよく言いますが、決められた筋書きをただ演じるだけというのも、なかなか辛いものですね」
今度は、照れ隠しのような笑顔を浮かべる。今までに見たことのない表情。僕は雨帝が何を伝えようとしているのか、計りかねていた。
「私は荒井雨帝。それ以外の何者でもない。そして、藍華、潤。アナタたちも、たった一人の存在だ。そのことを、忘れてはいけないよ」
そういって雨帝は、柔らかく微笑んだ。
雨帝の手が、白い薔薇に触れる。
その色が青く染まるのが、見えた。
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