体温
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今にも壊れてしまいそうなほど華奢な肢体をそっと抱きしめ、藍華はしゃがみ込んだ。僕は雨帝に支えられたまま、焦点の定まらない目でその様子を見ていた。安心したからだろうか。先ほど無理して風の中に突っ込んだ疲れが今になってどっと押し寄せてきていた。これではもう、何もできそうにない。しかし、もう僕が何かすることもないだろう。
哀歌は驚いた様子で藍華を見ていた。小さく口を開いて、瞬きを繰り返している。手は力なく垂れ下がったままで、全身から力を抜いているようだった。
「泣きたいときもあるよ。辛いこともあるよ。苦しい日もあるよ。だけどね、独りぼっちじゃないよ」
一言一言確かめるように、ゆっくりと、しかしはっきりした口調で彼女は言葉を紡ぎだした。その声は凛として、力強く空気を揺らす。先ほどまで俯いていた花々は、いつの間にか上を向いていた。
そっと、盗み見るようにして、僕は雨帝の顔をのぞいた。僕の視線は緩やかに曖昧な曲線を描いて、ほんの少し、掠める。正直なところ、少し怖かった。僕には雨帝が何を考えているのか分からなかった。それは別に、僕と雨帝が別人だからとか、そういう意味ではない。雨帝は始めから——僕たちがここに来るより前からここにいた。そして、僕たちが入ってきたことでこの世界は歪み、今壊れようとしている。僕たちが災いを運んできたようなものだ。そう考えると、この世界を壊す選択をすることを、僕は積極的に肯定できなかった。
雨帝は切れ長の瞳を静かに伏せて、ほんの少し顔を傾けて藍華を見ていた。真っすぐ見つめているというよりは、横目で見守っているという感じだ。その深淵色の瞳の奥からは雨帝が何を考えているか与り知ることはできない。
「自分だけじゃどうにもならなくって、すごく困っても、支えてくれる人がいるとね、安心するんだ。一人で頑張るっていうのは、とっても大変だし、抱え込んじゃっても誰にもそうは見えなかったりするの。昔はね、孤高っていうか、一匹狼! ……みたいなのに、憧れてたんだ。でもさ、それって凄く大変で、辛くって——きっと、周りの人がうらやましいな、あの人は何でもできる……って思ってる裏で、とっても苦しいはずなんだ。——結局憧れは憧れのままだだった」
憧れ。
荒井雨帝。
確かに雨帝は、必要以上に僕たちとなれ合おうとはしなかった。必要な時だけそこにいて、僕たちを閏のもとへ導いた。その姿は、孤高とは少し違うような気がする。僕にとって、孤高というのは、もっと孤独で、全てを自己完結によって処理してしまうような、そんな存在だ。けれど、雨帝はそうではない。困った時は僕たちに頼ってくれる。力になれる時は、進んで手を差し伸べてくれる。
雨帝は、藍華にとって孤高の存在かもしれない。
けれど、僕たちにとって、雨帝は孤独ではない。
藍華はまた、静かに微笑む。何に揺らされるでもなくそっとその身を揺らす花々に、瞳を微かに翳らせた。
「そんな選択しかできない弱いあたしが、あたしはずっと嫌いだった。誰にも迷惑をかけずに、誰の重荷にもなりたくないのにって、そればっか考えてたの。そしたらさ、潤に言われちゃった。もう少し頼ってよ、って」
「あ……」
思い当たる節があった。反射的に口元を押さえて後退する。そういえばここに来る時、階段でそんなことを言った。あの時はただ必死で、なんとかしなくてはと取り乱していた。もちろん、その言葉は噓偽りない本心から出たものであったし、今でも僕は藍華に頼ってほしいと思っている。いや、頼ってほしいのは藍華にだけではない。雨帝にだって、頼られたいと思っている。しかし、それはなかなか難しいことだった。僕にできて雨帝にできないことなどひとつまみもない。
そのひとつまみは、ここから連れ出すこと。
僕は拳を強く握りしめた。
藍華は再び話を続ける。一瞬ちらりと僕を見たようだ。きっと先ほどの声を聞かれたのだろう。藍華は翳った瞳に光を宿して、小鳥がさえずるように小さく笑った。僕はなんだか無性に恥ずかしくなって顔を背ける。ずいぶん気障なことを言った。それを思い出してしまったのだ。
「びっくりした。あたしはずっと、頼らないことが正しいことだと思ってたから、頼ってだなんて言われると思ってなかったよ。ちょっと戸惑っちゃった」
頬を緩ませて、藍華は笑う。そんな彼女を、哀歌は透明な目で見ていた。その目は僕たちと初めて会った時の雨帝の目とよく似ている。哀歌は、彼女を試そうとしている。未だに口を出さないところを見ると、まだ終わっていないということなのだろう。それでも真っすぐに見つめて目をそらさないのは、彼女が答えを出すと信じているからだろうか。
その瞳は水晶玉。
映すのは、未来。
「……嬉しかった。一人で気を張って、頑張らなくっていいんだって、それってすっごく、安心するんだ。確かに、あなたならできるよって期待されてるのは、信頼の証かもしれない。でも、一人でできることなんて、ないと思うの。意識してなくっても、いつだって誰かの力を借りていると思うの」
胸に手を当て、語りかけるように言葉を紡ぐ。そっと重ねられた指先は、震えてはいなかった。ただ、呼吸にあわせて静かに上下するだけだ。
それだけのことでも、感慨深いのはなぜだろう。
「あたしは、貴方にも支えられてるって思うよ。人を支えるのは、なにも周りの人だっけってわけじゃないって、やっと分かった。……ずっと、なんにもできなくて、なんにも知らなかった頃のこと、否定しようとしてた。それで自分のこと嫌いになって……悪循環っていうのかな。そのことに、やっと気づけたんだ」
そのとき不意に、哀歌が瞳を輝かせた。親に誉められた子供のような、そんな表情。先ほどまで呪詛を吐き出していたものと同じだとは思えないほど口角のあがった口元。つられて僕も微笑んだ。喜ばしいようなむずがゆいような、不思議な気持ちになる。きっと僕と藍華を見ていた雨帝の気持ちは、こういったものだったのだろう。ほんの小さなほころびが、ちょっとしたきっかけで広がり、生まれた溝。それが埋まったとき、心は安定を得られる。それは本人だけではない。周囲の者も一緒に優しい気持ちになれる。少し前の僕だったら、きっとこんなことは思わなかっただろう。馬鹿馬鹿しいとでも思いながら、口には出さずにいたに違いない。
僕も少しは、変われたみたいだ。
なんだか少し、拍子抜けした。
「ありがとう。ずっと傍にいてくれたんだね。貴方がいたから——貴方に支えられて、あたしはここまで来れたの。……挫折しなかったら、ここまで来れなかったわ」
「そっか」
哀歌の返事は、とても質素なものだった。声が震えているわけではない。彼女は泣いてはいない。
彼女は、消えかけていた。
「なら、アイカ、ちゃんとみえるよね。もう、あたしがいなくても、あるける?」
「いなくなっちゃ、だめだよ。でも……大丈夫。ちゃんと見えてるよ」
そう言って藍華は、半透明になった哀歌の手に、自分の手を重ねた。哀歌は酷く驚いた顔をして、ぱちくりと目を瞬かせた。そんな彼女に、藍華は子供のように微笑む。
哀歌は、また泣き出した。
僕はそっと二人に近寄り、手を重ねた。はじめの頃、藍華が言った、握手。きっと彼女なら、その意味が分かるはずだ。
「アイカ」
手を——人間の手を、雨帝が重ねた。名前を呼ばれた二人は先ほどよりずっと驚いて、二人で顔を見合わせた。
視線の先で雨帝は気まずそうに、恥ずかしそうに目をそらしていた。そして、ほんの少しこちらを見やると、諦めたように水晶の瞳を見返した。
「……ありがとう、アイカ」
「っ……!」
雨帝の言葉に、哀歌はより一層泣き出した。逆に藍華は、目を輝かせて微笑んだ。重ねた手の上に、哀歌の涙が零れ落ちる。幼い顔は涙の跡でいっぱいだった。
四人で顔を見合わせる。重ねた手のひらから体温が伝わる。
温もりは、悲しみさえ溶かすように肌を伝った。
「あたし、もう行かないと」
花びらが舞う。
少女の涙を隠すように。
少女との別れを惜しむように。
「ありがとう」
少女が最後に見せたのは、無邪気な笑顔だった。
手のひらに残るのは、温もり。
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