少年
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僕が思い出していたのは遠い日の記憶で、今ではセピア色に染まってしまったものだった。それはここに来ていなかったら一生思い出すこともなかったはずの記憶で、閏が思い出させてくれたものだった。なくしてはいけないものほど些細で壊れやすく、汚い感情ほど心に影を落とすものだ。一度手に入れたのなら、絶対に離してはいけない。砂の粒のようなそれは、少し気を抜いた隙に指の隙間からこぼれ落ちてしまう。
「あのね、哀歌。僕が君ぐらいのときに、ある少年に会ったんだ。その少年とはのちのちいろいろあるんだけど……ま、関係のない話さ」
彼との日々は、決して楽しいものではなかった。当時の僕は彼の姿を視界の端に捉えては羨望するばかりで、ただそこにいるだけの傍観者でしかなかった。その少年が僕に気がつくのはずっとあとのことで、この時はまだ、僕が勝手に憧れているだけだった。
「その少年は、いつも人に囲まれていてね、みんなのリーダーだったんだ。みんな彼が好きだったし、彼といると誰だって笑顔になってた。でも、そんな彼を、僕はいつも公園のベンチに座ってつまらなさそうに見てたんだ」
「どうして?」
哀歌が首を傾げて問いかける。僕はなるべく優しい表情で微笑んだ。きょとんとした彼女の顔にはもう、悪意の色は宿ってはいなかった。僕はちらりと藍華たちの方に目を向ける。二人とも心配そうな顔をして、何か言いたげな様子で押し黙っていた。
「僕はいつも本ばかり読んでいる子供だったからさ、その輪に混ざるなんて、とてもじゃないけどできなかったんだ。それに僕、人見知りでさ。知らない人の集団に入っていくほどの勇気がなかったんだよ。だけど、窓から見ているだけっていうのも、なんだか孤立してしまいそうで、怖かった。……いつからだったかな。始めは確かに憧れも合ったんだけどね。いつの間にか劣等感だけが残って——ああ、僕、いつの間にこうなってしまったんだろうって、後悔なんてしたりするのさ」
自嘲を孕んだ言葉は、後悔して、今前を向けているから言える言葉だった。もし僕が未だに後ろを向いていたのならば、こんな言葉はきっと出てこなかっただろう。実を言うと、僕は未だにその彼のことが苦手だった。あまり素直な笑顔を向けられると、ぎょっとしてしまうのだ。ここに来たとき、彼と同じように素直に笑う藍華を見て素直に笑えなかったのは、きっと無意識に彼のことを思い出してしまったからだろう。彼は僕とは全くの正反対で、どうして一緒にいるのかも、正直よく分からない。彼といていい気分になったことは一度もない。しかし、嫌な気分になったことも一度たりともなかった。それはきっと僕だけじゃない。彼の傍にいる者たちは皆、いつだって笑顔だった。僕はどうだったんだろうと、思わないわけではない。なんとなくそこにいた僕は果たして本当にそこにいたのか、とも思う。けれど、これだけは言える。
僕は少なからず彼に救われていた。
「ユーキ?」
哀歌は不安げに呟くと、そのまま尾を引くように小さく唸った。そして、そのまま俯いてしまう。
「あたしも、ユーキ、ない。おもっても、おもうだけなの。あなたもおんなじ?」
俯いたまま、ぼそぼそと気弱げに尋ねられる。その瞳が揺れているのが確かに見えた。
「そう……僕も同じだよ。——それから僕は、ずっと後悔して、その度に仕方ないやって言ってそのままにしてきたんだ。そして、ここに来た。それで、思い出したんだ」
同じだ、というと、哀歌の顔がいくらか明るくなるのが分かった。僕はほっとして、体の力を抜いて息を吐いた。どうやら僕は笑ったらしかった。
「それから、まぁいろいろあってね、そいつはなんていうか、人なつこい奴だったから、皆から好かれてたんだ。それで、僕にも話しかけてきたこともあったよ。……僕だけじゃない。あいつは一人でいる奴がいたら、誰とだって仲良くしてた」
思い出していたのは、いつかの日の少年の姿だった。何も言えなかった僕と少年を救った彼。その隔たりはあまりにも大きい。少年の孤独な背中も、声をかけられた時の驚いた顔も、すべてが脳裏に焼き付いている。きっと永遠に消え去ることはないだろう。
その影が映り込むのは、少女の瞳。
「そういうところを見てるとね、なんだか自分自身を見ているような気がしたよ。強がって、自分は一人でも大丈夫なんだって、自分で自分を欺いてる——でも、それって、多分僕だけじゃないんだ」
僕の言葉に哀歌はきょとんとして首を傾げた。その瞳には深い闇と、静かな光が宿っている。
「ずっとね、自分が世界で一番不幸なんだと思っていたんだ。こんな辛い思いをしているのは世界中探しても自分一人で、誰にもこの苦しみを理解できない、ってね。だけど、それは間違いだった。その人にはその人の苦しみがある。全てを理解することはきっとできないけど、それでも、苦しんでいるんだってことは誰にだって分かると思うんだ。そういうとき大概、本人はうまく隠し仰せたと思っているものなんだ。誰の目にも、自分が苦しんでいるようには映ってない。だから他人にこの苦しみは理解できない……そうやって、自分を追い込んでしまう」
哀歌は、黙って聞いていた。何も言わなかった。ただ、微かに呼吸の音だけが聞こえた。
「僕はね、君にはそうなってほしくないなって思うんだ。本当に苦しいとき、苦しいって言えるようになってほしい。……無理して大丈夫だよって笑うのは、やめてほしい。でも、こうも思うんだ。苦しくて苦しくてどうしようもないとき、苦しいって言えるような、頼りがいのある人が傍にいないから、一人で抱え込んでしまうんだろうって。僕だってそうだ。僕は不器用だから、考えすぎてしまって、うまく支えることができないんだ。もっと強い人に、なれたらいいんだけど——」
「それはちがうよ」
言葉を遮ったのは哀歌だった。真っすぐな瞳は深淵の色を映し込んで、星空のように煌めいていた。僕は驚いてその瞳を見返す。彼女の瞳に映った僕は、ずいぶんと情けない顔をしていた。けれど、ここに来た当初のような引きつった、疑心暗鬼の表情ではなく、むしろ安心した、優しい表情だった。
僕にもこんな顔ができるんだ、と思った。
「あたししってるよ。そういうの、カショーヒョーカっていうんだ。でもね、ちがうよ。じぶんだとね、わかんないの。どんなにがんばってもね、まだまだだめだなぁって、おもっちゃうの。どんなにつらくても、まだがんばれるって、おもっちゃうの」
小さな手を組み、それを口元に当てるようにして哀歌は笑った。赤く腫れたまぶたはそっと閉ざされ、先ほどまで呪詛を吐いていた口は今では優しい言葉を紡いでいる。瞳には確かに藍華の面影が宿っていた。
彼女の言葉は、決して力強いというわけではなかった。むしろ途切れ途切れで弱々しくさえあった。けれどその言葉は真っすぐに、迷いなく空を引き裂いた。それはあの禍々しい風でも、虚像の花園でもない。形ある言葉だった。
誰かが息を呑むのが聞こえた。もしかしたら僕だったかもしれない。
「……君も、辛かったかい?」
こぼれ落ちた言葉は、今にも泣き出しそうな声で、我ながら驚いた。ガラスの箱庭に映り込む僕の姿は消え入りそうなほどに小さく、弱々しかった。幻影の花より、ずっと幻影らしい。そんな姿に、僕は思うのだ。
僕が目指していたものはなんだろう。
藍華が夢見た未来はなんだろう。
僕が諦めてしまったのはなんでだろう。
藍華がここに来たのはなんでだろう。
哀歌は。
「あたしには、わかんないな。あたしは、これからもずぅっとこのまま、たのしいのがつづけばいいなっておもってるよ。——ねぇ、アイカ」
そこで少女は彼女を見た。彼女は大きな瞳を見開いて、切なげに微笑んだ。そこには罪悪感のような、惜別のような感情が宿っているようだった。隣では雨帝が渋い表情で彼女を見守っている。僕も一緒になって彼女を見つめた。
彼女は自分から少女に歩み寄った。今度は哀歌が苦い顔をした。が、風は吹き荒れることなく、静かに髪を揺らすだけだった。
「ねぇ、たのしい? つらくない? くるしくない? こわくない? かなしくならない? なきたくならない? いやんなっちゃわない? ……ひとりぼっちじゃ、ない?」
一瞬、藍華の目がひときわ大きく見開かれた。しかしすぐに落ち着いて、今度は優しい瞳で哀歌を見つめた。その口元には、もう切なげな笑みは浮かんではいなかった。彼女はその笑みを少女に向けて、視線を合わせて微笑んだ。哀歌は不思議そうに眉根を寄せた後、そのままそっと瞳を閉じた。そしてまたゆっくりとまぶたを開くと、薄い笑みを浮かべて藍華を見返した。
僕はその場にへたり込んで、そのまま呆然と二人を見ていた。なぜだか、全身から力が抜けてしまったのだ。立とうにも足に力が入らない。僕は困り果てて床を見た。ガラスの床には僕の顔が映り込んでいる。ここに来てからというもの、僕はずいぶん表情豊かになった。と、思う。自分の顔を見るのはあまり好きではないが、ずっと見ているうちにいくらか平気になってきた。僕はそのまま床を見ていた。すると背後に、影が映り込むのが見える。僕は顔を上げて影のある方を見た。
立っていたのは雨帝だった。中腰のような状態で手を差し伸べ、瞳を細めている。僕には雨帝が笑っているのか、悲しんでいるのか分からない。けれど、確かにそこに雨帝がいると分かるそれだけで十分だった。
「ありがとう」
その手を取って立ち上がると、雨帝は呆れたように笑って、そっと手を離した。
雨帝の手は、人間のそれと相違なかった。
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