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閏年計画  作者: 椎名円香
第二章 奇数
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泡沫

ご閲覧頂き誠にありがとうございます。

 少女の嗚咽は、重く沈むように空気を揺らした。その声は、なんだか、とても切ない声だ。聞いていると胸が締め付けられるようだった。微かに風が揺れる。それは先ほどのような荒々しいものではなく、ひどく弱々しい、力ないそよ風だった。僕にはそれが哀歌そのもののように思えて、少しだけ感傷的になった。今、そこでしゃがみ込んでいる少女は、特別なわけでもなんでもない、ただの子供なのだと思うと、無性に泣きたくなった。夢、なんてものは、幼い頃の僕には全く無関係のもので、それがあるというだけで、すごいことのように感じた。いや、今だって、夢がある、とは言えない。僕はただ、その場しのぎの目標と取り繕った勇気で、今まで生きてきた。なあなあに過ごしてきた日々の堆積は消えない。どんなに足掻いても、そう簡単に変わるものではない。

 積み重ねた過去は、変わらないんだ。

「まぁ、アナタだって分かっているでしょうが——あえて言うことにしましょうかね」

 その笑顔は皮肉めいて、刹那げな瞳はどこか遠くを見つめていた。隣で息を呑むのは、不安そうな顔の藍華。その瞳を曇らせる影は深淵の色のようで、ただただ虚空を見つめているように見えた。おそらく、哀歌を見ていたのだと思う。しかし、遠い日の幻影の少女は、決して彼女の瞳に映ることはなかった。

「私は、アナタではありません。そして、幸村潤でもない……私は、荒井雨帝。アナタに敵愾心を抱かれる謂れはありませんよ。だって、私はアナタとは違う存在なのですから。私がアナタになれないように、アナタは私にはなれない。分かるでしょう?」

 諭すような口調は、微かに憐憫の情を含んでいるように見えた。雨帝に、過去はない。未来も——あるかどうか分からない。そんな雨帝にとってはそれがある、というだけで、十分に幸せに思えるのだろう。だから、雨帝の目には、既に持っているものをないのだと悲観しているように見えるのだ。どんなに願っても無い物ねだりにしかならない雨帝とは違い、哀歌には今までも、これからもある。

 幸せだということに気づかないことほど、滑稽な悩みはない。

「……哀歌、ねぇ、もうこんなことやめようよ。悲観してばかりで、ああなったらどうしよう、どうしようって、考えてばっかりじゃあ、進めなくなっちゃうわ。確かに、自分はかわいそうなんだって、不幸なんだって思うのは簡単だよ。でも、それじゃ、だめ。お願い、分かって……」

「うるさい!」

 叫ぶ声はもはや無機質ではなく、壊れたような、殴りつけるような声だった。彼女は実態を伴った存在ではないのだから、喉を壊す、などという可能性はないに決まっているのだが、どうしても、辛そうだな、と思ってしまう。きっと、どんなに叫んでも喉が嗄れることはないのだろう。痛切に、絶望したように聞こえるのは、きっとノイズが混じっているからだ。実際の彼女は、きっと、あんな風に叫んでいない。

 もっと涙声で、助けを求めるように叫んでいるのかもしれない。

「もう——みんな、きらいきらいきらいだいっきらい! ほうっておいてよ! わからないもん……おとなになんて、なりたくない」

 ふと、哀歌に対して同情的な僕に気づく。僕はどうやら、哀歌を擁護しているらしい。理由を考えてはみるが、これといって心当たりはない。子供は嫌いではないが、あの純粋な視線はなんだか苦手で、心のどこかで避けていた記憶がある。その僕が、どうしてこんな気持ちになるのだろう。本来なら、ここに僕の居場所はない。僕と藍華が出会うことがなければ、きっと今ある閏年計画は存在しなかった。僕の閏年計画は、もっと直接的で真っすぐな悪意でできていたように思う。しかし、今の閏年計画は、悪意ではない何かでできているような気がした。今僕の耳に聞こえている哀歌の声は、怒りや憎しみを含んでいるように聞こえる。が、本当はもっと多くの思いが込められているのではないのだろうか。生憎僕は人の気持ちに敏感な方ではない。何の気なしに言った言葉で誰かを傷つけてばかりだ。そんな僕に、この複雑な感情が読み解けるとは思わない。けれど、ここでただ黙って見ている気もなかった。

 ふと、藍華が手を離してふらつき気味に数歩歩みでた。その表情はひどく儚げで、壊れかけたガラス細工のようだった。彼女は左手を胸に当て、まるで首を絞めるように握りしめる。爪が食い込むのが見えた。瞳に涙がにじむ。彼女の足は、震えていた。彼女の鼓動が伝わるように、僕の胸まで痛くなる。それを必死に押さえようとするその手は、なぜだかとても小さく見えた。僕は彼女を止めようと手を伸ばす。しかし、僕の手が届くより早く、藍華は左手を離して僕の手を遮った。

「あい——」

「大丈夫……大丈夫、だから」

 繰り返す声は、呟くたびに力を失っていった。行き場のない腕は宙を掻いて緩やかに落下する。その途中、悪あがきのように袖を掴んだ。このまま彼女を一人でいかせてはいけないと思った。理由は分からない。ただ、なんだか、嫌な予感がした。このままでは本当に壊れてしまうのではないか——そんな泡沫の感覚が、微かに僕の脳裏をよぎる。それはおそらく気のせいなどでは、僕の行き過ぎた杞憂などではなかった。

 引き止めるような僕の手を、藍華は払わなかった。

 僕のすぐ隣では雨帝が苦い顔をして、そっと目を伏せていた。藍華が傷つくのを恐れるような、どうにかして止めたいと思うような、不安定な視線だ。けれど、それができないのは、誰よりも雨帝が藍華の背中を押したいと思っているからだろう。だから、何もできないでいる。それは、僕も同じだった。

「……責任を負うのは、確かにとっても怖いよ。でも、そのままで傷つくのは——辛いのは、自分なの。ねぇ、私は怖いよ。後悔するのが怖い……ああ、あのときああしてれば、あたしの未来は変わったのかもしれない——なんて考えて泣くのは、嫌なの。あたしはあたしのしたことを否定したくなんかないんだ。だから、あたしは、貴方を見てるのがちょっと辛い。必死に否定しようとして、無理してる貴方を見てると、胸がぎゅってなるの。あたしは……あたしは今でも、貴方のままね」

 最後の言葉は、聞こえるか聞こえないかというほどの消え入りそうな声だった。先ほどまで言葉を紡ぎだしていた唇は強く引き結ばれ、瞳はどこか遠くを見つめている。その横顔は彫刻のようで、切ないような、覚悟を決めたような、そんな顔だった。

 僕は少しだけ、藍華の表情の中に雨帝に似たものを感じていた。けれど、同時にそれが全くの別物だという確信もあった。藍華の覚悟は、孤独ではない。藍華は一人で決意したわけではない。いや、藍華は自分で決めた。けれど、一人では決めなかった。

 自分で決めるのと、一人で決めるのは、違うと思うのだ。

 僕は、そっと手を離して後ろに下がった。藍華の覚悟についていけるほどの覚悟が、僕にはまだなかった。

「あたし、思うの。貴方も、私も、夢を見ているの。でもね、貴方の夢と、あたしの夢は違う。だからって、あたしは貴方を否定したりなんかしない」

 藍華が、そっと手を伸ばす。その手は確かに、哀歌に対して差し伸べられている。少女ははっとして息を呑むと、藍華の手のひらを睨みつけた。哀歌の頬には涙のあとが残っている。泣きはらした瞳には今なおうっすらと涙が溜まっていた。

「一緒に行こう。あたしも一緒に、その夢を追いかけてみたいの」

 僕からは、藍華の表情は見えなかった。ただ彼女の大きな背中だけが見えていた。しかし、僕にはその表情が、何となく分かるような気がした。

 哀歌は緊張を解きほどくようにそっと息を吐くと、それから何も言わなかった。藍華も、雨帝も、僕も、誰も何も言わなかった。

 誰も何も、言えなかった。

 それからどれくらい時間が経ったのだろう。動いたのは哀歌だった。少女はそっと手を伸ばして、藍華の手に触れかけて——。

 叩き払った。

お読み頂き誠にありがとうございました。

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