演者
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「さて——まずは何からお話ししましょうかねぇ」
雨帝は呆れたような口調で言うと、そっと藍華の手を包んで、優しげに微笑んだ。その微笑みには、あのときと変わらない気高さが宿っていた。その表情に、僕は少し安心する。再び僕らの前に現れた雨帝が僕たちの知る雨帝だという保証はどこにもなかった。だから、そう思っていても、藍華には言えずにいた。僕の杞憂が藍華を苦しめてしまうのが怖かったのだ。だからこそ、今、道化のような動作でこの空間を制する雨帝の姿は、僕の胸に確かに雨帝がここにいるのだという確信を与えてくれた。涙が出そうになる。しかし、今ここで泣くわけにはいかない。僕はなんとかこらえて微笑んでみせた。いつもより少しだけ、うまく笑えた気がした。そんな僕を見て、雨帝は泣き出しそうな瞳で笑った。
「雨、帝……っ! ……ッ!」
藍華が顔を上げる。彼女はひときわ強く雨帝の袖を引くと、声にならない言葉を呟いた。唇が微かに動く。僕には彼女がなんと言おうとしたのか分からなかった。しかし、雨帝にはそれが分かったようだ。言葉に詰まるように苦い顔をしながら、雨帝は小さく微笑んでいた。その瞳には優しげな微笑みの他に、少しだけ辛そうな色が宿っている。僕はそんな雨帝を、ただ見ていることしかできなかった。ただ呆然としていたのではない。孤独な覚悟の中にいる雨帝にかける言葉が、僕の中にはなかったのだった。どんなに言葉を探しても、ふさわしい言葉は見つからない。陳腐な気休めだけが無意味に漂っていた。結局僕は何も言えずに、震える藍華を支えていることしかできなかったのだった。
藍華は止めどなく溢れる涙を拭いながら嗚咽を漏らしていた。それは恐怖から来るものでもなければ、再会の喜びから来るものでもなかったのだと思う。藍華の胸中に押し込められていた様々な思いが、堰を切って溢れたのだろう。あとからあとからこぼれ落ちていく涙は、留まるところを知らなかった。雨帝はそんな藍華を諭すように、静かにその手を離して両手で包み込んだ。
「大丈夫。……もういなくなったり、しませんよ」
雨帝はなだめるような手つきで藍華の頭をなでる。途端に藍華の表情がほころんだ。しかし、雨帝が手を退けると、恐れるように表情を引きつらせた。退けられた手を再び雨帝へと伸ばす。しかし、途中で躊躇うように手を止めて、そのまま引っ込めてしまった。雨帝は小さく微笑む。そして、そのまま僕たちに背を向けた。その背中は、初めて会った時のように気高かったが、どこか寂しそうだった。
「う、みかっ……! あぁあ……」
叫んだ声は、哀歌のものだった。哀歌は頭を我かえてうずくまっている。獣のうなるような声を上げて雨帝を睨みつけていた。雨帝はそんな視線をものともせず、花園を周り始める。雨帝の手が幻影の花へと伸びる。その手は僕らのように通り抜けることはなかった。雨帝の手が触れた花々は、悲しみに暮れるように静かに揺れた。
「虚数、と——この空間の原型を作った人は、私をありもしない幻影として作りました。まぁ、彼にとっては皮肉のようなものだったんでしょうね。自分に不利なものを積み重ねて、それでも辿り着かないことに安堵する人でした。『虚数』は、反抗的で、どんな意見にも否定的なことばかり言うような人格でした。虚数に自分はなく、その時々に左右されるひどく不安定な人格だったのですよ」
雨帝が言っているのは閏の、僕のことだと、すぐに分かった。虚数。はじめは虚数だったと、雨帝はそう言っていた。それは完璧な人間になどなれはしないのだから、努力は無意味なのだと諦めて、それでも努力しない自分を受け入れることができない僕が、気休めのためにつけたものだったのだろう。それが、藍華によって上書きされた。変数、と。僕が決めた零の存在ではない、雨帝は何にでもなれる存在に変わった。雨帝は、藍華の可能性のうちにいる。雨帝はどこにも属さない固有の存在になったのだ。
雨帝は、何にでもなれる。
哀歌は、何にもなれない。
僕たちは僕たちに与えられた役割を、ただ演じることしかできない。
舞台上の役者のような立ち振る舞いで、雨帝は花園を支配していた。
間違いなく、雨帝はこの花園において主人公だった。
「何の因果か、私は完璧超人でも聖人君子でもない、ただ少し現実味がないだけの人物に設定されました。しかし、私は設定した通りにはならなかった。実に皮肉なことだと思いませんか? この空間によって生まれた私が、この空間にとっては何よりイレギュラーなのですよ」
雨帝は両手を大きく開いて優雅に回転してみせる。口元には嘲笑うような笑みが浮かんでいた。その動きはどこかぎこちない。おそらく、まだ完全に元通りになったわけではないのだろう。その表情には、微かに苦しみの色が宿っていた。今も無理に体を動かしているのだろう。それでも大げさな動きを止めないのは、きっと僕たちを安心させるためだ。不意に胸が苦しくなる。ちくりと刺すような痛みなら、きっと耐えることもできただろう。痛みは、鈍く、深く、責めるように僕の胸を貫く。滲んだのは、血でも涙でもない。この胸に堆積したものは、ただの泥だった。言いかけた言葉は澱みの底に沈んで、やがて泡になって消えてしまった。手のひらを見つめる。泥はこの手をすり抜けていく。僕の手では掬えない。雨帝の苦しみも、藍華の絶望も、僕は一緒に背負えない。どんなに背負いたくても、きっと二人は僕に気を使ってしまうだろう。
僕に二人は救えない。
僕は藍華の世界において、いるはずのない役者だ。
その僕が物語の流れに関わることなどできるはずがない。
「ああ……でも」
本当に……そうか?
始めは、ここから出るために。
そして今は、雨帝を助けるためにここにいる。
それは、なぜだ。
逃げることだってできた。目を背けて、ありふれた日常を享受することだってできたのだ。
なのに僕は、辛い思いをすると分かっていながらここへ来た。
僕は逃げなかった。
僕は今、ここにいる。何かができるはずだ。
必死に足掻いて、思い描いた理想のエンディングを目指して。
苦労も顧みず、傷つくことも恐れずに、立ち向かえるだろうか。
僕はエキストラだ。何の使命もない。制限もない。
今、自由に何かができるのは、きっと僕だけだ。
僕はそっと視線をずらして、花園の中央にいる哀歌に目を向けた。彼女はすすり泣きのように微かな声を押し殺しては、小さく震えてしゃがみ込んでいた。その小さな手で両耳を塞ぎ、力なく首を横に振っては唇を噛み締める姿は痛々しい。見ている方が苦しい気持ちになった。今、雨帝は哀歌のことを責めているわけではない。にもかかわらず、哀歌はひどく怯えている。その様子に胸が痛んだ。理由の分からない痛みはひどく不気味で、僕はもどかしくなった。
「本当は、始めから奇数と定数のことは知っていたのですがね……。私が知っていたのは、閏年計画の価値基準で見たお二人でしたから、少し様子を見ていたのですよ。きっと私が虚数のままだったなら、そんなことはせずにそうだと決めつけたでしょうね。この変化が何を生んだかは……おそらく、言うまでもないでしょう」
何かを名残惜しむような声音で、雨帝がそっと息を吐いた。堂々とした動きで数歩進んでは、少しだけこちらに顔を向けて小さく微笑む。その視線が、ちらりと藍華に向けられた。つられて藍華の方を見る。藍華は雨帝の視線に気づいていないようだ。その瞳はまっすぐに哀歌へと向けられていた。
偶数、と。藍華と雨帝は、哀歌のことをそう呼んだ。偶然の一致か、あるいは元からそう決まっていたのかは分からない。哀歌が乗り越えようとしている壁はあまりにも複雑で、きっと、運命などという言葉では表現しきれないだろう。出会うべくして出会った、でもない。かといって、出会わなければよかったとも思わない。少なくとも僕は、とても小さな思いの粒が、ちょっとした気まぐれを起こしただけのように見えた。
ぎゅっと、藍華の手を握った。藍華は驚いた様子だったが、すぐに握り返してきた。その手はまだ微かに震えていた。もしかしたら震えているのは僕の手の方かもしれないと考えて、少しだけ物悲しくなった。藍華が雨帝の言葉を聞き届けようとしていることが、何より辛かった。
「姿は潤を元に作ったらしいですね。私が私として目覚めたときには、もう私を作った人は防音室の中でしたから、詳しいことは知りませんが……。まあ、なんと言いますかね。その時点では、定数が敗れることが予定調和的に決定されていたわけです。そこに現れたのが——三浦藍華、というわけです」
中世の騎士か、あるいは貴族に仕える執事のような立ち振る舞いで、雨帝はこちらに数歩歩み寄った。そして、そっと藍華の手を取り、優雅に一礼する。藍華を見上げた瞳の奥底には優しい微笑みだけが宿っていた。その表情に、僕は戦慄する。どうしてこんなにも悲壮な覚悟をしながら、あんな表情ができるのか。僕には全く持って理解できなかった。やはり雨帝は、人間的な何かが欠落しているのではないかとさえ考えた。しかし、そんな思考に発展性はなく、ただ散らばって消えいくだけだった。
僕は思うのだ。人はいつしか嘘をつくことを覚えては、知らず知らずのうちに何かに嘘をついて生きている、と。僕が僕の本心に嘘をついたように、藍華はこれまで、自分の中に燻る疑問を嘘で誤摩化してきていたのだろう。
ならば、雨帝にも、嘘をつくときがあっても、何もおかしくなどない。それはとても人間らしく、有機的なことのように思えた。そして、隠された感情の在処さえも、きっと僕たちと何も変わらないのだろう。
だけど、それは、哀歌だって同じはずだ。
僕と同じように、藍華も泣き笑いのような表情で雨帝を見ていた。柔和で、紳士的で、ほんの少し情けない表情で、雨帝は笑う。その嘘はとても残酷で優しい嘘だ。
その瞳の奥に見えるのは、恐ろしく純粋な優しさだけ。
「アナタは賢い。だから、分からなくていいことまで分かってしまう。……気づかなくていいことまで、気づいてしまう。アナタは繊細過ぎたんですよ。そして、それに気づかないふりをして生きられるほどに、アナタは器用だった。しかしだ、アナタはその繊細さ故に——器用さ故に、自らを追いつめてしまったのですよ。そしてアナタは自らの手で退路を塞いだわけだ」
雨帝の瞳は鋭く、射抜くように哀歌を見つめる。哀歌は小さく体を震わせたかと思うと、目元を絶望に歪めて、震える手で顔を覆った。指の隙間から涙がこぼれ落ちる。
悲痛な叫び声に、痛むのは、心。
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