黒髪
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哀歌が一歩前進する。空気が不気味に揺らいだ。耳の奥から嫌な音が聞こえる。僕は思わず風圧に身構えた。そうこうしている間に風は強くなっていく。嵐は当分止みそうになかった。風の音が再び強くなる。耳鳴りがやけにうるさい。頭に直接響くような気持ち悪い感覚に、僕は咄嗟に耳を塞いだ。そんなことをしても耳鳴りが止むとは思えなかったが、やらないよりはいくらかましだった。不気味な不協和音はなお僕の耳の中に居座り続けているようだ。人の声にも聞こえるそれは、金属音などよりもずっと不愉快だった。僕は大げさにため息をついてみせる。この暴風に逆らうように、嘆息がぽつりと空中に投げ出された。
哀歌がまた一歩前進する。風はさらに勢いを増し、やがて立っているのもやっとなほどになった。足下が鏡である上に何も掴まる場所がないため、少しでも気を抜いたら吹き飛ばされてしまいそうだ。せめて瓦礫の一つでもあれば掴まれたのだろうが、この風では逆に危険だろう。この空間で瓦礫といえば、鏡だ。そんなものが風を受ければ、より不愉快な音色を奏でるに違いない。これ以上耳鳴りの種を増やしたくはなかった。
「くっ……」
風に押され、数歩後退する。ただの風ではないようだ。どこか邪悪で、禍々しささえ感じる。おそらくこの風は、閏のときの黒い影と似たようなものなのだろう。この風は哀歌の感情とリンクしている。これ以上刺激すればどうなるか分からない。僕は体制を整えつつ、なるべく自然に藍華に近づいた。哀歌は僕のことなど気にも留めていない様子だ。これは好都合だと、僕は思い切って前進した。
藍華は体を丸めて前屈みになりながら必死に風に耐えていた。なんとは持ちこたえてはいるが、吹き飛ばされるのも時間の問題だろう。
「藍華っ、大丈夫? 多分、この風、僕の時の黒い影と同じだ。それまで耐えられそう?」
風に煽られながら、僕はなんとか藍華に話しかけた。風の音に掻き消されないよう声を張り上げる。喉が焼けるように痛い。こんな大声を出したのは久しぶりだ。しかも思った以上に声が出なかった。自分が思っているより、僕は萎縮してしまっているようだ。
「だいじょ、ぶ! 多分……きゃっ!」
藍華が答えた途端、ひときわ強く風が吹き荒れた。藍華が体勢を崩してよろける。肝が冷える、というのは、こんな感覚なのかと、僕は場違いに冷めた頭で考えていた。しかしすぐにそんな思考は消え去った。一瞬で頭が真っ白になる。自分が何を考えているのかすら分からない。ただ、どうしようもなく、とりとめのない感情だけが渦巻いていた。
ここで体勢を崩せば、間違いなく壁に叩き付けられる。
「藍華!」
僕は咄嗟に叫ぶと、大きく身を乗り出して藍華の方に手を伸ばしていた。全てがスローモーションのように見える。風に圧迫された体は思ったように動いてはくれない。ただ手を伸ばすだけの動作さえ重労働だ。あと、少し。もう少し手を伸ばせば届く。届くのだ。届くはずだ。届かないわけがない。あと一センチもないのだ。勢いをつければ届く。届く。
「きゃぁああああああっ!」
藍華の体が、ふわり、と宙に浮く。一瞬何が起きたのか分からなかった。が、すぐに彼女の足が地面を離れたのだと悟った。藍華の叫び声が耳をつんざく。全身で前に乗り出す。
両腕が切り刻まれるように痛い。しかしそんなものは些末なことにすぎなかった。今の僕にとって、痛みなどは取るに足らないものだ。そんなことに神経が行くほど、僕には余裕がなかった。とてもじゃないが冷静ではいられなかった。何も考えられなかった。僕は倒れかけている藍華の腕に向けて一気に手を伸ばす。肩が外れそうだ。それでもいい。これで彼女が助かるなら、その程度なんと言うことはない。僕は車にひかれたのだ。肩が外れるくらい、たいしたことではない。
ああ、藍華の言葉は守れそうにない。
僕は何も傷つけずに誰かを救えるほど強くはない。
そして、誰かを傷つけて罪悪感を抱かずにいられるほど無神経でもないのだ。
僕が負うのは傷なんかじゃない。
僕は今、人の命を背負っている。
僕が負うのは、人の心だ。
もう少し、あと数ミリ。急げ、急げば間に合う。
届け。
「あっ……う、ぁ……」
ふわり、と。
風が彼女をさらうように。
藍華の腕が、指先をかすめて通り過ぎた。
「あぁ……っ……ぁ」
どうして。
ああ、どうして僕の手は。
君に届かないのか。
言葉にならない声が漏れる。まだだ、まだ間に合うと足掻く僕の腕は、惨めなほどに軟弱で、ただもどかしく宙を掻くだけだった。それでもなお指先は連れ去られた腕を支えようと足掻いている。それは瀕死の蝶のような、ひどく弱々しい抵抗だった。距離はどんどん開いていく。それでも体は、どうにか彼女を助けようと未だもがいている。
届け。
風より早く、哀歌より早く。
風が彼女を奪う前に。
「あっ……っ——」
僕は咄嗟に彼女の名前を叫んでいた。自分でも、どうしようもない感情の濁流に吞まれて、何をしているのかよく分からなかった。僕は誰の名を叫んだんだろう。自分のものとは思えない絶望に満ちた狼の咆哮のような声に、僕は自分が絶望していることを悟った。幻像の花が揺れる。それらは今にも消えてしまいそうなほど不安定で、こちらまで不安な気持ちにさせた。
明るい花の中に吸い込まれるように、藍華の姿が遠くなっていく。掴めなかった腕は宙に投げ出され、追い討ちをかけるように風は勢いを増していった。あまりの暴風に耐えきれず、僕はしゃがみ込む。そのまま鏡の床を殴りつけた。こんなことをしても、この拳が痛むだけだ。そうと分かっていても、そうせずにはいられなかった。
僕は、何もできないのか。
叫んだ所で、この風が止むわけではない。
僕が強くなれるわけではない。
鏡に映った僕は泣いていた。
あのとき、孤独に強がっていた僕のような。
誰かによく似た泣き顔で。
涙が、一雫、こぼれ落ちた。
その、刹那。
「——大丈夫ですか、お二方」
僕は耳を疑った。
あのときと、同じだ。
黒い影に教われた僕たちを救ってくれたときと、まるで同じ声音で。
まるで戯曲の王子のような優雅な立ち振る舞いで。
絶望にさらわれる姫君の体を支えて。
人影は言うのだ。
「遅くなりましたが……主役は遅れて来るものでしょう?」
ああ、と。
僕は目を見張った。
藍華のすぐ後ろ。
そこには、見覚えのある黒髪が。
状況と不釣り合いな、不敵な笑みを浮かべて。
「あ、ああぁ、あ——」
僕は知っている。
気分屋で悪戯好きで、ひどく不器用な黒髪の名を。
「雨帝ッ……!」
名前を呼ぶと、その人はこちらにそっと目を向けて。
藍華の体を支えながら、泣きじゃくる僕の横を通り過ぎた。
潤んだ瞳に、その表情ははっきりとは見えないけれど。
雨帝は多分、笑ってなんていなかった。
「私の友人を、ずいぶんと可愛がってくれたみたいじゃあないですか……ねぇ、奇数?」
脅すような雨帝の声音に、哀歌は怯えたようにびくりと体を震わせて、大きく手を払った。瞬時に風が消え去る。僕はただ呆然として、鏡の床にへたり込んだ。何が起きているのか、まるで理解できない。とにかく、藍華が無事だったことに安心して、僕の足は動かなくなってしまったようだった。
僕は目元の液体を拭うと、雨帝の方を見た。雨帝の隣では、藍華が喜ぶような、心配するような表情で雨帝を見ている。その瞳からは、大粒の涙がこぼれ落ちていた。その肩は小刻みに震え、唇からは小さな嗚咽が溢れていた。僕はすくむ足を叱咤して立ち上がろうとする。しかし、僕の足はまるでいうことをきかなかった。足が鉛にでもなってしまったかのように重い。動かそうとしても、ただ痛みが走るだけで、どうしようもなかった。
「ほら、潤。……藍華を頼みます」
「あ……」
雨帝は僕に手を差し伸べると、僕の手を一気に引き上げた。雨帝の手は、義手ではなかった。それは確かに人間の感覚で、僕ははっとした。そっと振り向く。すると雨帝はほんの少しだけ笑って、僕の背中を押した。僕はそのままの勢いで藍華に近づく。震える手を取り、「大丈夫だよ」と告げると、藍華は堰を切ったように泣き出した。繋がれた手が震えている。左手は雨帝の袖を掴んで、右手は僕の手と繋がれていた。
その手のぬくもりに、僕はまた泣き出しそうになった。
「さぁ……覚悟はよろしいですか?」
静かな雨帝の声には、怒気さえ感じられた。
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