対称
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花言葉は呪いのようだった。エンドウの話と合わせて、とても不吉に聞こえる。藍華は暗く落ち込んだ声で言葉を紡いでいた。今彼女の頭の中では様々な思いが渦巻いているのだろう。入り乱れた感情のせいで、声は微かに震えている。とても辛そうに見えた。こんなとき、僕に何ができるだろう。雨帝の真似ではなく、僕にしかできないことがあるはずだ。
今の藍華に、僕ができることとは。
「でも……あたしが縛られてるのは、夢の方にかな。夢があって、それが叶わなくって……このままじゃいつかそんな夢があったことすら忘れちゃうんじゃないかって、恐れてる。でも、忘れられるわけないって、そう思ってるあたしもいてね。でも、それでも、あたしは……。ねぇ、潤。もし潤にとても欲しいものがあって、それが手に入らなかったら、潤は代わりの何かを見つける?」
藍華は少し責めるような目で僕を見る。その瞳は僕を見ているようで、本当は何か別のものを見ているのではないかという錯覚を抱かせた。もしかしたら藍華は僕の瞳に映る自分自身を見ているのかもしれない。微かに揺らぐ黒い瞳には、静かな怒りが宿っていた。それはきっと、大切な夢を忘れて代替品に逃げることに対する、彼女の嫌悪心の現れなのだろう。彼女がずっと心の奥に持っていたものは、きっと新しい夢を見つけることで過去の自分を否定してしまうという恐怖だったのだ。僕は彼女の問いの答えを探す。考えをまとめるのに数秒もかからなかった。僕だけの答えを出すことが、今できる最善のことだろう。言わないで後悔するくらいなら言って後悔した方がましだ。僕はもう黙って見ているだけの傍観者にはなりたくなかった。
「例えそうなったとしても、僕は次に見つけたものを代わりだとは思わない。前のそれを欲しいと思った僕も、今別のものを欲しいと思った僕も、どちらも幸村潤なんだ。どちらかをすり替えることなんてできないよ。代わりなんかじゃない、どちらも等しく僕が欲しいと思ったものだ。どちらかだけが本物だとか、それが何かの代わりだとか、思わないよ。代わりなんて、ないって、僕は思うよ」
まっすぐに藍華を見つめながら、なるべく柔らかい口調で言葉を紡ぐ。藍華は小さく息を吞んで、小さく俯いた。僕の袖を掴む。その手は震えてこそいないものの、今にも袖を話してしまいそうなほど弱々しかった。
「……藍華?」
「ごめん、ごめんね。違うの、ただ、あたし、なんてこと聞いちゃったんだろうって、思って。潤のこと、信じてるのに、あたし……。だめ、疑心暗鬼になってる」
「謝らないで。藍華、今謝るってことは、君自信のことを裏切ることになるよ。それに、藍華。僕が言いたかったのは、そんなことじゃないんだ」
僕の言葉に、藍華が顔を上げて首を傾げる。涙目だった。これではまるで僕がいじめているみたいだ。
「君の努力も、夢にかけた時間だって、本物だってことだよ。ここにいるのは、藍華だろ? なら、これまでに君が思ってきたことも、信じてきたことも全部、嘘じゃないんだ。だから、そうやって自分を疑うのはよくないよ。……勿忘草を見ていたのも、そういう気持ちがあったから?」
「それもある……けど、それだけじゃないの。勿忘草は……」
藍華はそっと視線をそらして勿忘草を見た。言い過ぎてしまったかとも思ったが、そうでもなかったらしい。藍華は袖を掴んでいない方の手で勿忘草を指差した。
「勿忘草は、二月二十九日の誕生花なの」
時間が止まったような気がした。 そんなことは現実ではあり得ない。しかし、ここは閏年計画の世界だ。現実ではない。時間が止まることぐらい、あってもおかしくないだろう。現に僕の腕時計は止まってしまったし、そもそもここには時間という概念がない。僕は意識的に瞬きをしてみる。時間は止まっていないようだ。そう感じたのはきっと、彼女の言葉が僕にとって特別な意味を持ってたからだろう。
「え……」
二月二十九日、それは僕と藍華が事故にあった日、そして初めて閏年計画に来た日である。四年に一回しか訪れることのないその日の誕生花の花言葉は、今の僕たちにとってはどこか不吉な重みを持っていた。痛みを忘れることも一つの解決法だ。ときには心機一転、別のものに目を向けた方がいい問題もある。しかし、今この状況で聞く『忘れないで』という言葉は、脅迫のように聞こえた。僕にそう聞こえたのだ、藍華にはもっとえぐい言葉に聞こえたことだろう。それにしても、ずいぶんと悪意のある巡り合わせだ。僕のときよりも精神攻撃が多いような気がする。閏はどちらかと言うと物理攻撃の方が多かった。それに比べ、今回は藍華がここから出ることを妨害するような出来事が多く、逆に物理攻撃は少ない。瓦礫は落ちてきたときは閏年計画が僕たちを排除しようとしているのかと思ったが、崩落が止んだ所を見るとそうではないのだろう。閏年計画の原型から歪んだ部分が剥がれ落ちているという解釈であっているはずだ。ここはもう僕の世界ではない。RPGのように最後の戦いが終わった後に空間が壊れることもないだろう。そんな風に思うのは、閏年計画が壊れ、空間が崩落してしまったことを自分のせいだと思っているからなのだろう。そう考えてしまったら先に進めなくなると、そう考えて、考えないようにしながらここまで来た。しかし、雨帝の顔を見て、そうではないのかもしれない、と思った。雨帝は空間とは違う、何か別の要因の干渉も受けていたのではないだろうか。そして、その要因というのは、多分藍華だ。侵食が急激に進んでいたのは、僕と藍華、双方から干渉を受けたためだと考えられる。しかし、それが何を意味するのか、僕には分からない。
三浦藍華と、荒井雨帝。この二人の関係性が、僕にはまだ分からないのだ。
「自分を疑わないでって、前にも言われたことあるんだ。会社の先輩で……このままでいいのかって相談したら、潤が行ったのと同じようなことを言われたの。……どうして今思い出したのかな――ううん。なんで今まで忘れてたんだろう。あたし、差し伸べられた手に気づかずに、今まで生きてきたんだね。あたしのことを考えてくれる誰かなんて、いないと思ってた」
独り言のように、藍華が呟いた。誰に向けての言葉なのだろうか。僕に向けての言葉にも、その先輩に向けての言葉にも聞こえる。しかし、彼女はもっと多くの、これまでに自分が関わってきた全ての人に向けて言っているように聞こえた。
「忘れないでって、こういうことだったのかな。あたし、なんでネガティブになってるんだろ。悪い未来ばかり考えて……自分ことばかり考えてさ。それは、違うよね。当たり前のこともできないで、大切なことなんて見つけられるわけ、ない。目を逸らしてちゃ、だめなんだ。向き合うって、約束したんだもん」
藍華が、身軽な動きで振り返る。その顔には微かな笑みが浮かんでいた。髪の青いバラが小さく揺れる。そして、ゆっくりと、床に落ちた。
波紋が広がる。
青いバラを中心に、幻の水面が揺れる。そして、その波紋は花々にまで及んだ。枯れた花の大半が色を取り戻す。その代わりに、床に落ちたバラは枯れてしまった。
「花が……! でも、バラが――」
藍華が青いバラに手を伸ばす。実態があった。しかし、藍華の指が触れた途端、花は脆く崩れ去ってしまった。藍華は少し不安そうな顔をしてから、諦めたように顔を上げた。
「……これで、八割方は咲いたかな。あと、少し。多分、次で最後だ」
「うん、そうだね……。でも、分からない。あたしは、もう、自分と向き合えるって思う。覚悟は、できてるわ。何が足りないのかしら?」
崩れたバラを見つめながら、藍華ははっきりとした語調で言った。きっと、思い出したのは先輩の言葉だけではない。もっとたくさんのことを思い出したはずだ。そのすべてが、彼女を支えてくれている。これまでは重荷となるだけだった過去が、今では彼女の背中を押していた。
しかし、足りないものとは何なのだろう。僕たちは最後の扉の目の前まで来ているはずだ。これ以上何かが起きることはない。ということは、解答に至るヒントは既に全て開示されていると考えて間違いない。しかし、これまで藍華と関係があった花のヒントはほぼ消化してしまった。他に藍華に繋がりそうなことは、残っていないのではないだろうか。僕は辺りを見回しながらこれまでのことを思い出す。青いバラ、花言葉、トロイの木馬。そして鏡の世界。
「……鏡?」
「潤? 鏡がどうかしたの?」
藍華が不思議そうに首を傾げる。僕はそれどころではない。鏡、鏡と言えば、対象と全く同じ姿で、左右反転した像を映し出すもの。全てが同じではない。しかし、姿は変わらない。鏡は自分を映し出すものだ。鏡の中にもう一人自分がいるような、そんな錯覚を抱かせるものだ。そんなものがこの空間にあって、何の意味も持たないわけがない。きっと何かがあるはずだ。僕は思考を集中させる。
「あっ……」
雨帝のイニシャルが大文字のナビゲーター、あれはまだ解決していない。藍華に関与することと言ったら、もうこれしか残っていない。しかし、ここから藍華について何が分かるというのだろう。ただの記号の羅列しかない。これまでのように多くのヒントがあるわけではないのだ。ヒントがあっても困難だというのに、こんな状態で解答にたどり着けるのだろうか。僕は少し不安になっていた。情報が少なすぎる。
そんなとき、藍華がぽつりと呟いた。
「雨帝って確か、変数だったよね」
アナグラム。
文字を組み替えて作る文字列。共通点の多い二人。閏年計画に現れたイレギュラー。
鏡。
「ねぇ、潤。ごめんね。あたし、ほんとはナビゲーターの名前を見たときに、分かってたの。でも、認められなくて、ずっと言えずにいた……。怖くて、気づいたらあたしでいられない気がしてた。でも! あたし、もう迷ったり、自分を疑ったりしないから。だからね……」
「あい、か……?」
三浦藍華と、荒井雨帝。
奇数と変数。
もしも彼女が、理想の自分になれたなら。
「雨帝は、あたしなんだよ」
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