二人
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階段を抜け、防音室に出る。瓦礫はもう落下してきてはいなかった。恐らく、もうこれ以上削ぎ落とせるものがなくなったのだろう。次壊れるとしたら地下室の方だ。僕は背筋がぞっとした。もし僕があの場を離れている間に藍華が花を咲かせて、地下室が壊れてしまったら。無意識のうちに足が止まった。しかしすぐに、彼女が起きる前に帰ってくればいいのだと言い聞かせた。僕は防音室を出ると、もと来た道を歩き始める。瓦礫の散乱した道は凹凸が激しく、這いつくばりながら進むようだった。さすがにこの道を藍華に歩かせるわけにはいかない。眠ってくれて幸いだった。もと来た道を戻るなんて言ったら絶対に着いてくるに決まっている。藍華には申し訳ないが、ここは一人で行かせてもらうことにしよう。僕は後ろ髪を引かれつつ、瓦礫の道を進んだ。
道は思ったほど険しくはなかった。瓦礫が積もって防音室から出られるかどうかも不安だったが、進めなくなっているわけではないようで安心した。僕は瓦礫の山に手をかける。鏡が擦れて嫌な音がする。軋むたびに背筋が冷たくなった。
「わっ……」
鏡が滑って片手が外れる。足場はあるので落ちることはないが、バランスを崩したらかすり傷では済まないだろう。単独行動で怪我などして帰った暁には藍華になんと言われるか分からない。怒られることは目に見えている。僕はなるべく慎重に行動しようと決意した。
ある程度進むと、瓦礫の少ない場所に出た。バラを見つけた所と同じあたりだろうか。どこも同じ風景なので正しい位置は分からないが、瓦礫のせいで道が狭まった分、辿るべき道は分かりやすかった。やはり今動いたことは間違いではなかったようだ。
僕は荒井雨帝に会いにきた。
「よっ……と」
瓦礫によって粉々になった鏡をよけながら進む。ここは現実世界ではないが、ゲームの世界でもない。リセットもセーブもロードもないのだ。慎重に行動する以外に身を守る方法はないと言っていい。怪我をしたとき回復するアイテムがあるわけでもなければ、窮地を救ってくれる勇者がいるわけでもないのだ。
鏡の道はようやく安定してきた。僕はこれまでの道を振り返る。今通った瓦礫の道のように、ここであった出来事はどれも険しく、時に心が折れそうになることもあった。そんな僕を支えてくれた、藍華と雨帝。藍華の意見は十分に聞くことができた。しかし、雨帝の意見を聞くことはできない。だからせめて、雨帝の無事だけでも確認しておきたかった。それで何かが分かるわけではない。しかし、何かが変わる気はしていた。覚悟は決まっている。藍華にはきっと大丈夫だろうと言ったが、あれは気休めにすぎない。実際に見てみなければ絶対に無事だとは言えない。修復不可能なレベルまで体が崩れているかもしれない。それで事実を真摯に受け止めようと決めていた。
「よ、し……」
階段では藍華に痛い所をつかれた。僕には距離感というものがよく分からない。付かず離れずで、踏み込んではいけないと思ったらすぐに退く。それがいつものやり方だった。だから、遠くからサポートするという点においてはそれなりの自信がある。だが、側にいて指摘すべき点をはっきりと言う、というのは、僕にとって難しいことだった。できれば言葉にせずに、遠回しにサポートしていたい。しかしそれでは独りよがりだ。守っている気になっているだけの自己満足にすぎない。藍華の頑張りが伝わってくればくるほど、自分が情けなくなった。藍華が頑張っているというのに、僕は彼女に心配をかけてばかりだ。そう考えたら、自然と体が動いた。今の僕の行動は、独りよがり以外の何物でもない。それでも、今くらいは幼い頃の夢でも追っていたかった。
僕は正義のヒーローになりたかった。
だからどうというわけではない。僕は何度も諦めて、そんな夢があったことすら忘れていた。今でも僕はそれが夢だったと言えない。気づかないうちに見失ってしまったものを夢と言うには、僕にはまだ覚悟が足りなかった。藍華という、夢に全力を尽くした人に対して、失礼だと感じてしまう。藍華にこんなことを言ったら、その方が失礼だと言われるだろう。それでも、僕はどこかに負い目を感じていた。
僕は再び前を向いて歩き始めた。ほの暗い世界に僕の足音だけがこだまする。それは鼓動のように一定のリズムを刻んで空気を振動させた。鼓動。それは雨帝にはないものだ。雨帝は閏年計画が作り出したプログラムであって、現実世界の存在ではない。たとえ体が元通りになった所で、現実世界に連れ出せるわけではない。藍華は今、雨帝のプログラムを元に戻すために自分と戦っている。なら僕は、雨帝を現実世界に連れ出す方法を考えるべきだ。そこまで彼女に背負わせたくない。ただでさえ僕にできることは少ないのだ。できるかもしれないと思ったらすぐに行動に移さないと意味がない。ただここにいて、彼女に心配をかけるだけの足手まといにはなりたくなかった、。これもきっと、僕の独りよがりだ。たまには格好つけてもいいだろう。ここに正義はない。あるのは人の思いだけだ。しかし、ときに思いは理屈を凌駕する。それが今回に当てはまるとは言わない。思いだけではどうにもならないことは確かにある。それと同じように、思いがなければどうにもならないことも確かにあるだろう。閏にはやることなすこと全てが事務的だと言われてしまった。その自覚はある。その僕が、感情に動かされているのは、きっと悪い変化ではない。鏡に映る自分の姿を見ながら、僕は漠然と考えていた。
どのくらい歩いたのだろうか。思ったより短い時間で済んだように感じた。きっと考え事をしていたからだろう。僕は辺りを見回して雨帝の姿を探す。瓦礫はないが、フロアが広いため探しながら歩くのはなかなかに骨が折れる作業だった。
「……いた」
少し歩いて、僕は見つけた。壊れた体で横たわったままの雨帝は、床の鏡には映らない。雨帝はプログラムだ。閏年計画が生み出した幻影だ。
それでも、僕たちにとって大切な人だということは変わらない。
「久しぶり……かな。雨帝、今から言うことは全部僕の独り言だから、気にしないでね」
返事はない。知っている。僕は僕自身の解答を雨帝に押し付けるためにここに来たわけではない。ただ、吐き出したいものがあっただけだ。
「藍華はさ、きっと雨帝みたいな人になりたかったんだろうね。こう、余裕があってさ、どんな困難な状況でも飄々として、まるで困難を感じさせなくて。あのときだって、君、辛かったはずなのに、笑っていたよね。……そういうところ、藍華とそっくりだ」
僕の声だけが反響する。他には何もない。床には僕の顔が映っている。ただそれだけ。
ここは無の世界。
「ずっと思ってたんだ。雨帝と藍華って、似てる所あるなって。まぁ、雨帝はしっかりしてて、藍華はどちらかというと天然っていうか、ちょっと抜けてるところあるから。根本的な性格は全然違うんだけど、たまに、似てるなって思うときがあるんだ。僕は、誰とも似てないような気がするけど……」
藍華と雨帝の繋がりについて考えたとき、一番最初に思いついたのが二人の共通点のことだった。と言っても、それほど多くの共通点があるわけではない。しかし、あの二人には切り離せない何かがあるような、そんな予感がしていた。きっと藍華は気づいていないだろう。
藍華は自分を、何もできない人間だと思い込んでいる。
「雨帝って、自己犠牲的な所あるよね。あ、でも……藍華に言わせれば、僕もそうなのかな。自分ではそんなことないと思うけど。自分のことって、案外自分じゃ分からないものなんだね。自分はすごく頑張っているのに、周りはそうは思わなかったり、とても無理をしているように見えるのに、本人は平気だと思ってたり。いったいどっちが正解なのかな? 本人の意思か、周りの判断か……。僕の場合は、周りのことを気にしてたかな。藍華は……自分と周りの温度差のせいで自信が持てないって感じなのかな。雨帝の場合は、どっちも気にしてないように見える。我が道を往くっていうのかな。自分の道が確立してて、迷ったり、自分のすべきことが分からなくなったりしないイメージがあるな。でも……完璧な人なんていないんだよ」
完璧な人間などいない。
それはここにいない藍華に向けての言葉だったのかもしれない。自分でもよく分からないうちに、小さく胸からこぼれ落ちた言葉だった。不完全なままで生きることの意味を、僕はきちんと理解しているわけではない。しかし、いくつか分かることもある。
完璧ということは、他人を必要としないということ。他人を必要としないということは、孤独だということ。孤独だということは、寂しいということだ。
僕は誰も独りにするつもりはない。
正義のヒーローも聖人君子も目指さない。
僕は僕にしかできないことを全力でやるだけだ。
辛さも苦しみも、僕の背中を押してくれるのだから。
「僕は君をここから連れ出すよ。君がプログラムなら……それを、利用するまでさ。だから、雨帝。もう少しだけここで待ってて。後で必ず、元気になった君を迎えにくるよ」
僕は雨帝に誓う。藍華に誓う。自分に誓う。この美しく歪んだ世界で、僕は命を賭けて足掻いてみせよう。その努力が実ることを信じて、僕は僕の道を進むだけだ。
僕は雨帝に背を向けた。もう振り向かないと決めていた。次に僕が雨帝を見るのは雨帝が元通りになったときだ。僕は唇を噛み締め、防音室へと走った。バラが落ちていたあたりで止まり、大きく息を吐く。
その直後、腕のナビゲーターが鳴った。画面が明るくなり、一つのメッセージが映し出される。
『ありがとう』
振り返りそうになった。今すぐ雨帝のもとに戻りたくなった。しかし、僕は決して振り返らなかった。今振り向いたら、きっとこのメッセージは消える。そんな確信があった。
「……こっちの台詞だよ、雨帝」
呟きが一つ、零れ落ちる。誰の耳にも届かない、小さな呟き。けれどきっと、今はこれでよかったのだ。僕は再びゆっくりと歩き出す。視界はクリアになっていた。僕はまた、防音室の前に立つ。これはもう、僕の保身の象徴ではない。これは藍華を、僕たちを守るための砦だ。二人だけが無事ならいいのではない。三人そろって無事でなければいけない。笑顔で、よかったと言える終わりにしよう。
拳を握り締め、もうひとりの僕に誓った。
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