脆弱
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「この階段……全部鏡になってるわ。降りろ、ってことかしら?」
「ここで止まってても仕方ないし、行こうか」
現れた階段は、人が二人通るのがやっとくらいの幅しか無かった。僕は藍華の手を引いて先に進む。
「何かあると危険だから、僕が先を歩くよ。藍華は少し後ろを歩いて。……あぁっ、そこ、石。気をつけて」
「わっ、本当だ。暗くてよく見えないねぇ。奥の方なんて真っ暗だよー。これじゃぁもっと進んだらなんにも見えなくなっちゃうんじゃ……」
後ろから藍華の不安そうな声が聞こえる。確かに灯り一つない道を奥へと進むのは多少の抵抗がある。しかし、偶然か必然か、外の光が鏡の階段に乱反射して、足下だけはかろうじて把握することができた。最新部までこの状態が続くかどうかは怪しい所だが、今は続くと信じて進むしかないだろう。その考えが分かったのか、藍華も鏡の階段を気にしているようだった。
先に進むにつれ、どんどん足下が暗くなる。ただ、下に降りても防音室へ繋がる部分が閉ざされないのは不幸中の幸いだった。これでもしこの奥が危険だったとしても、藍華だけでも逃がすことができるだろう。
「ねぇ、潤。あまり、無理しないでね。三人で、ここを出るんだから」
疑うような藍華の声に、僕は思わず足を止めた。自分の考えを読まれたようで冷や汗が出る。藍華の言わんとしていることは、僕自身よく分かっていた。独りよがりな行動はいけない。そう思えば思うほどに、誰も傷つかない結末を望むほどに、自己犠牲的な行動が増えていく。今でもなお、僕は独りを恐れている。嘲笑が零れた。変わる決意をしたというのに、僕はまるで変われていないではないか。僕はただ前を向いただけで、前進したわけではない。
僕の進む道はどこにあるのだろうか。
「いきなりどうしたんだい? 大丈夫、無理なんてしないよ。藍華こそ、辛かったら遠慮せず言うんだよ」
僕は後ろを振り向かないで言う。どんな顔をしていいか分からなかった。今はただ、ここから出るという目標があるから前進していられる。しかし、ここから出たら、僕は目標を失う。一本しかなかった道が枝分かれして、正しい道がどれなのか分からなくなってしまう。今の僕にできることは、三人でここを出るために藍華を守ることだけだ。そのためなら、僕は傷ついてもいい。そんな思いが、確かにあった。
「嘘。潤、やっぱり無理してるよ。一人で背負おうとしないで……あたしが頼りないせい?」
藍華が足を止める。僕は咄嗟に振り向いた。藍華は僕の考えていることが分かっているかのような口ぶりだ。それはつまり、藍華が僕と同じようなことを考えているということに他ならないだろう。僕は焦った。僕の杞憂に藍華を巻き込みたくはない。
「そんなことない! ……今のこの場所は、多分、藍華のことでできてる。だから、この先に進むと、藍華は僕にとっての閏みたいな、そういう存在に出会うことになると思うんだ。その時のために、僕は藍華にあまり負担をかけたくない。そのために多少の無理は仕方ないって……ごめん」
沈黙が流れる。藍華の信頼が分かるのが辛い。絶対に守ってみせるという自信はある。しかし、そのために自分が無理をしないと断言できない。僕は藍華を守るための手段をそんなに多く知っているわけではない。変化した空間を手探りで進んでいる中で、全員が無事にここを出るというのは困難であると分かっていた。いざというとき、咄嗟の判断で危険を冒さないとも限らない。それを心配する藍華の気持ちも分かる。僕だって藍華に無理してほしいとは思わない。保身はもう嫌だ。動くことを恐れて立ち止まっていては、きっとここから出られない。そんな気がした。
「お願い……お願いだから、そうやって一人で頑張らないで。あたしだって、何かしたいよ。だってここは、あたしが作った空間だから。……分かるの。このまま進んだら、もう後戻りはできない。でも、今のままじゃだめだって。でも、あたし、どうしていいかわからないの。頑張らなきゃって思えば思うほど、本当にあたしにできるのかなって……」
藍華は泣いていた。
僕はふと、トロイの木馬の話を思い出していた。データは夢。潜伏期間は現実。破損は挫折。藍華は現実を知ってしまった。そのために彼女は自分に自信が持てないのだ。夢破れた時からずっと、藍華の時計は止まってしまっている。ちょうど僕の腕時計が壊れ、動かなくなってしまったのと同じように。
しかし、彼女は僕とは違う。僕には夢があるという状態が分からない。どんなこともそれなりにできればそれでいいというスタンスで今まで生きてきた。一つのことに執着したという経験がない。だから、閏年計画は変化したのだ。僕の世界と藍華の世界はこうも違う。不気味ながら鮮やかな僕の世界と違い、藍華の世界は一見華やかに見えてその実荒廃している。見た目では分からなくとも、心は傷ついているのだ。藍華は僕が思うよりずっと繊細で、傷つきやすいのだろう。なのに藍華は強がって、平気な振りをしている。何かしないと前進を感じられない僕のように、彼女のまた、行動しないと自分に自信が持てないのだろう。そう考えると、先程の僕の行動は失礼極まりない。考え過ぎかもしれないが、改めて考えるとここに来てからというもの藍華はずっと無理をしているようだった。この世界の有様が、藍華の心情そのものだとしたら。そう考えると、背筋に悪寒が走った。
「藍華。君はもう十分頑張っているよ。こんな歪んだ世界で、必死に戦ってるじゃないか。いいかい? これは慰めでもなければお世辞でもないよ。今の僕は思ったことしか言わない。藍華が本当に頑張ってると思うから言うんだ。だからさ、藍華は藍華のペースでいいんだよ。焦って道を間違えるのだけは、だめだよ」
「でもっ……! あたしのせいで、雨帝が助けられなくなったら……」
藍華が涙声で訴える。やはり藍華は恐れているのだ。自分の努力が無駄になることを。自分が必要とされないことを。
ここは鏡の世界。いつでも誰かに見られている。いつでも誰かに評価される。
「怖いのっ……ナビゲーターのパスワードがあたしの名前で、トロイの木馬で、青いバラで——。進めば進むほど離れてくような気がしてっ」
出会ったころの、幼い口調の藍華を思い出す。自分のしたことを悪いとは思わないと言った彼女を。正義のヒーローにはなれないのだと自嘲した僕自身を。そして、自信に満ち溢れた荒井雨帝の背中を。
現実に近づけば近づくほど、脆くなっていく藍華の心を。
「藍華!」
「っ——!」
慌てるあまり、語調が強くなってしまう。藍華はびくりと体を震わせた。僕が怯えさせてどうする、と、僕は僕自身を叱咤する。
「あ、えっと、ごめん……。藍華、その……僕、何かしなきゃって、そればかり考えて、藍華の気持ちも考えないで……ほんと、ごめん! でもさ、藍華。僕だって、藍華の役に立ちたい。まぁ、僕にできることなんてたかが知れてるけどさ。それでも、もう、ただ見てるだけは嫌なんだ! ちゃんと二人で頑張りたい。足りない所は補いあって、どちらかだけが背負うんじゃなくて、一緒に背負いたいんだ。それに、ほら——青いバラの花言葉は一つだけじゃない。奇跡だって、青いバラの花言葉だろ?」
自分でも何を言っているのか分からなくなってくる。口調までおかしくなっている気がする。自分の思っていることを他人に伝えるのは難しい。今まで取り繕ってきた僕にとっては特に難関だった。それでも伝えたいことがある。
「だからなんていうか……あああもう! とにかく! 藍華はもうちょっと僕を頼りなよ! 分かった?」
半ば叫ぶようにして宣言する。気づくと藍華が同じ段に降りてきていた。もう泣いてはいないようだ。安堵とともに不安が押し寄せる。本当にこれでもよかったのだろうかと考えずにはいられない。
しかし、藍華の反応は意外なものだった。
「……うん、分かった。頼るね。やっぱりちゃんと話さないとね。潤だって、ちゃんと話してくれたんだもん」
藍華の両手が僕の両手を包み込む。その手は小刻みに震え、氷のように冷たい。いつもより小さいように感じた。言葉はどこか自分に言い聞かせるような重みを孕んでいる。それでもその口元には、微かな笑みが浮かんでいた。無理をしているようには見えない。むしろ、少女のような不安定で幼い面立ちだった。その表情は、かつて五歳の少女になっていた時のものでも、先程のような切迫した表情でもない。僕の行動が正しかったかどうかは分からない。ただ、藍華の中で何かしらの答えが出た、ということだけは分かった。
「本当に? 怒ってない?」
「怒ってないよ。ただ、なんか、潤と話してたら、色んなこと思い出しちゃって。そしたら、不安になっちゃったの。ほら、ここ暗いし、余計に、ね。でも、潤は逃げなかったって。ちゃんと自分と対峙してたなぁって思って。ここで逃げたらあたし、きっと後悔する。自分を嫌いなっちゃいそうだよ。だからね、今の内にいっぱい後悔するよ。これまでのあたしを、無駄にしたくないから」
これまでの藍華。
それはおそらく、夢を抱いて、夢に破れて、自分に限界に作ってしまった彼女自身のことだ。藍華の過去を僕は知らない。それを臭わせる発言はあっても、はっきりと口に出したことはなかった。きっとそこに、この世界の鍵があるのだ。この世界の制約を無くすための、小さな鍵が。
「とにかく、まずは下に降りてみよう。少なくとも上よりは平和だと思うよ」
「……うん。降りたら話すね。ちゃんと、話すから」
僕らは再び歩き出す。今度は二人並んで、右手と左手を繋いで、一緒に段差を降りていく。二人三脚のようだ。片方が転べばもう片方も転ぶ。だから二人で協力して、転ばないように、少しでも前に進んでいく。
「藍華、あれ……扉、かな?」
「んー、暗くてよく見えないけど、かも、しれない」
繋いでいない左手で側面の壁に触れる。辺りはもうほとんど真っ暗だった。しかし、目が慣れてきたのか、うっすらと前が見える。そのまま手を前にスライドさせると木でできた何かにあたった。ドアノブが見える。どうやら扉で正解だったようだ。
「……開けるよ」
藍華が無言で頷く。僕は手に力を込め、ドアノブを押した。光が漏れる。
「何……これ……」
扉の先、広がっていたのは花咲く一筋の道だった。
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