虚数
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その言葉と対応していたかのように、世界は一気に崩壊を始める。僕は背後で悲鳴を上げる藍華を支えるように立ちながら、雨帝に手を伸ばした。雨帝は呆れたように微笑んでから、僕の手をそっと握る。壊れそうな感覚が伝わって、僕は一瞬手を離しそうになる。そんな僕の手に気づいたのか、藍華が僕たちの手を両手で包み込んだ。二人同時に驚いてから、真面目な藍華の顔を見て息を呑む。
彼女は、半泣きだった。
「行こう、行こうよ。ここから三人で出よう。雨帝が現実にいなくても、きっと出る方法があるはずなんだよ。あるよ。絶対ある。だから今は走ろう。出口なら、きっとどこかにあるから」
言い聞かせるように藍華が言う。僕と雨帝は顔を見合わせてから大きく頷いて走り出した。雨帝と藍華が二人で並び、僕一人が先行している形だ。藍華はロングスカートのせいで走りにくそうだった。そんな藍華を気遣いながら走る雨帝の姿は流石としか言いようがなかった。
ちょうど一周したぐらいのところで藍華が立ち止まって息をついた。かなり息があがっている。雨帝が覗き込んで何か聞いているようだったが、緩やかに首を振るだけしかできないようだった。
「藍華、大丈夫? 少し休んで——」
「駄目、だよ! もっと探して、どこかに出口があるから、探さないと。あたし、こんなところで、諦めたく、ないよ」
食い気味に叫んだ藍華は、ふらつく体を庇いながらよろよろと歩き出した。息は荒く、かなり無理をしているように見えた。雨帝も同じことを思ったのか、すぐさまかけ寄っていく。僕も彼女に近づいて声をかけようとした。
でも、かけられなかった。
その理由は彼女にはない。
彼女には、ない。
「もう……無理しないで下さいよ、藍華。私は今、もしかしたら外に出られるんじゃないかなんて期待しちゃってるんです。だから、今ここで無理しないで下さい。いいですね?」
「……うん」
こんな会話を聞かされては、他にかける言葉など見つかるわけがない。きっと僕の不甲斐ない言葉では地割れの音に掻き消されてしまうだろう。そんな言葉なら、今は必要ないと思った。
そういう話は、ここを出てからしよう。
三人でここを出て、そのときに話すんだ。
雨帝の言葉で、そんな風に、思った。
「それじゃあ、行こ——」
言い終わりかけた、その直後、地鳴りのような轟音が響いた。空気が揺れているのが目に見えて分かるほどの振動が伝わってきた。その音のする方を三人同時に凝視する。
そこは今いる場所の真下だった。
「まずいっ……このままでは空間が持たない——!」
「潤! 早くこっちに来ないと、危ないよぅっ!」
「うん……うわっ!」
藍華がそう言ったときにはもう遅かった。完全に崩壊を始めた閏年計画の世界は、その地割れによって僕らを分断した。正確には、分断されたのは僕一人である。僕のいた場所——つまりあの防音室のあった場所の近くは、一部だけ陥没し始めていた。二人のいるところと僕のいるところで一メートル近い段差がある。どうにかできないこともないだろうが、どうにかするより早く足場が崩壊しそうだった。
つまり、ゲームオーバー。
絶体絶命。
不可能という壁が立ちはだかる。
「現実に戻るのは無理……? そんなの、まだ分からないだろ?」
少なくとも、そう思っていたいというのが本音だった。最後の最後で僕は素直じゃない。しかしそれも僕らしく感じられて心地よかった。場違いな感情だと言うことは分かっている。それでも今は、信じていたかったのだ。
「……ええ、その通りです」
僕の言葉に、雨帝は強い口調で答えた。見上げても首から上しか見えない。だから分かった。
崩壊の浸食は、雨帝にまで及んでいた。
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